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2014年8月31日 (日)

吉丸一昌の時代_第5章 バッシング

明治44年は37歳の吉丸一昌が飛躍を誓った年だった。


元旦に帰省先の大分臼杵で前妻の墓参りをし、前妻と故郷に別れを告げた。心の整理をしてまた新しい決意で音楽活動に打ち込んだにちがいない。3月の帝国劇場開会式のためにダンス歌曲《いざさらば行け》を書いたが、その題は自らの思いを注ぎ込んだかのようである。[1]


4月に武田交盛館から『修身訓話』『立志訓話』『武士道訓話』の精神修養3部作を出版した。5月には男子生徒36人を引率し、春季演奏旅行に出た。甲府・松本・長野・高田・新潟・長岡をめぐる8泊9日の旅行は、地方で洋楽への関心を高め、『音楽界』に「楽界空前の壮挙」と短信記事が載った。演奏された歌曲のうち《河瀬の流れ》《春のたそがれ》《浦のあけくれ》など一昌自身の作詞である。


文部省音楽講習会の講師に


5月から6月にかけてついに文部省『尋常小学唱歌』が発行される。5月8日に第一学年用、6月28日に第二学年用で、計40曲ある。このうち9曲は前年の暫定教科書『読本唱歌』ですでに掲載済みだったが、残りの31曲は初めて公表された。国語など他の教科と連絡し、すべて日本人が作詞作曲したという点で画期的な唱歌教科書だった。このあと長年にわたって教育現場に大きな影響を与えることになる。雑誌『音楽』と雑誌『音楽界』はいずれも明治44年12月号で、この年の音楽界の5大ニュースに掲げ、歴史的な出来事としている。[2]


編纂当初の明治42年時点では2年間で編纂を終える予定だったが、2年がたち完成したのは第1学年と第2学年、つまり3分の1にすぎなかった。最終の第6学年が発行されるまでまだ3年を要することになる。


『尋常小学唱歌』は合議で編纂されたので、曲ごとに作詞者作曲者は記されていない。しかし、外から見れば東京音楽学校の教授陣がかかわったことは明らかで、雑誌『音楽』などと見比べれば、吉丸や島崎や岡野であろうことも容易に想像できることである。


作歌家としての吉丸一昌の名は、雑誌『音楽』に歌詞が掲載されはじめた明治43年から関係者の間に知られていた。その名をさらに知らしめたのは明治44年7月25日から7月31日にかけて開かれた文部省主催の音楽講習会である。正確には師範学校中学校高等女学校教員等講習会という。


この講習会は、全国各地の師範学校の音楽教員が対象で、42人が参加した。一昌は島崎赤太郎や岡野貞一とともに嘱託講師をつとめた。内規では3年に1度開かれることになっていたが、校長の湯原が発案して前年に続く開催となった。前年は島崎・岡野のほかに神戸絢(教授)と久野久(助教授)も講師をつとめていたが、この年は神戸と久野は外れ、一昌が選ばれた。講習内容は、『尋常小学唱歌』に関してで、島崎が伴奏について、一昌が歌詞について、岡野が練習についてだった。ちょうど7月30日には、島崎とともに校閲した教師用解説書『尋常小学唱歌伴奏楽譜歌詞評釈』第1学年用が発行されている。[3]


音楽講習会の記念写真が、『音楽界』明治44年9月号に掲載されている。参加者と、真ん中に湯原、その両脇に一昌と島崎、そして一昌の横に岡野が映っている。当時の人間関係を示唆しているようで興味深い。


文部省の講習会を終えて、校長の湯原は約1か月後の9月21日から1年間の欧米視察に出かけることになっていた。通俗教育、いまでいう社会教育の視察である。風紀問題がひとまず収まって学校内の人事案件もかたがついた。尋常小学唱歌の編纂も軌道にのり、あとは吉丸や島崎に任せておけばよい。そう判断したのだろうか。


週刊誌『サンデー』の攻撃


嫉妬排擠。「しっとはいせい」と読む。人をねたみ、陥れることをいう。雑誌『サンデー』で「嫉妬排擠の中府東京音楽学校」という連載が始まったのは、明治44年9月である。風紀問題をめぐって新聞と雑誌の音楽学校バッシングが行われたのは明治41年から42年にかけてだった。その後、幸田延・武島羽衣・田村虎蔵・天谷秀たちが退職することで、それは終息したかに見えていた。しかし火はくすぶり続けていたのである。それは校内の人間関係のひずみがいかに根深いものであったかを物語る。


明治時代の音楽関係記事はこれまで『日本の洋楽百年史』(1966年)や『東京藝術大学百年史』東京音楽学校編(1987年)などの資料集成で復刻されてきた。しかし、この連載記事「嫉妬排擠の中府東京音楽学校」だけは収録されなかった。専門の研究者たちが見落とすはずはなく、誹謗中傷が多い記事と判断して見送ったにちがいない。


「嫉妬排擠の中府東京音楽学校」はたしかに悪意に満ちた表現が多い。もっとも罵詈雑言を受けた人物は吉丸一昌と富尾木知佳である。一昌については、もう一つの「蛮カラ列伝」という新聞記事もある。この2つの記事によって、吉丸一昌の人物像は誤って認識され、後世の研究者や文筆家たちもそれに引きずられて来た可能性がある。[4]



雑誌『サンデー』は明治41年11月22日に創刊されたいわゆるタブロイド判で、日本で初めての週刊誌だという。発行者は初め太平洋通信社で、明治43年7月3日の83号から週報社となった。森山守次という人が、政界の黒幕などと呼ばれた杉山茂丸(1864-1935)の支援を受けて立ち上げ、『東京日日新聞』の主筆をつとめていた朝比奈知泉(1862-1939)らが記事を書いていた。


「嫉妬排擠の中府東京音楽学校」は、9月第3週の145号から12月第1週の156号まで12回連載された。各回とも1ページで写真付きの読み物である。74人の人名が出てくる。このうち約半数は音楽界の関係者、18人が音楽学校の教員である。相当の事情通から取材しなければ書けないような内容が含まれている。


書き出しは、校長の湯原元一(1863-1931)を褒めながら敵に回すといういきなり老獪な文章である。湯原は9月21日に1年間の欧米視察に出発した。10月第1週の第3回(147号)にわざわざ「愈々秘密に入る」と副題を添えたところをみると、周到に準備し、湯原の不在を狙って執筆されたのだろう。


10月第2週の第4回(148号)から攻撃の筆は勢いを一気に増し、10月第3週の第5回(149号)は富尾木を槍玉にあげた。


松崎天民「蛮カラ列伝」


明治44年9月から10月にかけて、『東京朝日新聞』は「蛮カラ列伝」という連載を展開した。西洋風の身なりをしたハイカラに対して、身なりを気にせず男気あふれる人物を取り上げた企画である。筆者は探訪記者として知られた松崎天民(1878-1934)。[5]


10月6日付の第10回には、恩師である芳賀矢一が「『布袋』さんの芳賀博士」で登場し、10月21日付の第20回は吉丸一昌が「犢鼻褌(ふんどし)踊の生徒監」というタイトルで取り上げられた。


約1400字の記事の書き出しはこうである。


酒を飲まずに居る所を見れば、蟲も殺さぬ様な優男だけれど、會心の友ありて盃を重ねんか、酔未だ十分ならざるに、忽ち性来の蛮性を暴露して、一座の面々を驚倒せしむる一漢子あり


続けて、ふだんは温順な学者だが、酒を飲んで醉うと奇抜で奔放な人物に変身する、と書く。警視庁の太田一部長や江木法學博士など約120人の蛮カラと呼ばれる人たちが同明会と組織して年に2,3回飲み会を開いている。その会で宮崎滔天や佐々木照山や太田一部長と撲り合いのけんかをした、という。また、3年前のある宴席でふんどし踊りを行い、舞妓の頭にふんどしを巻いて気絶させた騒ぎが紹介される。最後は次のように締めくくられる。


斯うした情調の高い先生が音楽學校に居ることを面白いと思ふ、豊後生れでも豊後臭からず音楽學校の先生でありながら、少しも音楽學校の臭気がせぬ所、其處が吉丸一昌の生命である(T)


褒めているのか茶化しているのか、煙にまくような文章だ。書かれた側にすれば、面白い読み物の種にされた感がある。連載に恩師の芳賀も取り上げられたくらいだから、この程度の書かれ方でとやかく言ってもしかたがない。新聞記者は学校にまでわざわざ取材に来たし、記事は大学時代の道場破りの武勇伝や苦学生のための修養塾の経営について一応触れてあり、好意的な一面もあった。


一昌は新聞記事に反応しているほど暇でなかった。翌22日午後7時半には学友会女子部の演奏旅行に出発しなければならず、その引率で頭の中はいっぱいだった。この旅行は、助教授の岡野貞一と生徒掛の鈴木近とともに女子学生62人を連れて、大阪・奈良・京都・名古屋をめぐる6泊7日の旅である。日中に汽車で移動し夜に演奏会を開く。行きも帰りも2泊は夜行汽車で泊るというなかなか強硬な日程だった。[6]


「練心不足なり」


問題は週刊誌『サンデー』の連載「嫉妬排擠の中府東京音楽学校」の方だった。


東京音楽学校で校長に次ぐ実力者だった富尾木知佳への糾弾が終わると、10月第4週の第6回(150号)後半からは、生徒監の一昌への攻撃がはじまった。


10月第5週の第7回(151号)は、見出しを並べてみただけでその内容が想像できよう。「吉丸氏は腕力家/二階から小便/毎日夫婦喧嘩/衣服にまで干渉す/生徒に猿轡を鉗む/女舎監丹下花/厳重なる手紙の検閲」。尋常小学唱歌の歌詞がつまらないなどと仕事の内容を批判されるならともかく、夫婦喧嘩まで持ち出されてはただあきれるしかなかった。誹謗中傷は11月第1週の第8回(152号)前半まで続いた。


一昌の日記をベースにした評伝『望郷の歌 吉丸一昌』には、この記事への一昌の反応が紹介されている。


十一月三日 天長節式典後、島崎赤太郎、岡野貞一氏と飛鳥山に散歩する。

上野停車場にて十月二十九日のサンデーを買って読む、「東京音楽学校・吉丸一昌」の批判的記事である、島崎、岡野二氏は驚き激怒するが、吉丸は笑っていた。

始めての王子大塚線の私設電車に乗り、吉丸の家にて挙杯する。

記事は不快に感じていたのだろう、「人間は弱き動物かな。男七人の敵は必ずあるべきなりとは思へど罵らるれば怒り、賞めらるれば喜ぶ、いまだ練心不足なり」と記している。


男七人とはどういう意味なのだろう。現代ならば名誉毀損で司法に訴えたり報道倫理審査会などにかけたりする対抗手段もあるのだろう。練心不足というのがいかにも武道家らしい。


『音楽』明治44年11月号の「楽壇時評」には、わずかな反論がうかがえる。それは「音楽界の一美風」と題した約400字の短文で、学生の演奏旅行に行った際、演奏会を開くのに地方にいる卒業生が尽力してくれるのを引き合いに、次のように綴っている。


この美風は我學校の傲りとしていつ迄も保續して行きたい。世の中には嫉妬、排陷を事としてゐるやうに想像してゐる人があるが、それはまだ立ち入って我音樂界の眞想を見たことのない門外漢の當推量として笑って置いてよい。


『サンデー』の連載は12月第1週の156号まで続き、女性教員や外国人教師たちが相次いで犠牲になる。そんなさなかの11月15日、菊花拝観いまでいう秋の園遊会が赤坂離宮で開かれた。一昌も招待され、皇后に会って神饌をいただく名誉。その時の日記。


両親ましませば如何に喜びたまふらんを嗚呼


両親も生きていれば喜んでくれたろう。悪いことも好いこともいろいろあるなあ。


年が明けて明治45年1月4日、一昌は島崎・岡野と箱根へ2泊の温泉旅行に出かけた。一昌を励ますため島崎が言い出したのだろうか。忌まわしい記事を忘れ去って、心機一転がんばろうということか。


中傷記事にも学問的示唆


週刊誌『サンデー』のネガティブキャンペーンはどんな影響があったのか。それは今のところ不明である。一昌を陥れようとする意図は、記事中に悪く言われていない人物やあたかも被害者のように記されている人物の人間関係を細かく分析すれば、いずれ見えて来るであろう。


雑誌『サンデー』は国会図書館デジタルコレクションで制限付き公開され、足を運べば閲覧できる。連載「嫉妬排擠の中府東京音楽学校」はたしかに誹謗中傷の類であるが、資料としてみると学問的な示唆を提供している。


その一例は《春の野川》である。連載第7回に添付された写真は一昌本人の和服姿と《春の野川》の楽譜と手書き歌詞である。和服姿は8月の文部省音楽講習会のときの記念写真をトリミングしてあり、おそらく『音楽界』9月号に掲載された写真を流用したのだろう。《春の野川》の楽譜と手書き歌詞は雑誌『音楽』7月号からとったものである。


《春の野川》(岡野貞一作曲)

野辺の小川のささやきに

 しばしたたずむ草の上

雪の高嶺を遠くして

 白雲をかし 春の空



岸の菜の花低くして

 葦は角ぐむ一二寸

風はそよそよと水の上

 波輪を見せてすべりゆく


『音楽』2巻7号(明治44年7月)


この歌詞は、「菜の花」「角ぐむ」などの言葉が使用されている点が注目される。『尋常小学唱歌』第4学年用(大正1年12月15日発行)の《春の小川》や、『新作唱歌』第3集(大正2年2月5日)《早春賦》とも関連して、なかなか興味深い。


《春の小川》は「高野辰之作詞」は誤りで、「下村炗原案」であるとみられる。『小学唱歌教科書編纂日誌』の明治43年1月18日に下村炗に《春の川》の歌詞を依頼したとある。下村炗は武島羽衣と帝大国文学科で同級生であり、尋常小学唱歌では《冬の夜》や《菅公》の作詞依頼も受けている。


下村炗と一昌の詩想の違いに注目である。「春」と「川」というキーワードをもとに、《春の野川》と《早春賦》、そして、北村季晴が編纂した『唱歌教科書』第3巻(明治35年)に収められている《故郷の小川》、楠美恩三郎『オルガン軌範』(明治43年)のなかの《柳の小川》《小川》も視野にいれた専門的な研究が求められている。



[1]吉田稔『望郷の歌 吉丸一昌』(1988年)p48。


[2]「明治44年を送る」『音楽界』明治44年12月、p6。第1が東京音楽学校長の昇叙と欧州派遣、第2が尋常小学唱歌の発刊、第3が文部省主催の音楽講習会、第4が海軍音楽隊の派英、第5が東京音楽学校生徒らの演奏旅行、第6が帝劇管弦楽の設置。これを執筆したのは音楽教育会の専務理事、山本正夫で、やや音楽教育に重点を置いた順位判断である。


[3]文部省講習会は、文部省告示第193号(『官報』8399号明治44年6月22日)で確認できる。この6月22日に一昌は講師の嘱託を受けている。受講資格は師範学校教員だった。講習要目は、「尋常小学唱歌伴奏に就て」教授島崎赤太郎、「尋常小学唱歌歌詞に就て」同吉丸一昌、「尋常小学唱歌練習に就て」助教授岡野貞一、だった。湯原元一の書いた「音樂敎師の爲に言ふ」「唱歌敎授の缺陷に就きて」という小論(湯原元一『教育改造と社会』大正10年)を読むと、湯原が音楽教授の珍妙さをいぶかしんでいた様子がよく分かる。43年の例から推測すると、8月12日が最終日で記念撮影と演奏会も開かれたとみられるが、講習会の詳細は不明である。


[4]たとえば、『童説』再刊13号(昭和46年3月)に、富永次郎が柳兼子からの聞き取りで書いた文章。


当時は男女の別がひどく厳しかった時代で、混声コーラスは別としても、男女による二重唱は許されていなかった。しばしばそういう企てをしたが、いざ発表の段どりにいたると生徒監(当時、吉丸一昌)の注意で差し止めになり、声楽教師のペツォルト夫人をおどろかし、学生をなげかせた。


この逸話を引用したのが、岩崎呉夫『音楽の師 梁田貞 人とその作品』(1977年)。この話は展開して、一昌の講義中に梁田が質問をして一昌が兜を脱がざるを得なかったという逸話へとつながる。p83-84。さらに岩崎氏は、一昌の代表作『幼年唱歌』『新作唱歌』は一昌のワンマン的な企てで、そこに曲を提供した梁田は半ば"命令"されて作曲したのではないかと推論する。そして、梁田は唱歌童謡に深入りしたために本格的な作曲活動ができず、「"功罪"相半ばする"運命"をもたらすきっかけ」とまで記している。p127-128、p148。吉丸一昌の人物像を十分に調べて記されたのか疑問である。夢一ペン冬『わき出づる国歌 吉丸一昌 魂の貴香花』(2006年)では、梁田が吉丸の書生をつとめていたとあるが、根拠は示されていない。p155。


雑誌『サンデー』と東京朝日新聞の「蛮カラ列伝」の影響を受けたのは、5年後の『萬朝報』大正5年3月8日の死亡記事。ここで宴会での「ヒュラ踊」が書かれてしまった。その約30年後に、小松耕輔が『音楽の花ひらく頃』(1952年)で「性質極めて磊落で邊幅を飾らず、奇行も亦多かった。酒は最も彼の好むところで、醉うと忽ち蹌々踉浪として『シューラ、シューラ、シュラ男』と歌いながら踊り出すのである」「『シューラ、シューラ、シュラ男』というのが、どういう意味かわからないが或いは修羅男の意であったかも知れない」と書いた。その後、小松の回想記を参考にしたと見られる記述は少なくない。


「ヒュラ男」がいつの間にか「シュラ男」になり、金田一春彦は著書『十五夜お月さん 本居長世 人と作品』(1983年)で、阿修羅の意味でないかという推論を紹介している。余興でふんどしがヒューラと舞っていただけであろうに阿修羅にされてしまうとは、諧謔を得意にした吉丸一昌もあの世で喜んでいることであろう。


[5]「蛮カラ列伝」は第1回が9月26日付、最終回の第23回が10月27日付。この連載は3年後に単行本『万年筆 社会観察』(磯部甲陽堂・大正3年)に収められた。後藤正人『松崎天民の半生涯と探訪記 友愛と正義の社会部記者』(2006年)、坪内祐三『探訪記者 松崎天民』(2011年)を参照。


[6]『音楽』2巻11号。関西で開かれた演奏会は、器楽曲や声楽曲が中心だが、最初と最後に尋常小学唱歌の合唱が行われた。披露されたのは《おきあがりこぼし》《池の鯉》《紅葉》《雪》の4曲。選曲に一昌がかかわっていたとすれば、《紅葉》をふくめて4曲とも一昌が原案を書いた可能性が出てくる。

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