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2014年6月16日 (月)

吉丸一昌の時代_第2章 音楽学校改革

教授陣の顔触れ


吉丸一昌は明治41年4月21日付で東京音楽学校に赴任した。[1]教授兼生徒監で、学科の担当は倫理・歌文・国語の3科目である。倫理は予科本科と師範科(甲種・乙種)で各週1時間、歌文は本科で12時間。国語は予科と師範科にあり、教授の武島又次郎と分担したものとみられる。関連科目では、漢文と唱歌解釋は教授の鳥居忱が担当、歌文は文部省図書審査官で講師の吉岡郷甫も担当した。倫理は前年度まで金森小壽という講師が担当していた。


2年目の明治42年度から関連科目が国語に統合されたことから、一昌の担当は国語と新設の修身の2科目となる。


初年度の教授陣をいまいちど確認しておこう。


教授陣を年齢順に並べると、最古参の鳥居忱54歳、校長2年目の湯原元一44歳、そして実力者の幸田延38歳がいる。武島羽衣(又次郎)・吉丸一昌・橘糸重・富尾木知佳・島崎赤太郎の5人が33歳から35歳の同世代だったことになる。


校長を含めた11人の中で、湯原元一と橘糸重と島崎赤太郎は一昌にとって旧知であった。橘と島崎は官吏としては同じ高等官だが、その級階や勲等は一昌が下である。勤続年数から、幸田延や武島又次郎の位の高さが際立っている。



吉丸一昌
吉丸一昌 左から1909年、1910年、1911年、1912年
 『東京音楽学校創立五十年記念』アルバム(1929年)※県立長野図書館蔵・北村季晴関係史料


湯原元一
湯原元一 左から1908年、1910年、1911年、1916年
 『東京音楽学校創立五十年記念』アルバム(1929年)※県立長野図書館蔵・北村季晴関係史料


島崎赤太郎
島崎赤太郎 左から1901年、1907年、1910年、1916年
 『東京音楽学校創立五十年記念』アルバム(1929年)※県立長野図書館蔵・北村季晴関係史料


橘糸重
橘糸重 左から1901年、1906年、1912年、1916年
 『東京音楽学校創立五十年記念』アルバム(1929年)※県立長野図書館蔵・北村季晴関係史料












東京音楽学校主な教職員(教授以上の幹部のみ、明治41年)
湯原元一44歳1863-1931【校長】※帝大明治17年卒(22年卒=教育学)。[4等4級・正六位勲五等]
幸田延38歳1870-1946【技術監】ピアノ和声学[3等7級・従五位]
鳥居忱54歳1853-1917【分教場主事】倫理・漢文・唱歌解釈[3等10級・従五位勲六等]
武島又次郎35歳1872-1967国語※帝大国文学科明治29年卒。[3等7級・従五位文学士]
富尾木知佳34歳1874-1917【幹事・教務掛主任】音楽史・美学※帝大哲学科明治31年卒。大学院で「美学及ビ美術史ニ関スル事項」専攻。[4等7級・正六位文学士]
橘糸重34歳1873-1939ピアノ[5等10級・従六位]
安藤幸29歳1878-1963ヴァイオリン[5等10級・従六位]
島崎赤太郎33歳1874-1933【技術監】オルガン・和声学・楽式一班[6等10級・正七位]
吉丸一昌34歳1873-1916新任【生徒監・生徒掛主任】倫理・歌文・国語※帝大国文学科明治34年卒。[6等12級・文学士]
今井新太郎37歳1871-1947[7等(年500)・従七位]
乙骨三郎26歳1881- 1934新任【図書掛主任】ドイツ語・英語※帝大哲学科明治37年卒。大学院で「美術ノ起源及ビ其ノ發展ノ法則」。明治40年9月赴任。[7等12級・文学士]






吉丸一昌を取り巻く人たち(明治41年)
狩野亨吉42歳1865-1942京都帝國大学文科大学学長・教授(倫理学講座担任)※帝大哲学科明治24年卒。[2等4級・正五位理学士文学士]
上田萬年41歳1867-1937東京帝國大学文科大学教授(国語学・国文学第一講座担任)・文官普通試験委員※帝大和文学科明治21年卒。[2等5級・従四位勲四等文学博士]
芳賀矢一40歳1867-1927東京帝國大学文科大学教授(国語学・国文学第二講座担任)※帝大国文学科明治25年卒。[3等10級・従五位勲六等文学博士]
吉岡郷甫32歳1876-1937文部省図書課図書審査官(視学官)※帝大国文学科明治32年卒。よしおか・くにすけ。[6等4級・正七位]
高野辰之32歳1876-1947文部省図書課属[4級]

『東京音楽学校一覧』明治40-42年(明治41年6月30日調べ)、『職員録』明治41年(甲)(明治41年5月1日調べ)による。「等」「級」は俸級。


助教授は15人で、楠美恩三郎・田村虎蔵・天谷秀・岡野貞一・前田久八・藤井環などが名を連ねている。田村と天谷は学外に籍があり兼務。講師は21人で、外国人はケーベル(59歳)・ユンケル(37歳)・ハイドリヒ(51歳)・フレック(29歳)・ウェルクマイステル(19歳)の5人でケーベル以外の4人はドイツ出身である。日本人講師としては、一昌と同じ教科である歌文を担当する文部省視学官の吉岡郷甫(くにすけ)(正七位文学士)、オルガン楽理の南能衛などがいる。のちに一昌とともに小学校唱歌教科書編纂委員会の歌詞委員となる高野辰之はこの時点で邦楽調査掛の調査嘱託で、授業を受け持つ教員ではない。


『東京音楽学校一覧』(明治41-42年)の教職員名簿では、「教授」と「助教授」の間に「生徒監」が別記され、特別な職であることがうかがえる。


武島羽衣との確執?


生徒監として赴任した吉丸一昌を周囲はどのように見たのであろうか。


どうしても比較されるのは、同じ帝大国文学科卒で同じ国語担当の教授、武島羽衣である。武島は東京日本橋生まれで、九州大分出身の吉丸より1歳年長である。相当の俊才であったのだろう、帝大の入学・卒業は一昌より5年早い。武島が明治29年卒業、一昌が明治31年入学で入れ違いである。


武島羽衣は帝大在学中の明治28年、創刊された帝国文学会機関誌『帝国文学』の編集委員となった。国文学科卒業後は研究科に2年いて、明治31年9月20日に高等師範学校附属音楽学校講師(国文学・文学史担当)となった。当時は東京音楽学校がまだ師範附属の時代だった。そして助教授を経ず明治33年7月2日付でいきなり教授に昇任している。滝廉太郎作曲《花》や田中穂積作曲《美しき天然》の作詞を手がけたことで名高い。



武島又次郎(羽衣)
武島又次郎(羽衣) 左から1905年、1906年、1906年、1910年
 『東京音楽学校創立五十年記念』アルバム(1929年)※県立長野図書館蔵・北村季晴関係史料

明治41年春の時点で、武島は在職9年半、教授となって7年半もたつ。常に陽のあたる道を歩んできたトップランナーの武島からみると、一昌は日陰を歩いてきた周回遅れのランナーのようなものだった。その一昌がいきなり校長直属の生徒監となったのである。


東京音楽学校は前年の明治40年9月に邦楽調査掛・唱歌編纂掛・楽語調査掛という新しい組織を設けた。邦楽調査掛の設置は、数年来の懸案で、文相への嘆願がたびたびなされていたことが契機になったという。これは世相として和洋調和楽の動きが活発化していたことも無関係ではなく、洋楽偏重を和洋折衷に戻す流れがあったのであろう。


唱歌編纂掛は唱歌教科書の編纂を目的にしていた。『東京日日新聞』明治40年10月4日付によると「去月末より歌詞と曲の一致せる唱歌を作らんとし武島羽衣、鳥居忱氏に作歌を島崎赤太郎、楠美恩三郎二氏に作曲を担当せしめ唱歌編纂掛とし毎年一回宛出版する事となれり」とある。


一昌は明治41年の唱歌編纂掛(12人)の編纂員に選ばれている。武島からみると、中学教諭だった男がいきなり同格の教授で編纂員となり、格上の生徒監までつとめることに内心穏やかではいられなかったろう。確執が生まれたとしても不思議ではない。


武島は明治42年9月、幸田延と同時に休職となり、2年後に辞職した。そして、日本女子大学校(現在の日本女子大学)文学部国文学科教授となった。武島自身が語ったところによると、東京音楽学校は在籍14年で、恩給のつく満15年の直前で未練があったが、校長との折り合いがよくなく退職した、という。[2]


オペラ上演中止事件


吉丸一昌は就任早々いきなり重い問題に直面した。明治41年4月から5月にかけて起きたオペラ上演中止事件である。


東京音楽学校では、グルック作曲のドイツオペラ《オルフォイス》の4月上演に向けて、明治40年末から教員や学生らの練習が続けられていた。ドイツ語のオペラ上演はドイツ通の湯原元一にとって、校長就任後初めての大きな事業だった。主役のオルフォイスは、ドイツ出身の声楽家で秋に講師になったばかりのシャルロッテ・フレック(29歳)、百合姫は助教授の藤井環(23歳)がふんし、ドイツ語と日本語を混ぜて演じることになった。本格的な管弦楽に、パリ上演時と同じような背景セット、3000円(今の価値にして約1000万円)で注文された衣装、出演者80人オーケストラ50人規模という情報もあり、相当に力を入れた舞台になることが期待されていた。[3]


しかし、4月に上演予定だったオペラは突然秋に延期された。夜間の上演は風紀上好ましくないとして、昼の開演に決まったが、照明装置のために発電機を特別に使用しなければならず、経費がかかることが分かった。そのため、校長と教師らが協議して延期に同意したという。しかし世間では、文部省の介入があったのではないかとうわさが立った。


『教育時論』832号(明治41年5月25日)に掲載された記事「歌劇中止の真相」は、校長の湯原に取材した内容を書いている。湯原によると、文部大臣や文部省が中止を命じたことはないという。が、風紀問題が高まりを見せていることを念頭に、湯原はこう弁明した。「文部省内部に多少の異論あるのは事実だが、道徳の範囲内で芸術の研究は許されるべきで、演じてもよいか否かの判断は学校が行う。男女が接吻をやるような事は採用しない」。そして取材記者に対して今年中には開演すると言明した。


そもそも《オルフォイス》は5年前の明治36年に音楽学校と帝国大学の学生有志が演じ、日本人の手による初のオペラ上演という歴史をつくった人気演目であった。学生や教師たちの立場に立てば、上演中止は芸術を知らない役人たちの不当な介入だということになる。


雑誌『音楽界』明治41年8月号に、加川琴仙(勝行)が「歌劇中止に就て」という一文を寄せ、生徒や教師たちの声を代弁して文部省に抗議した。加川によると、文部省は訓示で男女学生が同じ舞台に立つような演劇は演ずべからずという通達[4]を行い、上演の差し止めを命じた、という。これに対して、ユンケル・ハイドリヒ・フレックら教師たちがそろって辞表を出したために、慌てた文部省が中止でなく延期にしたのだという。


加川の記述が正しいならば、国家権力による表現の自由抑圧事件ということになる。しかしこの事件の真相はよくわかっていない。一連の事件を、幸田延ら本科女性教員と島崎赤太郎ら師範科系の反目がくすぶり続け、湯原の決断力の無さに教員たちの不満が募ったと記す研究もあるが、その根拠となる資料は示されていない。[5]こうした反目があったかどうか、校長への不満が募ったどうか、現在のところ確かめようがない。新聞雑誌のゴシップ記事をもとにした推論にすぎないようにも思われる。


東儀鉄笛は、『読売新聞』明治41年8月23日に「オペラ問題」という一文を寄稿し、この時点でも中止の原因は不明であると書いている。


風紀問題を盾に迫る文部省幹部と、芸術を追究する教師と学生たち。その間に立つ湯原は苦しい対応を迫られたであろう。新聞記事には湯原の名前しか出てこないが、校長を補佐する新任生徒監の一昌はその矢面に立っていたはずである。


このオペラ上演中止事件は、その後の東京音楽学校に大きな影を落とすことになる。東京音楽学校奏楽堂では年々音楽会が盛んになっていったが、オペラの上演だけは見送られ、結局音楽学校時代には一度も上演されなかったのである。


過熱する批判報道


オペラ上演問題がおさまるかにみえた明治41年7月、音楽学校を揺るがす記事が『やまと新聞』に掲載された。太田英隆『男女学校評判記』(明治教育会、明治42年2月)には、本記事ではないが、関連記事が再録されている。風紀問題にからむ記事であったらしく、音楽学校は世間の厳しい視線にさらされた。


文部省は対応を迫られた。直轄の専門学校を所管する専門学務局長の福原鐐二郎(りょうじろう)(1868-1932)と湯原は協議して、8月上旬「音楽学校取締方針」を発表した。


一、入学者の素行を一層厳重に審査すること

一、費用の許す限り寄宿舎の設備を完成し多数生徒を収容して之を取締ること

一、現在の教授生徒中素行上如何はしき疑のあるものに対しては既往に溯りて充分の調査をなし相当の措置をなすこと

一、今後同校の風紀を紊乱すべき恐のある職員及生徒は相当の処分をなすこと


新聞雑誌に出てくるのは相変わらず校長の湯原であるが、実務は生徒監である一昌が行っているはずだ。この取締方針が出されても、マスコミの騒ぎはいっこうに収束しない。


『日本新聞』が8月17日に掲載した「音楽生の風紀(音楽学校の大刷新)」では、校友園遊会や修学旅行を槍玉に挙げ、男女別々に行うことになったと報じている。この記事はまだおとなしいほうで、このあとエスカレートしていく。


『やまと新聞』は9月1日から「男女学校評論」を3回連載し、その中で「伏魔殿」「情弊」という言葉を使い、音楽学校を厳しく批判した。取締方針を示したことは一大改革と期待しながらも、校長の湯原は思案に暮れている始末だと書いた。さらに、幸田延の教育者としての資質を疑問視して幸田退陣論を展開した。


『やまと新聞』よりもさらに強い論調だったのは『東京朝日新聞』である。9月14日から25日までの5回連載された「憂ふ可き音楽界」という記事は、「技に於て數に於て男教師に優る女教師に伴う弊風は、常に天下樂界暗流の發源地となれる」と幸田延を標的にし、ハイドリヒら外国人教師たちを著しく侮辱する記事だった。現代のようにメディア倫理検証の第三者機関があれば、間違いなく報道機関側に厳しい判断が下されているケースである。


マスコミのバッシングが激しくなった時点で、幸田延は再三辞意を湯原に申し出ていた。しかし、湯原は後任が見つからないとして慰留した、という[6]幸田は音楽学校の功労者であり、優れた現役の音楽家だった。結局、幸田の休職が認められたのは1年後の翌明治42年9月、辞職は明治44年9月8日付けである。



幸田延
幸田延 左から1901年、1904年、1905年、1906年
 『東京音楽学校創立五十年記念』アルバム(1929年)※県立長野図書館蔵・北村季晴関係史料

当時のマスコミは、幸田を中心にした派閥と、島崎を中心にした派閥との間でいかにも暗闘があったように書いた。が、それには具体的な根拠が全く示されていない。そもそも幸田と島崎との間には、地位の差があまりにも大きく開いていた。幸田は高貴な一面をもつ芸術家であり、島崎はまじめな学究肌の人物で政治的な行動をとるような人物には思えない。[7]はっきりした証拠もないのに策謀があったなどといえるのであろうか。幸田の活躍をよく思わず男尊女卑の考えをもつ男性たちのリークを受けて、男性記者たちが幸田退陣論が作り上げていったと見るべきであろう。


東京音楽学校の風紀問題は明治42年になってもなかなか収まらなかったようだ。『読売新聞』明治43年1月29日によると、東京音楽学校校長の湯原元一は学校の新しい方針を次のように定めた。


  • 語学の奨励 外国人の講義を聞き、曲想の理解を深める。

  • 芸術家要請 クワルテットとクインテットを週4回教える。教師本位でなく生徒本位の授業とし、主任はウエルクマイステル。

  • 男子本位 女子本位の従来の傾向を改める。

  • 生活問題と倫理教育 演奏家では社会的自立した生活ができないのが現状。家庭教師で人格問題も起きているので、倫理教育を重視する。

このうち、4番目の倫理教育では、「倫理教育に重きを措き暫く蛮カラの(そしり)を甘受して学校の風紀を振肅する方針を採りつつあり」と記されている。「蛮カラの謗を甘受」というあたりに湯原の苦しさが表れている。一昌は蛮カラ先生であったから、おそらく一昌への批判も学内外で起きていたのであろう。


マスコミの東京音楽学校批判は明治44年にさらに陰湿で容赦のないものになる。



[1]一昌は東京音楽学校着任後も東京府立第三中学校でも引き続き1年間、嘱託講師として教鞭をとったことから、転任が急に決まったのでないかとも推測されるが、真偽はわからない。


1学期は4月1日に始まり、春休みが10日まで、11日が日曜日で、翌12日から実際の始業であったとみれば、たしかに4月21日の赴任はやや遅い。


吉丸一昌研究の基本書である『望郷の歌 吉丸一昌』(1988年)では、東京音楽学校着任を明治42年4月と記しているが、間違いである。第三中学校の在籍が明治42年3月31日までなので、それに引きずられたためのようだ。その後の岡田孝一『吉丸一昌 日露戦争と府立三中』(2007年11月、淡交会資料室委員会)も同じ誤記を繰り返してしまった。注意が必要である。1988年時点での資料調査には限界があり、その後、唱歌教科書編纂関係の資料などが公表されているので、いま一度、一昌の日記を精密に読み解く必要が出てきている。


『吉丸一昌 日露戦争と府立三中』によると、府立三中への着任については、第一高等学校長の狩野亨吉が明治35年の2月か3月、府立三中奉職の話を持ってきたと一昌自身が回顧している。


[2]『東京芸術大学百年史』東京音楽学校篇第2巻(2003年)によると、武島は明治42年9月9日付で休職、明治44年9月8日退職となっている。休職辞令は明治42年9月11日付『官報』7866号。文官分限令第11条第1項第4号による辞令。同じ日に幸田延も同様に休職辞令を受けている。武島の回顧は、「武島羽衣年譜」『明治文学全集』41のp406による。吉田稔『望郷の歌 吉丸一昌』では、一昌が他の教授と一緒に武島とも酒を飲んだという記述がある。とすれば、一昌は武島のことを優秀な先輩と見ているだけで、武島が校長の湯原を嫌っていたということが確執となったのかもしれない。一昌の日記をさらに分析することが必要である。


[3]※『音楽界』1巻1号(明治41年1月号)「中央楽況」、p45、「音楽学校の歌劇」。同じ号では、乙骨三郎が「歌劇オルフォイス」という一文を寄せ、オペラの内容解説とともに、音楽学校で声楽の練習にはちょうどよいと書いている。明治36年上演のさい、乙骨は石倉小三郎や近藤朔風とともに日本語歌詞を書いた。背景セットや衣装については、『教育時論』832号(明治41年5月25日)による。出演者オーケストラの数は『早稲田文學』明治41年1月号による。



[4]文部次官の澤柳政太郎が明治40年7月2日に男女学生混合の舞踏・活劇を取り締まるよう各地方長官に通牒を行ったことを差すとみられる。「學校教員及生徒ノ舞踏又ハ活人畫等青年ヲ誤リ易キ擧動ニ關スル取締方」『文部省例規類纂』p595-596。風紀問題については、渋谷知美「『学生風紀問題』報道にみる青少年のセクシュアリティの問題化─明治年間の『教育時論』掲載記事を中心に─」『教育社会学研究』第65集(1999年)を参照。またこの明治40年の次官通牒とは別に、明治41年9月29日には「文部省直轄諸學校學生風紀振肅ニ関スル注意事項」という次官通牒もある。東京音楽学校は文部省直轄諸学校である。『文部省例規類纂』p647-648。湯原元一がオペラ《オルフォイス》上演を延期すると言いながら結局断念したのは、この9月29日次官通牒と、10月12日発布の戊申詔書(勤倹詔書)が理由と推測されるが、この点は更に調査が必要である。


[5]田辺久之「『三浦環 伝記資料考』三 東京音楽学校時代後編」『常葉学園短期大学紀要』18号(1987年)。これによると、7月27日にオペラ上演の当事者の一人フレックが解雇されたという。東京音楽学校の公式記録ではフレックの辞職は7月28日付である。《オルフォイス》の上演が中止されたのち、6月6日・7日に東京音楽学校第18回定期演奏会が開かれ、ここでフレックと藤井環は、神事楽《エリアス》の中の2編を合唱した。ハイドリヒは翌42年6月30日付で退職した。その年の10月にハイドリヒが公開質問状を出したという新聞報道の騒ぎが起きたが、『無名通信』1巻13号(明治42年10月)によるとハイドリヒは騒ぎとは無関係だったらしい。


[6]『東京日日新聞』明治42年9月10日「音楽学校の廓清 幸田教授の辞職 湯原校長の手腕」。または『読売新聞』明治41年9月12日「幸田女史の辞職説は嘘」。


[7]島崎赤太郎に関しては、竹中亨「明治期の洋楽留学生と外国人教師 ドイツとの関係を中心に」『大阪大学大学院文学研究科紀要』47号(2007年)。赤井励『オルガンの文化史』(1995年)。


[参考]東京音楽学校に関する主な新聞雑誌記事(明治40-44年)

『読売新聞』明治40年1月27日「音楽界『音楽学校』」

『東京朝日新聞』明治40年2月13日1面「音楽学校の内訌」

『読売新聞』明治40年2月27日「楽界漫言」

『読売新聞』明治40年3月3日-8日「都下女学校風聞記」18-23東京音楽学校(全6回)見出し▽お辞儀をすると退校/本科と師範科/藝人教育/黒幕の裡/鼻息を窺ふ/「小さくて氣が利いてゐる」/互ひの嫉妬/手品から發狂/島崎氏の歸朝/商人根性/脚絆履きで入浴/鳥居先生/小言/趣味/卒業生/同聲會/歌劇研究/日本樂/演奏會の切符を門で配る/國樂保存法

『東京ハーピー』2巻6号(明治40年3月)「音樂学校の賄賂公行」

『東京ハーピー』2巻7号(明治40年4月)「音樂學校受驗者に注意」

『東京朝日新聞』明治40年6月27日7面「音楽界の暗闘(夏期講習会の半面)」

『東京日日新聞』明治40年10月4日 「唱歌編纂掛の設置」※日本の洋楽百年史

『音楽界』1巻1号(明治41年1月)「音楽学校の唱歌編纂」

『東京日日新聞』明治41年5月12日 「初の歌劇公演、文相の干渉で突然中止」

『東京日日新聞』明治41年5月20日「歌劇公演中止は文部省の頑迷のため」

『教育時論』832号(明治41年5月25日)「歌劇中止の真相」※日本の洋楽百年史

『東京朝日新聞』明治41年7月7日6面「妙な事が起る▽音楽学校の男女混淆」

『音楽界』1巻8号(明治41年8月)「歌劇中止に就て」加川琴仙

『東京朝日新聞』明治41年8月7日6面「音楽学校と風紀」

『読売新聞』明治41年8月9日「音楽学校取締方針」※芸大百年史

『日本新聞』明治41年8月17日「音楽生の風紀(音楽学校の大刷新)」※芸大百年史

『教育時論』881号明治41年8月25日「音楽学校取締方針」※日本の洋楽百年史

『やまと新聞』明治41年9月1・2・3日「男女学校評論」※芸大百年史

『東京朝日新聞』明治41年9月14・15・18・19・25日「憂ふ可き音楽界」(一)(二)(三)(四)(五)※芸大百年史

『毎夕新聞』明治41年9月11日「幸田教授の進退」※芸大百年史

『読売新聞』明治41年9月12日「幸田女史の辞職説は嘘」

『工業新聞』明治41年10月14日「邦楽調査の行悩(東京音楽学校の大失敗)」※日本の洋楽百年史

『帝国文学』第15巻2号明治42年2月「不見識なる音楽家」※芸大百年史

『読売新聞』明治42年4月2・3日「音楽家の離婚(芸術家の配偶問題)」※日本の洋楽百年史

『東京日日新聞』明治42年9月10日「音楽学校の廓清 幸田教授の辞職 湯原校長の手腕」※芸大百年史

『北陸タイムス』明治42年9月16日「一人心中」

『報知新聞』明治42年10月4日「音楽学校の前途(ハイドリヒ教授の激越なる公開状)」※芸大百年史

『音楽世界』3巻9号・3巻10号(明治42年)こき生「樂界漫録」
『無名通信』1巻13号(明治42年10月)「東京音樂學校公開状問題の眞相」

『読売新聞』明治43年1月29日「音楽学校新方針 湯原元一談」

『読売新聞』明治43年7月12日「楽壇時言」田辺

『読売新聞』明治44年3月24日「明治学界奇談(97)お尻の毛を数へ見よ」(湯原とマスコミ)

『報知新聞』明治44年9月19日「幸田延子女史の待遇」※芸大百年史

『國民新聞』明治44年9月13日「教師評判記(音楽学校の四外人)」※芸大百年史

『サンデー』明治44年9月~12月「嫉妬排擠の中府東京音楽学校」(全12回)

『東京朝日新聞』明治44年10月21日「蛮カラ列伝」(二十)「犢鼻褌踊の生徒監」

【注】芸大百年史は『東京藝術大学百年史』東京音楽学校編第1巻(1987年)、日本の洋楽百年史は秋山龍英編著『日本の洋楽百年史』(1966年)


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