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2013年5月11日 (土)

第5章_はじめに

第5章 ひと夏の天界通信 [冷光23歳 1908年]

 

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第5章の参考表一覧

1_雲上の夏山臨時支局を企画

明治42年夏、富山日報記者の大井冷光は北アルプスの立山室堂(標高2450m)に駐在し、1か月以上にわたって記事を送り続けた。駐在期間は33日間で、移動日前後3日を含めて36日間。記事掲載は7月24日付から9月16日付まで、7月25日付を除く計54日間である。一連の記事をまとめて「天界通信」と呼ぶことにする。

大井冷光の天界通信(明治42年、『富山日報』)
表題 回数 掲載日 執筆日(または行動日)
登山途上より 6回 7月24・26・27・28日 7月23・24・25日
天の一方より 34回 7月28日~8月25日 7月25日~8月22日
黒部谷より 3回 8月26・27・28日 8月23日
立山温泉より 2回 8月29・30日 8月23日
室堂より 1回 8月31日 8月24日
大日嶽と稱名瀧 17回 8月31日~9月16日 8月25日~26日
合計 63回 54日間 全36日間(27日帰富含む)

上記の表題以外に、「奉幣使の土産談」「立山山頂大演説会」「立山山頂大演説会(続)」などの別稿も室堂で記された記事であり天界通信に含まれる。

この仕事は現代の新聞社が行っている夏山臨時支局に相当する。北アルプスの山岳観光地がエリアにある地方紙では夏の恒例企画だ。[1]にぎわいをみせる夏山に記者が駐在して雄大な自然とそこに展開する人間模様を連日伝える。その趣旨は明治時代も現代もあまり変わらない。しかし、冷光のように36日間一日の休みもなく一人で書き続けるケースは、現代では法的にありえないであろうし、そこまで志願する熱血記者もいないかもしれない。

冷光の仕事は取材して記事を送るだけでなかった。富山日報が設けた夏山臨時支局は「立山接待所」という。文字通り、登山者を接待する場所で、記念はがきや薬品を配ったり、福引で景品を渡したり、さらには蓄音機で音楽を提供したり、つまり記者だけでなく営業部員のような仕事も一人で行ったのである。

「天界通信」についてはいくらか先行研究がある。単行本として復刻もされている。[2]ただ、「天界通信」が山岳取材記録としてどれほど意義があるのか、後世の評価は定まっているとはいえない。北アルプス初の夏山臨時支局として近代新聞史に記録されるべき偉業なのか、それとも近代登山史のなかでたまたま書き忘れられた一行なのか。明治時代の山岳取材史を研究した事例は残念ながらいま知るところにない。

 

立山接待所の設置について富山日報が社告を初めて掲載したのは、明治42年6月13日のことだった。3面に「今年の夏季」と題したもので、▽立山に接待所を設置▽社員を駐在させ天界の消息を通信▽東岩瀬に特設海水浴場を設置、の3点が簡単に告知されている。その意図は、同じ日の2面に主筆の匹田鋭吉が記している。今でいう社説である。

>社告「今年の夏季」
社告「今年の夏季」
『富山日報』明治42年6月13日3面

論壇
野外趣味の鼓吹 山と海との両面に読者諸君を誘い出さんとする我社の計画
我社は、昨年の夏は浦塩旅行隊を組織して、金角湾頭の夕涼みと洒落たが、今年は団体旅行は陳腐だ、我社は読者諸君の愛顧に酬ゆるがためには、断へず紙面の改良にも注意し、又写真版附録などを奮発して居るとは言ふものゝ、夏は又夏向きの涼しさうな趣向を凝らして諸君を満足せしめねばならぬ、何か好い趣向をと考へた末、漸く思い附いたのは、本日予告した立山ゝ巓の接待所設置と、記者を駐在せしめて日々山巓より通信せしむる事と、東岩瀬の海水浴場設置である。(中略)

匹田は前年「擬国会」「ウラジオ旅行隊」という新奇な企画を相次いで事業展開し、周囲を驚かせた。「立山接待所」はそれに続く大型企画という位置づけであった。

匹田の論壇は長くなるので要約するが、その論旨は▽富山県人は比較的厚着で快活でない▽炬燵襟巻廃止論を掲げたこともある▽今年も野外趣味を呼びかけ、山と海との両方面に読者諸君を誘い出そうと計画を立てた―というものである。のちに室堂に登ってからの演説会で匹田は、登山は「体力の鍛錬と精神の修養」が目的だと明快に論じるのだが、この時点では野外趣味の勧めというややあいまいに終始している。ここから先が重要なので引用する。

標高九千九百尺の山頂に接待所を設けて登山者を歓迎するの挙は、蓋し富山日報が嚆矢であろうと思ひます、かくの如き高山の絶頂に社員を駐在せしめて、千変万化極まり無き天界の自然と人事を日々下界に通信するといふ事は、先年大坂毎日新聞社が富士山頂に社員を駐在せしめたる以来初めての壮挙であると思ひます

匹田によれば、立山の記者駐在が実現すれば富士山の記者駐在に次ぐ快挙だというのである。ウラジオ旅行隊のときもそうだったが、匹田は全国の新聞業界の動きを意識していた。大阪毎日新聞が東京の毎日電報社と共同で「富士山上通信」という夏山臨時支局のような3週間の企画を立てたのは2年前、明治40年の夏だった。[3]富士山ではその年の7月、電話が5合目まで開通し、郵便局も8合目にできるなど通信事情がよくなり、翌明治41年にはついに頂上郵便局が開設された。

富山県内での山岳取材は、おそらく富士山ほど早くないが、江戸時代から富士山と並んで立山登拝が盛んだったことから、早くから行われていたものとみられる。明治36年7月には、李家隆介知事が奉幣使として立山の山開きに参加するため立山登山を行い、そこに富山日報・北陸政論・高岡新報の3紙の記者が同行取材した。明治40年7月には、高岡新報社が60数人の立山探検隊を派遣し、井上江花と大井冷光が取材している。

富山日報がいま取り組もうとしているのは、記者の高所常駐とそこからの記事送稿である。富士山と違って、まだ電話も電信もない、郵便局もない。[4]極端に悪い通信事情を考えれば、それまでの山岳取材とは次元の違う挑戦なのである。

明治時代の終わりごろといえば、いわゆる近代登山が高まりをみせた時期であった。信仰としての登山でなく趣味やスポーツとしての登山が社会に認知されはじめたのである。明治38年10月に山岳会(明治42年6月に日本山岳会に改称)が設立され、日本アルプスを舞台にさまざまな探検登山が行われた。明治41年から大正2年にかけては一段と目覚しくなり、探検登山は黄金時代を迎えた。特に明治42年は、民間人の剱岳初登頂をはじめ数々の記録的登山が行われ、黄金時代のピークとも言われる年となった。

富山県内でも明治40年から明治42年にかけて登山への関心がにわか高まっていた。新聞紙面で追うと、その先駆けは明治40年の高岡新報社立山探検隊であるが、残念ながら原紙が確認されていない。『富山日報』も明治40年、魚津中学校教師の吉沢庄作による寄稿「高山旅行」を掲載している。

明治時代の富山県内における主な山岳関係記事※新聞連載のみ
明治36年7月26日-8月7日 登嶽前記・登嶽の記 藤田矢乾(久信) 『富山日報』前記3回本記10回 奉幣使同行取材記。図版多数。立山砂防工事開始するきっかけになった李家知事の視察が記されている。
明治36年7月29日-8月4日 登山記 佐藤青吟(尚友) 『北陸政論』8回 奉幣使同行取材記。
明治39年8月6日 立山だより (不明) 『北陸政報』 奉幣使一行からの聞き書き。
明治39年8月28日 山村事務官の一行 (不明) 『北陸政報』 山村弁之助事務官と高松覚太郎県視学らは8月22日に長棟村を出発し、立山温泉~浄土山~室堂~雄山~地獄谷~(日本岳の東を越え)~伊折。
明治40年7月28日-8月29日 高山旅行 吉沢庄作 『富山日報』19回 学術色が強い。明治39年に富山で立山探検隊が組織されたことや、同年、富山県の山村事務官らの一行の山行を記している。
明治40年8月5日-8月6日 劍山攀登冒險譚(参謀本部陸地測量官の談) 〔午山生〕 『富山日報』2回 陸地測量部の柴崎芳太郎からの聞き書き。槍身と錫杖頭の図版。
明治41年7月24日- 大蓮華山跋渉録 吉沢庄作 『富山日報』12回 前年8月の登山記。
明治41年7月18日 初登山者探検談 (不明) 『富山日報』3面雑報 6月22-23日、金澤高等学校生徒2人が称名滝滝壺へ。
明治41年7月23日-28日 六根清浄(立山登山の栞) 大井冷光 『富山日報』6回 図版。
明治41年7月30日 奉幣使の立山談 (不明) 『富山日報』3面 中野有光からの聞き書き。伏拝みで杉2本が邪魔。赤江三五郎、立山温泉について記述。
明治42年7月23日-9月16日 〔天界通信〕 大井冷光 『富山日報』 図版多数。詳細別途。
明治42年8月7日-9月18日 大蓮華山登山記 長島文翼 『富山日報』31回  
明治42年8月13日-22日 立山みやげ 匹田雪堂(鋭吉) 『富山日報』10回  
明治42年 〔黒部山探検記〕 井上江花 『高岡新報』 翌年単行本に。
明治43年5月10日-6月2日 飛越深山探検 石黒劍峯 『高岡新報』15回(?) 記者と石崎光瑤との白山探検記。光瑤筆とみられる挿絵。『山岳』第6年第1号(明治44年5月)に石崎の紀行文「春の白山」がある。※八尾正治『絢爛の花鳥画 石崎光瑤』(1995年)参照。
明治43年8月5日-9月11日 日本中央アルプス跋渉 石崎光瑤 『高岡新報』29回(?) 室堂~ザラ峠~黒部谷~針の木峠~大町~松本~上高地。14日間。写真も掲載。

富山県内における同時期の山岳関係記事としては、新聞以外に『富山県私立教育会雑誌』に第10号(明治37年9月11日)第11号(明治37年12月27日)に長谷川泰治「登立山日誌」、第30号(明治42年6月)第35号(明治43年11月)に城川範之「薬師岳登山記」がある。長谷川は富山県師範学校、城川は中新川郡五百石尋常小学校訓導。城川については湯口康雄『黒部奥山史談』(1992年)。また、吉沢と知り合いであったとみられる東京の教師で博物学の寺崎留吉の「越中立山」『少年世界』8巻13号(明治35年10月)もかなり詳細な紀行文である。

社告「破天荒なる我社の計画」

社告「破天荒なる我社の計画」
『富山日報』明治42年6月16日3面

『富山日報』主筆の匹田は、読売新聞政治部記者出身で、時代の流れに敏感だった。論壇「野外趣味の鼓吹」を読むかぎり、匹田が考えたのは探検登山でなくレジャー登山の勧めである。夏山臨時支局「立山接待所」という企画は、まさに大衆登山を先導する事業であった。その企画には大井冷光が深くかかわっていたものと推測される。冷光はちょうど1年前に『立山案内』を上梓し、富山日報紙面に「六根清浄(立山登山の栞)」を連載していた。「立山接待所」という大型企画は、蓄えた知識の上に計画が練られたにちがいない。

立山接待所の社告はその後も紙面に掲載される。そして6月16日、より具体的な事業計画が告知された。

▼破天荒なる我社の計画
▲標高九千九百尺の立山々巓に富山日報社接待所を設けて登山者を歓迎す
▲山巓には社員大井冷光を駐在せしめ天界の消息を日々本社に通信せしむ
▲八月上旬匹田本社主筆等登山して室堂に公開演説会を開き大気焔を吐く
▲八月中碌翁神水富雄三画伯登山し山巓に立山実景画会を催し健筆を揮ふ
▲接待所には蓄音機の備あり名人の音曲美人の矯音登山者の労を忘れしむ
▲我社は紀念の為立山の絵葉書に紀念スタンプを押したるを登山者に呈す
▲右の外相撲の催もあり其他奇抜なる種々の催ありて山霊を驚かさんとす
▲我社は又東岩瀬の海濱松青く砂白き処に富山日報社特設海水浴場を設く
▲特設海水浴場には休憩所ニケ所脱衣所一ケ所を設け我読者諸君を歓迎す
富山日報社

公開演説会に実景画會、蓄音機に記念絵葉書。立山登拝の宗教的基地であった室堂という場所で、それまで考えられないような華々しい催しが企画されたのである。注目されるのは「山霊を驚かさんとす」というフレーズだ。いかにもお伽文学的な表現である。政治記者出身の匹田が書いた文章にこうした遊びはほとんどみられない。あのウラジオ旅行隊という企画にも絵画や音楽を愉しむという文化的な発想はなかった。そうした点を重く見れば、立山接待所は実のところ冷光が提案し、匹田がそれに乗ったのではないかと考えてもおかしくはない。さらに、「破天荒」という表現が、前述したように冷光の『越中お伽噺』を評して贈られた賛辞であるとみれば、なおさら冷光の発案であるよう思われる。

「破天荒なる我社の計画」という社告は6月16日以降も繰り返し掲載された。そして、登山客への贈呈品の寄付を募り、寄付を申し出た店がやはり広告の形で掲載されている。

たとえば、清明堂は絵葉書1000枚、魚津町の藤本旅館は鯛の刺し身200人前、高岡市の魚仕出商吉倉清太郎は鮮魚刺し身100人前。このほか薬や菓子、缶詰など。7月15日までに15の店を数えた。こうした他の事業者を巻き込んで展開する術は、匹田がウラジオ旅行隊ですで見せていたものである。

冷光とって心配の種は通信だった。立山で書いた記事をどのように送稿するのか。郵便局にかけあった記録が15日の記事に出ている。

●立山の通信機関
山田当郵便局長を訪ふて室堂に郵便函設置の要望を陳べると『そのお話は私も年来の宿望で、今年は御社の計画もあり労々登山して実測の上之れが設置に尽して見やうと思って居ます、何分金沢局の方の仕事ですから、私は個人として働くまでの事です、而し室堂の郵便集配に就いては第一登山者の色別を調査の必要がありますから貴君は是非御駐在中此点の御調査をも願ひたいものです、それで同所から富山迄一日間で通信の出来ない様では毫もポストの設置が必要ないやうなものですが、その辺はどういふものでせうか、せめて上瀧富山間に馬車でも開通されるやうになりたいものですな』云々因に多枝原温泉には小見村郵便局所轄の郵便函がある(冷)

後述するが、結局、記事はおおよそ3日後の朝刊紙面に掲載されているから、この時間差はどうすることもできなかったようである。

7月17日、富山日報は1週間前になってさらに詳しい日程と内容を紙面で発表した。室堂での演説会は8月5日午後6時からで匹田と亀田弁護士会長ら数人の弁士が演説する。揮毫会は10日に開く。冷光の出発日は7月23日、匹田の出発は8月3日の予定となっている。また関連の動きとして、岩峅寺と芦峅寺の神官60余名が集会を開き、室堂の前に炊事場を新設すること、炊事場付近に酒保を設けること、室堂内の燃料として薪でなく木炭を用意することなどを決めたことも紹介した。富山日報が山岳関係者を動かしつつあった。この記事の最後は「天上の別世界に無上の快楽享受するを得べし」と煽るように結んでいる。

この記事に対しては、予想以上の反響があった。匹田主筆と団体登山する企画と勘違いした問い合わせも少なくなかったらしい。富山日報は勘違いを正すため、7月19日の紙面に「登山希望者に告ぐ 誤解する勿れ、我社の計画を団体旅行なりと」と注意喚起の記事を掲載した。それでも読者の過熱ムードが収まらない。7月25日の紙面では、ついに演説会も揮毫會も日程を変更して秘密にするという記事を掲載し、苦渋の選択を余儀なくされている。

●大秘密=大秘密 演説会の日も揮毫會の日も総て変更して秘密々々
(中略)その人気は実に非常なるものにて、当日登山せんとするもの、我社が直接に予知し得るもののみにても尚数百名あり、全国一般の登山者を合すれば幾千人に達するやも知る可からざるの勢ひなれり、然るに、室堂にては三四百人以上を宿泊せしむるの余地無く、さりとて日帰へりに下山せしむる事は勿論不可能なるが故に、止む無くんば、山上の露宿か、然らずんば警察官の力を借りて登山口に登山者を制限するの外無きも、露宿は一部少壮者の外困難とする処なるべく、又、登山口に於ける制限は、之を行ひ得るとするも、尚制限されたるものをして山下に予算外の宿泊料を消費せしむるを免れずさりとて、自然の成行に放任し置かんには、数千の登山者は、標高九千九百尺の山上にて喧騒して、或は悲惨なる状況に陥ゐる如き事無しといふ可らず故に我社は、景気の余り盛んなるが為に苦心する処あり、結局左の通り決定して、之を読者諸君に急報するの止を得ざるに至れり(以下略)

さらに、この記事だけでは不十分だったのか、翌26日には「緊急社告」と見出しを打って3面トップ記事として同じ内容を告知している。自ら盛り上げておきながら、今度は逆に抑える側に回る羽目に陥るとは……。苦笑する匹田の姿が思い浮かぶような、笑うに笑えない記事である。裏を返せば、それだけ世間の目が立山に向いたということでもある。

匹田は富士山を強く意識していた。

我富山日報社が、率先して、標高九千九百尺の立山々頂に接待所を設け、諸般の準備を為して登山者を奨励するのみならず、山頂に演説会、音楽会、揮毫会、及びお伽噺講演会等を催すことを発表したるに対して、富士山の方にも、之に倣ふて演説会、音楽会等の催有之、且盲人、力士等の登山も有之候趣、面白い競争に御座候、富士山と立山、一は天下の横綱、一は当今日の出の大関、此両者の対抗が、世間の惰気を一掃する事を得ば、誠に吾人の本懐に御座候[5]

記者の駐在では富士山に遅れをとったが、演説会や音楽会は立山の方が早かったということだろうか。立山接待所は、読売新聞が6月28日の3面で「立山々頂空前の計画」と報じ、東京でも既に知られていたとみられる。

富山日報が「立山接待所」を喧伝しているさなか、競合紙の高岡新報がひと足早く途轍もない企画を実行に移していた。主筆井上江花による黒部峡谷への探検である。同じ大自然であっても、立山室堂は年間3000人が訪れる場所だったのに対して、黒部峡谷はまだ秘境そのものだった。ごく一部の山人を除いて一般人がまったく立ち入ることができない厳しい自然があった。江花はこの年の4月、営林小区署の署長と知り合いになったのをきっかけに、黒部峡谷探検を思い立った。7月8日に富山を発ち、佐々木助七・仁次郎兄弟を案内役に、営林小区署の職員ら一行10数人で黒部峡谷に入った。黒薙川を遡行して突坂山(とさかやま、1504m)に登り、猿飛、祖母谷(ばばだに)を進んで県境の大黒岳(だいこくだけ 標高2,393m)に登頂を果たした。

江花の黒部峡谷探検は、同年8月に祖母谷から大蓮華山(おおれんげざん・白馬岳・2932m)に登った吉沢庄作(1872-1956)の探検と並んで、黒部峡谷の探検史に刻まれる山行となった。

江花の探検隊が8日間の探検を終えて下山したのは7月16日である。翌々日富山駅に戻ると私的団体である北陸探検団の団員たちが出迎えたという。団員である冷光がその中にいたのかどうかは分からない。おそらく江花はすぐに『高岡新報』紙面で探検記を連載しはじめたであろう。[6]大井冷光は、23日に立山へ出発する以前に、恩師である江花の探検記を読んでいただろうか。気になるところだが、それはこの際あまり重要ではない。恩師の黒部峡谷挑戦という情報は当然早くから知っていたはずであり、その成功を知って今度は自分の番だと奮起したにちがいない。

高岡新報から富山日報へ移籍してちょうど1年。大井冷光は、井上江花からユーモア精神と探検精神を学び、いまそれを夏山臨時支局「立山接待所」で一気に開花させようとしていた。師弟が示し合わせて立山黒部を分担取材したようでもあり、うがった見方をすれば山岳取材の師弟対決でもあった。

[1]たとえば『信濃毎日新聞』の上高地支局は大正時代からの伝統があるという。

[2]冷光の「天界通信」の研究は3つある。(A)富山県立山博物館編『大衆、山へ―大正期登山ブームと立山―』平成20年度特別企画展(2008年)、高岡陽一「大正期登山ブームと立山」(B)高岡陽一「大正登山ブーム到来への過渡期における立山の登山環境について―大井冷光の見た『立山登山』をとりまく状況」『富山県立山博物館研究紀要』第14号(2007年3月)(C)水谷秀樹・大川信行・西川友之「明治後期における女性の立山登山と富山日報社の関係」『富山大学教育学部紀要』(A文科系52号、1998年)。

大村歌子『天の一方より 大井冷光作品集』(1997年)は、「天界通信」のうちのほとんどを復刻した労作であり、冷光研究の基本書となっている。また、広瀬誠「童話家大井冷光と立山」『立山黒部奥山の歴史と伝承』(1984年)は1971年の講演をまとめたもので、幅広い立山研究をベースに冷光を論じた先駆的な内容は他の研究に少なからぬ影響を与えたものと見られる。

坂倉登喜子・梅野淑子『日本女性登山史』(1992年)は、p22-27に比較的紙面を割いて女性登山者という視点から冷光の天界通信を取り上げていて「日本最初の山岳ルポ」と評価している。しかしながらこれは過大評価と言わざるを得ない。この書では、『立山案内』(1908年7月10日発行)に出てくる13歳の少女に言及(p101)しているが、これは本来『高岡新報』を参照すべきである。『高岡新報』明治40年8月4日3面「少女の立嶽登山」、5日3面「女教員の立嶽登山」に詳細な記述がある。「少女の立嶽登山」の少女は富山市の牧野平次郎氏の娘11歳とある。「女教員の立嶽登山」の女性教員とは富山高等女学校教諭の二女史で植物採集を兼ね立山参拝したという。牧野新聞参考

富山県立山博物館編『女性たちの立山 近世から近代へ……』(2015年)は冷光の天界通信を2ページ見開きグラフ面で取り上げたが、『日本女性登山史』を種本とした内容にとどまっている。

[3]『読売新聞』明治40年5月18日4面、毎日電報社広告「富士山上通信」によると、大阪毎日と毎日電報の企画は8月5日から25日まで3週間で「富士山絶頂に社員を特派し、今年新設の山上郵便電信局の便に依り、山上における自然人事一切の出来事を日々の紙上電報通信を以て報道掲載す洵に夏季絶好の読物たるべきなり」と宣伝している。実際にこれがどのように行われたかは今後の調査がまたれるが、いずれにして明治40年は富士山での取材が大きく変革した年になった。

[4]大井冷光は、明治41年の富山日報連載「六根清浄(立山登山の栞)」の中で、富士山では電話も開通しているが、立山では麓の上滝町に郵便局があるくらいだと記している。

[5]『富山日報』は明治42年、冷光の連載記事に合わせて、富士山関係の記事も数多く掲載した。それによると、富士山の頂上郵便局の電話通話事務と電信事務の開始は8月21日としていて、東京静岡長距離電話加入者に限り頂上と自宅の間で午前4時から午後8時まで通話できるようになったらしい。明治41年に冷光が富士山に電話が開通しているとしたのは、業務用なのであろう。このほか、明治42年の富士山の話題として(1)目の不自由な人の登頂(2)7月21日皇族の初登頂(東久邇宮稔彦王)(3)7月26日山頂音楽会予定(4)7月28日力士たちの初登頂(司天龍文次郎ら)(4)7月10日-8月11日の登山者数9376人などを報道している。

[6]現在の調査では『高岡新報』原紙は見つかっていない。1年後に出版された井上江花『越中の秘密境 黒部山探検』(1910年)は前年の新聞連載をまとめたもので、国会図書館デジタル資料でインターネットから読むことができる。写真師を同行させたことで、写真がふんだんに収録されていて、大変貴重な書になっている。大藪宏『物語 日本の渓谷』(1994年)は、この江花の本を解説付きで紹介している。

2_立山奉幣使に同行取材

朝から時折雨が降った。天気さえよければ富山市街から仰ぎ見ることができる霊峰立山は、雲にさえぎられて見えない。明治42年7月23日、金曜日。いよいよ大井冷光が立山室堂に向かう日である。

地図上の直線距離は40キロ足らず。現代であれば、電車やバスを乗り継いで最短4時間余りで3003メートルの頂に立つことができる。明治時代は人力車を使って岩峅寺まで行き、あとは徒歩で2泊3日を要する旅であった。

午前8時、冷光は日除けの母衣という軽装で人力車に乗った。まもなく雨は本降りになった。ござと笠でしのぐ。「青田を渡る涼風の何となく胸昂ぶるを覚ゆ」。標高2450メートルの高所に新聞記者として1か月間も駐在するという前例のない挑戦がいよいよ始まる。

鼬川沿いの上滝街道を約9キロ、1時間ほど進んだところに西番の葡萄茶屋があった。10歳の時から3年半すごした伯母の家にほど近い。ここで奉幣使の一行と待ち合わせる予定だった。

奉幣使とは神に幣帛をささげる使者のことである。立山の山開きは毎年7月20日ごろで、25日には山頂にある峰本社で神事を執り行う。明治17年に天皇の思し召しがあって以来25年間、富山県知事か知事代理が奉幣使をつとめる慣わしになっていた。

知事自らが山頂まで登った例はそう多くないらしい。6年前の明治36年、李家隆介という36歳の知事が登ったときは大変な話題になった。3紙の記者が同行し、競うように登山記を書いた。[1]その後、明治37年久保通猷警察部長、明治38年山村弁之助事務官(第二部部長)、明治39年石原磊三事務官、明治40年山村事務官、明治41年は中野有光警察部長が、林野視察なども兼ねてつとめていた。そして明治42年の奉幣使は事務官補で地方課長兼社寺兵事課長の石坂豊一(1874-1970、いしさか・とよかず)だった。[2]

葡萄茶屋で石坂を待つ間、冷光は第1信を短くしたため、その最後を「立山は深く雲のとばりを垂れつつあり」と結んだ。

文学をこよなく愛する冷光はつい美文を書いてしまう。ここですこし横道にそれて冷光の文章について少し記しておきたい。

新聞記者を2年半つとめる間、冷光は「写生文」や「側面観」といった文章をよく書くようになった。これは、取材に基づいて得た事実を記録するいわゆるルポルタージュのようなものである。もちろん当時はまだそういう用語がない。冷光の師である高岡新報の井上江花は明治37年に、36年前に起きた「塚越ばんどり騒動」という農民運動を発掘して、証言をもとに記録したルポを書いた。また一方で人物を観察してユーモアを交えて紹介する文章も得意にした。冷光はその江花の影響を受けている。明治41年に高岡市でルポをいくつも書き、富山日報に移籍してから人物描写の文章にも冴えをみせるようになっていた。

立山に登る直前、冷光が書いた記事に「富山紳士の趣味」という44回の連載がある。裁判所長や銀行頭取、警察部長、学校長など44人に面会して趣味を聞くという企画だ。文中に自身を書き込むことによって面白く仕立てている。連載第32回の宇佐美勝夫知事『無趣味は僕の趣味なり』はその典型である。

23歳の記者が県知事に単独インタビューしたこと自体が驚きだが、それは元読売新聞記者として数々の武勇伝をもつ富山日報主筆の匹田鋭吉の指導があったからかもしれない。記事の内容は深みはないが興味深いので、要約して紹介しよう。

冷光が、知事への面会を求めて知事官房の職員に名刺を渡すと、まもなく名刺を持って職員が戻ってきた。名刺の裏には「無趣味は僕の趣味なり 勝夫」と書いてあった。なんとか交渉して知事室に入ると、40歳の宇佐美が微笑んで「まあかけ給え」という。冷光は1か月後に自分が担当する富山日報社立山接待所の話題から、知事は登山の経験があるかと尋ねた。宇佐美はあまりないとこたえ「とにかく日報社の今度の壮挙はもちろん、常に鼓吹される屋外趣味は越中人士に必要なことです」と語った。会話は徒歩談になり、部下にも徒歩趣味を勧めたいが、行啓の準備で忙しいので出来ないというところで終了となった。約束の5分間が、5分過ぎていた。

冷光は翌年2月に「県下名士の書生時代」という連載で再び宇佐美にインタビューした。禅問答のようなやり取りが再び繰り返されたらしく、記事ではやや冗談めかして、去年もてこずったが横柄で傲慢だ、と書いている。今で言うならブラックユーモアなのかもしれないが、物怖じしない性格がうかがいしれる逸話である。

冷光が立山で記す天界通信は、実は半分以上が人物記事といってよいくらい、人を観察して人を書いている。室堂に到着するまで「登山途上より」を第6信まで綴ったのだが、「立山は深く雲のとばりを垂れつつあり」としたためた後は、得意の人物記事の連続となる。立山温泉の近くで耳のある蛇を見たという話好きの車夫、怪しい石ををめぐって欲張った話を持ちかける氏子総代、ござを脱ぎコート姿に早変わりする手品師のような奉幣使……。ここでは人物記事の内容について詳しく触れない。

話を戻そう。西番の葡萄茶屋で1時間待っても奉幣使は来ない。冷光は先に進むことにした。雨があがり晴れ間がのぞいた。麓の上滝町に着き、郵便局で通信の打ち合わせをした。[3]

常願寺川にかかる長さ500メートルほどの新川橋を渡ると、そこは岩峅寺の集落だった。江戸時代には二十四僧房があったとされる立山信仰の村である。立山参拝は岩峅寺にある前立社壇から始まり、さらに奥にある芦峅寺の中宮祈願殿に参って、立山山頂の峯本社を目指す。3つの社を総称して雄山神社という。岩峅寺の村人たちは、明治時代の神仏分離によって、神官や山案内や荷担ぎで生計を立てていて、仲語(ちゅうご)と呼ばれる山案内人の事務所があった。[4]

岩峅寺で正午を過ぎ、冷光はようやく奉幣使の石坂の一行と落ち合うことができた。ここから先は人力車はなく徒歩である。約10キロメートル先にあるこの日の宿泊地、芦峅寺に着いたのは午後4時30分だった。

芦峅寺は標高320メートルにある150戸の村で、岩峅寺と並ぶ立山信仰の拠点だった。一行は佐伯永丸という家(宿坊「宝泉坊」)で旅装を解いた。小源太という神官の案内で中宮祈願殿に参り、飛鳥時代に立山を開山したという佐伯有頼が83歳で彫ったと伝わる木像を見せてもらった。

ブナ坂の女茶屋
ブナ坂の女茶屋
『富山日報』明治42年7月28日3面、「登山途上より(第5信)」

翌24日早朝、一行は芦峅寺を出発した。室堂まで約8里(約31km)、標高差2130メートルを一気に登る。[5]立山参拝でもっとも体力を消耗する一日だ。黄金坂・草生坂・材木坂を登り、高度を上げていった。午前9時30分、標高1000メートルを超えたあたり、ブナ坂の中腹にある女主人の茶店で休憩。伏拝みから称名ケ滝を展望し、12時過ぎ弘法茶屋に着いた。午後2時、弥陀ケ原を過ぎ、姥懐に入ろうというところ、一の谷にはまだ残雪があった。寒さを感じながらようやく午後4時50分、室堂に到着した。冷光は途中で通信を書いたりスケッチをしたりしたため、石坂より1時間遅れだった。「登山途上から」最終第6信は次のように結ばれる。

一同直ちに地獄谷に駆け付け昨年新に出来たる地獄の湯の瀧に懸れるを湯加減を試みて河童の如く飛び込む 果ては其の暖流に堰として硫黄を枕に全身を湯に浸し乍ら打ち語ふ
巻層雲過来の隙より早淡き下弦の月見えたり

地獄谷の湯に浸かったというから、この時代、立山登拝は宗教色が薄まっていたのであろう。それにしても硫黄を枕に湯舟に浸かるとは驚くばかりだ。平成24年から地獄谷は有毒ガスの恐れがあるとして立ち入り禁止である。

このあと翌7月25日からいよいよ天界通信の本編「天の一方より」の執筆が始まる。室堂と富山市街とは2日の行程であるから、下界での紙面掲載は3日遅れとなる。

[1]匹田鋭吉が記した「立山みやげ」(9)『富山日報』明治42年8月21日3面によると、李家知事が帰路、立山温泉周辺を視察して砂防工事の必要性を認めたのが、現在も続く立山砂防工事の始まりだという。

[2]事務官補は、知事の下にいる事務官3人に次ぐポストで、明治42年に新設された当時は1人のみである。石坂豊一はのちに政治家に転身し富山市長や参議院議員をつとめる人物だが、2年前に中新川郡書記から抜擢されて県に入庁し、このとき35歳。実は前年の明治41年、着任1年目の県知事・宇佐美勝夫が奉幣使となり、それに石坂が随行する予定だった。しかし、明治42年秋に行われる東宮行啓の準備で宇佐美が忙しくなり5日前に断念、中野有光警察部長が代理となったため、石坂の立山登山もなくなっていた。そうしたいきさつがあってか、この年は地方課長兼社寺兵事課長だった石坂に奉幣使の任務が回ってきたのである。「立山奉幣使変更」『富山日報』明治41年7月21日2面。「奉幣使の立山談」同7月30日3面。立山奉幣使関係の記事は、『北陸政論』明治37年7月29日2面、『北陸政報』明治38年7月29日2面、同39年7月29日3面、同40年7月30日3面なども参照。

山村事務官は登山に関心が強かったからか2度の奉幣使以外に明治39年8月に立山温泉~浄土山~室堂~雄山~地獄谷~伊折を踏破し、その際同行した高松覚太郎県属は雄山山頂で写真撮影をしたという(『北陸政報』明治38年7月28日2面)。この記事では、雄山山頂での写真撮影は初めてとあるが、明治36年の奉幣使に写真師の中林喜三郎が同行し山頂で記念写真を撮影しているので、誤りとみられる。

[3]上滝町から道は2つに分かれる。常願寺川右岸の岩峅寺に進み材木坂・美女平を経て弥陀ヶ原追分へ向かう古来の登拝道と、常願寺川左岸を行き立山温泉を経由して松尾峠越えで弥陀ヶ原追分に至るルートである。剱岳登頂を果たした陸地測量部の登山では立山温泉経由の道が使われている。

[4]仲語とは、登拝者の荷を担ぎ、立山開山の縁起や由緒などを語り聞かせながら登山道を案内する職である。明治時代は鑑札制度になっていて、芦峅寺80人、岩峅寺宮路40人、上滝30人の合わせて150人の鑑札が交付されていた。実際、明治42年の仲語を務めた者は芦峅寺30人、岩峅寺20人、上滝18人の68人だったという。

[5]冷光は芦峅寺を出発した時間を記していないが、ブナ坂中腹あたりで午前7時40分と記している。芦峅寺を出たのが午前5時とすれば、出発から推定約12時間、約8里(約31km)の行程であった。藤田久信「登嶽の記」明治36年では、芦峅寺から14時間強、9里半(約37km)の行程と記している。冷光の『天の一方より』によると、距離は昔から藤橋-室堂で約6里(23.6km)と言われていて、芦峅寺-室堂では約7里(27.5km)となる。しかし正確に測られたことはなく、明治42年、大坂大林区署の御領勲が藤橋-室堂を実測したという。その結果は「わずかに四里十丁(16.8km)くらいしかなさそう」ということで芦峅寺-室堂は5里余り(20km)となるが、正確な数字は結局記されていない。県の社寺課長で奉幣使だった石坂豊一は、「芦峅から立山までは我々の実験に依れば約7里位なるべし」と語り、氏子(仲語)のなかに里程を遠く吹聴するものがいると指摘している。「奉幣使の土産談」『富山日報』明治42年7月28日。(2013/06/06 22:30)

 

3_淡白だった剱岳第2登取材

富山駅前から直通バスで約2時間半、終点の室堂ターミナルで降りる。国内有数の山岳観光ルートの拠点とあって休日は大変なにぎわいだ。ターミナル周辺の平地を室堂平という。東西600メートル南北200メートル、標高は2420~2450メートルで、東西方向にやや傾斜している。一番低い場所にあるターミナルから徒歩10分、平地の一番奥の高い所に木造平屋建ての建物が立っている。国内最古の山小屋とされる国重要文化財「立山室堂」である。最古という割にはそれほど古めかしくもない。すぐ後ろが浄土沢に続く崖だ。おそらく水場を考えてこの場所に建てられたのであろう。多くの登山客はこの建物の横を通って雄山山頂をめざす。

明治時代の立山室堂
立山室堂
スタンプから明治42年の絵葉書と推定される
西側からの外観で現在の位置と傾きが微妙に違う
※『少年』142号(大正4年7月)

2棟続きの長屋は享保11年(1726年)と明和8年(1776年)に加賀藩の財力で建立され、200年以上にわたって使用されてきたという。平成4年(1992年)から3年間かけて解体修理が行われ、文化財指定を受けた。解体修理によって風雪に耐えた雰囲気は少し失われてしまったが、それは止むを得まい。内部は昔の面影を十分にとどめている。冬は積雪8メートルと最低気温氷点下20度という厳しい環境である。1尺角といわれる太い柱が1坪ごとに立ち並び、分厚い板葺きの屋根を支える。総柱という造りは頑丈そのものである。内装は天井がなく明かりを取る障子もなくもちろん畳もない。これだけの建築資材を、荷車を使えない登山道を使って人力だけで運び上げた労苦は並大抵でなかったであろう。

富山日報の大井冷光は明治42年夏、この建物に約1か月滞在して記事を書いた。その時点ですでに築183年という歴史的建物がさらに百年以上を経過して今も残っているというのは実に感慨深い。冷光がすごした富山や東京の街は戦災に遭ってほとんど当時の面影はない。[1]室堂は、ひと夏をすごしたにすぎないとはいえ、冷光の活躍を偲ぶことができる唯一の場所なのである。

明治42年7月25日、立山山開きの日。室堂周辺は朝から風が強く濃い霧に包まれた。山頂はおろか山腹は全く見えなかった。神官は「これではとても登れないだろう」と言った。山に慣れた神官が尻込みするような天気なのである。しかし奉幣使の石坂豊一は意気盛んだった。「奉幣をするのに風で吹き飛ばすような神様なら、神社の資格を取り上げるまでさ、行けるところまで行こう」。奉幣使の一行は午前8時、懺悔坂を登っていった。標高差550メートル、順調に行けば2時間20分で頂上に立てる。

冷光は奉幣使に同行せず、室堂に残って記事を書いた。天界通信の本編「天の一方より」第1回は「25日午前9時於室堂」と記して始まっている。「天の一方より」は文学の薫りのする表題である。冷光自身はこの表題について一切記していないが、巌谷小波の詩《天の一方》からとったものとみられる。[2]

「天の一方より」第1回は「蓄音機、煙にむせぶ」「奉幣使一行の意気」「立山信者三五郎翁」の3つの見出しが立っている。立山信者の赤井三五郎は79歳で101度目の登頂を果たした人だ。2年前の富山日報ですでに取り上げられていて、冷光自身も2年前の登山で会っていたらしく、『立山案内』(明治41年7月)で「九十九回の登山者」として書いている。「天の一方」では、その三五郎にさらに詳しく取材して面白い読物に仕立てている。

それにしても冷光はなぜ奉幣使に同行せず室堂に残ったのか。それは大きなニュースを待っていたからかもしれない。

前日の7月24日に剱岳登頂を果した7人の一行が、この日午前、室堂に帰ってきたのである。剱御前での時刻が8時20分という記録があるから室堂着は1時間30分後か2時間後のことだろう。2年前の明治40年7月に陸地測量部が初登頂して以来の剱岳第2登、民間の登山者としては初めてという歴史的な登山だった。

「天の一方より」第1回の最後に、冷光は「筆を擱くの時一昨日来劍山に出掛けた石崎光瑤他六名が無事探検を遂げて皈つた、ドラ其談話を聞かう」と書いている。この書きぶりだと、石崎ら7人が2日前剱岳に向かったという情報を事前に得ていたことになる。[3]

剱岳登頂を果たした一行は、吉田孫四郎・河合良成・野村義重・石崎光瑤の4人と、山案内人の宇治長次郎(39歳)・立村常次郎(34歳)・佐々木浅次郎(38歳)の計7人。4人はいずれも富山県出身である。このうち吉田・河合・野村は東京大学の学生である。四高(金沢にあった旧制第四高等学校)から東大に進み、小石川区表町109に前年開設された学生寮「明倫学館」にいた。吉田と河合はその年の春に山岳会(のちに日本山岳会)に入会したばかりだった。

4人のうち最年長である石崎は、京都の竹内栖鳳(たけうち・せいほう)の門下の日本画家。河合とは幼なじみで3年前から写生や写真撮影をする目的で立山や白山などを登っていた。山岳会入会は明治41年5月で3人のうちでは最も早い。

大井冷光を取り巻く人々(明治42年)
大井冷光 1885-1921 23歳 上新川郡常願寺村出身。富山県農学校卒。富山日報記者。山岳会入会明治42年9月、223番。
石崎光瑤 1884-1948 25歳 福光町出身。日本画家。明治44年時の住所は高岡市一番町富田九兵衛方。山岳会入会明治41年5月、150番。
野村義重 1885-1914 24歳 舟橋村出身。富山中学第15回(明治36年)卒。東京大学在学。
河合良成 1886-1970 23歳 福光町出身。高岡中学卒。東京大学在学。のちに厚生大臣、小松製作所社長。山岳会入会明治42年6月、203番。
吉田孫四郎 1887-1924 21歳 高岡市野村出身。高岡中学第4回(明治38年)卒。東京大学在学。山岳会入会明治42年4月、195番。
河東碧梧桐 1873-1937 36歳 俳人。『日本及び日本人』の俳句欄「日本俳句」の選者。新傾向俳句を提唱。明治39年から44年にかけて2度の全国行脚。
吉田博 1876-1950 32歳 洋画家。
宇治長次郎 1871-1945 37歳 山案内人。

冷光が書いた記事を見るまえに、剱岳をめぐる山岳会内の情勢について記しておこう。

2年前の明治40年7月に陸地測量部が剱岳初登頂を果たした際、富山日報の記者〔午山生〕が「劍山攀登冒険譚」という記事を書いた。その記事は1年余り後の明治41年秋、山岳会の機関誌『山岳』第3年第3号(明治41年10月25日)に全文が転載されて、剱岳は一躍脚光を浴びていた。その同じ号には、冷光の『立山案内』も新刊紹介で取り上げられている。冷光は『立山案内』を編集するとき〔午山生〕の記事を転載し、『山岳』第2年第2号(明治40年6月)に掲載された大平晟「越中立山の偉観」(「北陸三山跋渉記」の二)からも称名滝の項目を引用していた。雑誌『山岳』の情報はつかんでいたのであろう。

山岳会は明治42年5月16日、東京一ツ橋の帝国教育会堂で第2回大会を開いた。講演会や展示会が行われ、会員90人を含む169人が参加した。そのなかには、入会したばかりの河合や吉田の姿もあった。[4]展示会場では、会員など20人余りが出品した写真や絵画、地図、登山用品など計約200点が並んでいた。注目されたのは、陸地測量部が剱岳山頂で採取した錫杖頭と鉄剣の実物だ。幾重にも人垣ができていた。前年秋に『山岳』誌面で、富山日報の記事「劍山攀登冒険譚」が全文転載され、実物大のスケッチで錫杖頭が紹介されたから、おそらく誰も関心を抱いていたことだろう。錫杖頭を間近で見ると緑青色は思いのほか色鮮やかだった。

そしてもう一つ注目を集めたのが、石崎光瑤が撮影した「立山連峰写真5葉」である。他にも写真の展示は多数あったのだが、画家の視点で撮影された構図は一味違うのか、「欧州アルプスの写真を見るが如き感あり」などと評されていた。光瑤が同時に展示した「絹本極彩色高山植物画帖」も好評だった。また、会員ではないが、前年の第2回文展で最高賞をとった洋画家、吉田博がスイスアルプスなど18点の水彩画を出展し注目を集めた。東京で開かれた大会の様子は、6月30日発行の『山岳』第4年第2号に詳しく報告されていたから、冷光も当然知っていたことだろう。[5]

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「劍岳の絶巓(遠景は白馬連峰)」
(部分)明治42年7月24日、石崎光瑤撮影
左から宇治長次郎・河合良成・吉田孫四郎・野村義重
立村常次郎・佐々木浅次郎
『山岳』第5年第1号
※明治40年陸地測量部初登頂と間違えないよう注意
『目で見る日本山岳史』(2005年)参照。杉本誠氏収集写真

剱岳に岳人たちの関心が集まるなかで、石崎や吉田たちは剱岳を目指した。そして明治42年7月24日、民間人の登山者として初登頂を達成して25日午前、立山室堂に戻ったのである。取材する冷光も勢い込んでいたはずだ。ところが、石崎たちは昼食をとってすぐに立山温泉に下山すると言った。取材はわずかな時間の立ち話になってしまった。

冷光はなんとか「劔山登攀談」という記事を書き、それは『富山日報』7月29日3面の「天の一方」第3回に掲載された。見出しは驚くほど小さい。記事の価値を判断する整理記者が当時いたかどうか分からないが、価値判断を誤ったとしか言いようがない。一般記者の剱岳登山に対する認識は当時はその程度だったのだろう。

▲劔山登攀談▼ 前便で報じた本縣青年画家石崎光瑤君の劔山登攀談、同君は室堂で中食後直ちに温泉を下りやうと云ふので僅かの時間の立ち話をした、何にせよ一昨年の夏陸地測量部員が初めてこの山の絶巓に三角点を樹てた、苦心談が我が日報紙上に発表されると俄かに世界の呼び物となつた、而し評判ばかりが高くて今に進んでこの冒険を企てるものもなかつたが、今回予て山岳通の石崎君が其採筆に加へて写真機迄携へて絶巓を極めたとは誠に痛快ではないか、石崎君の記者に語つた所は恁うである『随分ひどかつたです、一行は吉田孫四郎、野村義重、河合良成(何れも本縣人にて法科大学生)と僕で外に仲語を三名連れました、二十三日に室堂を出ましたが其夜は黒部川縁の劔澤といふ所で野宿をして翌二十四日に山へ登りました、路は雪ばかりですから一行は鈎のあるカンジキを穿き杖に鳶口を付けて其上に七人の腰に綱を結んで登りましたがそれでさへ幾度転げたか知れません、当日は幸ひ非常に好い天気でしたが山を半分以上も登つた時分に一行の行手に大きな熊が出ましてねえ、僕等の登る方へ登つて行くのですそれは随分大きい熊でしたが、丁度路案内でもする様にヅンヅン先きを行くのが愉快でした、絶巓へ登つたのは丁度午前十一時雲が尠なく、眺望がきいて実に愉快でしたよ、殊に絶巓、巌の立派な事は迚も他山では見れません寫眞は随分撮りました、寫生も致しました、帰りがけに絶巓のすぐ下の行者窟、それは三人許り入れる洞穴ですが其處に一行の名刺を鑵詰に入れて紀念に遺しました、其夜はやはり劔澤で泊つて帰りました』、と因に一行の一人が絶巓で古刀の切片の錆付いたものを拾つたさうである

2年前に〔午山生〕が書いた記事「劍山攀登冒険譚」とつい比べてしまう。柴崎芳太郎に取材した聞き書きが約3000字もあったのと比べると、冷光の「劔山登攀談」はわずか430字の短い記事である。いち早く伝えたことには十分意義があるが、それにしても淡泊な記事である。8か月後の『山岳』に、吉田孫四郎が寄稿した登山記「越中劒岳」[6]がのちのち物議を醸すことになることを考えると、もう少し丁寧に取材し書いていれば価値ある記録になっていただけに惜しまれる。

冷光の記事について問題点を以下に指摘する。

(1)朝何時に出発したか分からない
(2)長次郎谷の大雪渓の描写が「路は雪ばかり」だけ
(3)熊に出遭った時の緊張感がまるでない
(4)「腰に綱を結んで登りました」は熊に出遭った後の話で、長次郎だけは単身登ったので「七人が」は間違い
(5)登頂は午前11時とあるが、吉田によると午前8時半ごろと読み取れる
(6)「雲が少なく眺望がきいて実に愉快でしたよ」では登頂した時の感動が伝わってこない
(7)帰りがけ名刺を入れた缶詰を岩窟に残したエピソードを書きとめた

吉田の登山記と比較すると、冷光の記事は簡略ながらおおむね同じだが、登頂した時間だけが大きく食い違っている。吉田は、午前8時半に登頂し10時半には下山の途についたと記している。冷光の聞き違いか誤植か。河合は50年余り後の述懐で「下山した室堂では誰も信じてくれなかった」という旨を話していて、冷光の取材を受けたことは記憶にない。[7]

冷光の剱岳に関する記事はこの430字だけである。立ち話の取材でやむを得なかったと弁護したくもなろうが、それは違う。冷光は数日後に石崎と再会し、約1か月後には黒部谷への取材で宇治長次郎とも話す機会があった。だから、補足取材はできたはずであり、歴史的な登山を記録に残すチャンスを無駄にしたのである。新聞記者の資質という点で見ると、冷光はどちらかというと自分を主人公にする紀行文や随筆に光るものがあるが、他人の行動を正確に聞き書きする力は平凡だったといえるのでないか。

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《接待所の囲炉裏》
『富山日報』明治42年7月30日3面

山開きに出かけた奉幣使たちも室堂に無事戻ってきた。しばらく休憩すると、すぐに室堂をあとにして下山して行った。冷光はそれを見送るとその日の午後、立山接待所を開設した。といっても、室堂の一角に紫色の幕で約8畳を仕切っただけで、社名の紙札を貼った簡単なものである。そこに歓迎の新聞を掲示し、投書箱を置いた。

室堂の酒保
《室堂の酒保》
『富山日報』明治42年8月2日3面

冷光によると、室堂の大きさは5間×12間で、単純計算すると120畳となるが、実際には柱が立ち並び、広い印象はなかった。堂内の西側約12畳は社務所として仕切られ、神官3人が詰めていた。その横の一角は、鍋釜と薪を貸し出す器械貸出所、そして前年から酒保と呼ばれる小さな売店があった。1間分が通路で、残りが宿泊スペースだった。大勢が収容できるように間仕切りはなかった。場所は先着順で雑魚寝だったという。

「天の一方より」に書かれた数字を集計すると、明治42年夏の室堂宿泊者数は、記録がある25日間合計が2114人。1日平均は84.6人。100人以下が17日間、100~200人が7日間、200人以上が2日間。多いのは8月4日265人、5日200人。また、登山者数は、記録がある29日間合計で3558人。1日平均は122.7人。最多は6日の289人。8月2日から12日がにぎわいのピークだった。なお、宿泊者数、登山者数とも、富山日報社演説会が行われた8月9日のデータを欠いている。

立山室堂の内部
《立山室堂の内部》撮影:石崎光瑤
『山岳』第5年第2号
(明治43年7月15日)

とにかく室堂の環境は相当ひどかったらしい。畳はなく板張りの床に莚が敷いてあった。石崎光瑤が撮った写真「立山室堂の内部」でもそれはうかがうことが出来る。夏でも気温が10度を下回ることがあり、暖をとるため、数か所に6尺(1.8m)角の囲炉裏があった。この年は炭を使うので煙をあまり出さないという触れ込みだったが、実際は違って薪だったのであろう。初日の25日、室堂最初の記事が「蓄音機、煙にむせぶ」という記事だったのはいかにも冷光らしい。奉幣使の石坂は「依然として敷物は汚く、便所も厨屋も極めて不潔だった」と語り、後に来た『富山日報』主筆の匹田鋭吉は「やはり豚小屋同然」と書いたくらいである。[8]

冷光は、7月25日から8月21日まで28日間室堂に滞在し、8月1日を除いて休まずに記事を送った。その内容は、室堂で遭遇した出来事や、自分の行動記録や、立山に関する話題、そして気温と登山者数・宿泊者数のデータなどである。

石崎光瑤の登山(初期のみ)
明治39年 8月、立山登山。
明治40年 7月、小矢部川上流から五箇山を経て(吉田孫四郎と)白山登山。
明治41年 5月、日本山岳会入会。
8月1日立山(2回目)。20日間、植物写生と写真撮影。8月20日立山温泉に下山。福光町の友人井村勇吉らと、ザラ峠~黒部川~針ノ木峠~大町、白馬岳に登り植物写生。
10月14日から小矢部川上流から白山に向かう。白山裏山道で写生と写真撮影、頂上には至らず(河合良成が同行)。
明治42年 5月5日医王山
7月17日立山(3回目)、7月24日剱岳、7月25日立山温泉、7月29日大日岳、8月4日立山(5回目冷光と)。
明治43年 5月、白山登山。高岡新報の記者石黒劍峯が同行、連載記事「飛越深山探検」(5月10日-6月2日)。
明治43年 8月、立山室堂~針の木峠~大町~上高地。連載記事「日本中央アルプス跋渉」(8月5日-9月11日)。
日本山岳会機関誌『山岳』の石崎光瑤作品(初期の主要作品)
第4年第1号 明治42年3月25日 白山裏山白水の瀑(絵)
「小矢部川上流より越中桂、飛騨加須良を経て白山地獄谷附近の秋色を探る記」(記事)
小矢部川上流(長瀞)の寫生(写真)
白水附近の寫生集(写真)
第4年第2号 明治42年6月30日 順王山より人形山を望む(写真)
さんぢゃが瀧(写真)
「越中國医王山に遊ぶ記」(記事)
第4年第3号 明治42年11月3日 医王山頂よりの展望
山中鳶ケ峰の絶頂(写真)
第5年第1号 明治43年3月31日 巻頭画 富士の折立より望みたる剱岳(三色網版)※カラー口絵
剣岳頂上の南望(写真)
雪谿の登攀(写真)
剣岳の頂上(写真)
剣岳の絶巓(遠景は白馬連峰)(写真)※頂上記念写真
剣岳の大雪谿(写真)
第5年第2号 明治43年7月15日 立山室堂の内部(写真)
佐良々々峠(写真)
針木越の行路(写真)
黒部川の籠渡(写真)
第5年第3号 明治43年7月15日 焼岳の焦状(写真)
第6年第1号 明治44年5月 「春の白山」(記事) ※絵2点

石崎の山岳写真にはこれ以外に日本山学会の写真集『高山深谷』第1輯(明治43年か)「立山深溪の雪と雲」(明治41年8月17日)「立山奥大日岳の絶巓」(明治42年7月29日)「立山大汝より信飛境上の諸峰を望む」(明治41年8月17日)、第2輯(明治44年か)「焼岳の焦状」がある。

[1]これ以外に、大井冷光に関して現存する建物は、旧富山県立農学校本館(富山県立福野高等学校巌浄閣)がある。明治36年4月の完成で、冷光が明治36年11月に上京するまでの7か月間過ごしたことになるが、日記には記述がない。室堂は、明治時代の神仏分離後、室所(むろしょ)などと呼んでいたが、明治の終わりには再び室堂と呼ぶようになった。室堂は現代では漠然とした地名として用いられ、地名の室堂と区別するために建物のほうを「室堂小屋」などと呼んでいる。室堂は、寺の御堂や本堂と同じように、仏を祀り大勢の人が集まる建造物をいい、小屋と付すのは妙な言い回しだ。加賀の白山にも室堂があるので区別するために「立山室堂」「白山室堂」というが、地元では単に室堂という。

[2]この詩は1年前の『少年世界』14巻9号(明治41年7月)に発表された。雨の季節の情景を綴った創作唱歌であり、東儀鉄笛の曲がついている。高山や山岳というイメージは全くない。

「天の一方」   小波
 古駅の雨の蕭々と、
 夕淋しき 窓の下、
 遊子 今、何をか思ふ?
 杜鵑啼く天の一方。

 渡頭の柳 靄こめて、
 朝涼しき 舟の中、
 遊子 今、何をか思ふ?
 帰雁去る 天の一方。

曲は鉄笛(東儀鉄笛)『少年世界』14巻9号(明治41年7月)

[3]河合良成「剣嶽登山記」『明治の一青年像』1969年によると、室堂で出発前の晩、「これから剣に行く」というと、「そんなバカな奴があるか」と室堂の番人に叱られた、という。つまり、冷光は室堂の神官か仲語らからその情報を聞いた可能性がある。

[4]「山岳会第二大会の記」『山岳』第4年第2号(明治42年6月30日)では、河合良蔵とあるがこれは良成が正しい。

[5]石崎光瑤については、八尾正治『絢爛の花鳥画 石崎光瑤』1995年、尾山章「花鳥画家 光瑤の山と雪」『石崎光瑤の山 写しこまれた二〇世紀初頭のインド・ヒマラヤ』富山県[立山博物館]編、2000年を参照。これまでの通説では、光瑤は明治36年8月、19歳の時に京都に出てに竹内栖鳳の門下に入ったとされる。しかし『高岡新報』明治44年6月15日3面によると、高岡市の北瞑堂に3年間滞在していた光瑤は 、京都の竹内栖鳳の門下に入るため6月末に出発するとある。同月24日、25日に送別会が景望楼で盛大に開かれたと同紙には記録されている。とすれば、光瑤は明治41年ごろから高岡市に滞在していたことになり、明治36年の入門はやや疑わしくなる。いったん入門したが郷里に帰っていたということかもしれない。いずれにしてもより詳細に調べる必要がある。

[6]吉田孫四郎「越中劒岳」『山岳』第5年第1号(明治43年3月31日)。吉田の評伝は、藤平正夫「剣岳の第二登頂ー吉田孫四郎について」『山岳』第74年(1979年)、『今は風に語らしめよ 剣・アンナプルナ・チョゴリザ』1986年に所収。藤平は(1)吉田が立山温泉での一切の支度を調えた(2)石崎は運動神経が鈍く登るのに手間取った(3)吉田が『山岳』に発表したという理由から、最年少の吉田が全体を指揮したリーダーではないかとみている。冷光が、吉田ではなく石崎と話をしたのはなぜだろうか。『山岳』で名が知られていたのが石崎だったからと考えるのが最も自然である。ただ、石崎は福光町(現在の南砺市福光)出身で、冷光が14歳から17歳にかけて学んだ福野の県立農学校にほど近い。そのころ冷光の友人には東京美術学校をめざす五島健三がいた。日本画と洋画の違いはあるが、五島と石崎が同じ志を抱くもの同士で面識があり、冷光も石崎を知っていた可能性はある。あるいは、石崎が高岡に居住していて高岡新報の冷光と知り合いだった可能性もある。また、冷光は野村と富山中学で一緒だった可能性もある。井上晃「富山県登山界の歴史」富山県山岳連盟創立50周年記念誌『太刀の嶺高く』1998年も参照。

[7]河合良成は昭和38年(1963年)4月にNHKの「趣味の手帳」で、「半世紀前の剱岳登山」と題して話した。日本山岳会「会報」227号。前掲書『明治の一青年像』1969年。

[8]「奉幣使の土産談」『富山日報』明治42年7月28日。匹田鋭吉「立山みやげ(五)」『富山日報』明治42年8月17日。(2013/06/22 23:13)

4_河東碧梧桐と石崎光瑤

午後6時に食事が済んだのを見計らって、大井冷光は蓄音機を鳴らし始めた。蓄音機は、富山日報が考えた接待所のもてなしの目玉だった。室堂滞在初日の7月25日、宿泊者は43人である。軍楽《式三番叟》が鳴り響くと、堂内の喧騒はやんで静まり返った。そして演奏が終わると、人々は「面白い」「室堂で蓄音機は振るっている」「おらあ立山で初めてこんな面白いものを聞いた」などと口々に言った。気をよくした冷光は次に常盤津をやった。お染久松野崎村の段になると、それをまねてみる者が出るほどだった。

蓄音機は夜の日課となった。7月28日には本社から新盤が届いている。

午後八時頃からそろそろ蓄音機を始めると、仲語や登山者が接待所を覗きに来て囲の幕の上は顔ばかりとなった、探検家スタンレーの土人懐柔も全くこんな風にやったのだな、と徐ろに可笑しく思ふ、今晩の登山者には常盤津、謡曲、琵琶歌等は余り受けなくて、法界節と楽隊が喝采を拍した

蓄音機に興味を抱いたのは、登山客というよりはむしろ登山客を案内する仲語たちだった、と冷光はのちに回想している。ある日、70歳過ぎの男性がわざわざ蓄音機を聞くために室堂までやって来た。冷光が謡曲の《羽衣》を聞かせると、男性は驚いた様子でメガホンの中をのぞきこんで言った。「この下の箱が不思議だ、きっと小さな人間を入れておるのじゃろう、ぜひ見せてくれ、それでなければ旦那は魔法使いじゃ」。[1]富山市で蓄音機が初めて発売されたのは明治39年で、それから3年、まだまだ珍しい機械だった。

接待所で冷光は、事業所などから募集した寄贈品や薬品、記念絵はがきなどを宿泊者に配った。数の少ないものは余興で福引を行った。富山日報社の記念スタンプを押すこともあった。

滞在3日目の27日。接待所の運営が軌道にのったからか、冷光はこの日、峯本社のある雄山山頂(3003m)に登ることにした。山頂に富山日報社の特設休憩所を設け、歓迎の旗を掲げようというのである。神官の佐伯治重や巡査の有岡らと一緒に、一行13人は早朝出発し、まず浄土山(2887m)に向かった。

御来迎
御来迎のスケッチ
『富山日報』明治42年7月31日3面

遠くに白山が見える中腹まで来たとき、湿ったガスがあたりを覆った。「大井さん、御来迎が見えますぞ」。佐伯が叫んだ。御来迎とはブロッケン現象のことである。たしかに虹らしいものが見えたが、断片がどんより見えただけで、冷光は納得しなかった。そのうち浄土山山頂に着いてしまった。しばらく山頂で御来迎が出るのを待った。

すると何うだらう、例の湿ぽいやつがまた来たと思ふ、うちに五六間彼方の空に直径一丈余の五彩燦き虹輪が浮び、而もその中に等身大の黒法師が三個瞭然と映つて居るではないか、そして其の真中のが高くて両傍のが小さい、鳴呼何等の美観ぞ、何等の偉観ぞ三尊が御来迎とは実にこれなる哉、僕は小躍りして叫び乍ら一行を呼びもどした、時は午前六時五分、朝瞰は本山の〓を出でて僕の背面より照り付けて居る、三体の黒影の中央は、杖を翳して見て僕なる事を知つた、両傍の小さい方はと気が付くとそれは有岡巡査と室堂酒保員とが僕の両側に立つて居たのである

前年に著した『立山案内』によれば、冷光は御来迎という現象に懐疑的だった。「浄土山上より日出を望むに際し、気層の温度及び湿度の不同により、光線屈折の作用を起こし、頗る奇観を呈することあり(中略)然れども、近来は絶えてこの御来迎に接したるものなしといふ」と紹介していた。前日26日の夕方にも、給仕の佐伯親人と会話しているとき、「御来迎を見たことがある」と自慢げに語られ、「そんなものが見えるかい」と打ち消していたのだが、いざ自分の目で御来迎を確かめると気持ちは昂ぶった。浄土山北峰の山頂からしばらく進んだところのお花畑でもまた御来迎を見て、「今更詩人ならば」と思った。御来迎を拝んだのが相当嬉しかったのか、室堂まで降りてすぐ綴った文章にも幸福感が満ちあふれている。

幸福なる哉、冷光、今七月二十七日苟くも、亡母の命日とあるに浄土山に登りて三尊の御来迎を拝したり、……と始めると、『奴さんまたごへいを喰つたな』などと嗤はれやう、嗤ふ者は喰へよ兎に角冷光は親の命日の今日、浄土山に登つて、日頃まさかと思つて居た御来迎の美観に接したのであるから豈それ特筆せざるを得べけんやである

日報特設休憩所
日報特設休憩所(雄山山頂)
『富山日報』明治42年8月1日3面

時間を御来迎を見たあとに戻そう。冷光たちは午前8時半、雄山頂上に到着し、休憩所を整えた。といっても「腰掛けを据え、炉を開き、さては歓迎の大社旗を越中湾に臨んだ懸崖に結び付け」としか記述がないので想像するしかない。腰掛けぐらいは運んだのかもしれないが、炉はおそらく石を並べただけ、頂上は形だけの休憩所だったのではないだろうか。

7月30日午後5時、接待所の幕の外から声がした。「碧梧桐さんが来られましたよ」。俳人、河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう、1873-1937)が室堂にやって来たのだ。「碧君の事は両三日前から待っては居た」と冷光は記している。

河東碧梧桐は、正岡子規の弟子で、高浜虚子とともによく知られた人である。定型と季語を離れた新傾向俳句を提唱し、明治42年4月から2度目の全国行脚の途中だった。雑誌『日本及日本人』(月2回刊)の俳句欄「日本俳句」選者であり、「続一日一信」を発表していた。これがのちに単行本『続三千里』(金尾文淵堂、大正3年)となる。

碧梧桐が高山から富山に入ったのは7月20日午後10時と記されている。宿は富山館だった。そこへ午後11時ごろ、北陸タイムス記者の舟木香洲をはじめ墨汁吟社の同人5、6人が訪ねてきた。舟木たちは講演を依頼しにきたのだが、碧梧桐は承諾しなかった。「形式は厭だ、誇張に流るゝのは僕の素志に反対する」と頑なだった。

その一連の経緯を記した記事がある。『北陸タイムス』明治42年7月22日1面の「碧梧桐の一夕話」で、署名は「つきなみ」となっている。「子規の薫陶を受けた先生だけに、凡てが地味で、着実である」と記した上で、そのやり取りを書いている。

暑苦しいけれど、再三、再四、講演を願って見た、が、何うしても承諾して呉れぬ、曰く、僕は一口でも二度言うのが嫌いだから、オックウな、だて堂々たる政治家でも甲乙の演説会で時々同説を繰返すことが有るでせうと言ふて見ると、其れや詮術が無いさア、政論だから、是に幾つもの議論が有っては困るでは無いか、島田三郎君らでも、甲乙丙丁、いずれもの会で、同一の政論を吐くを恥辱と思ふて居ないから[2]

同じ日の3面には、富山県内での日程も記されている。24日まで高岡に滞在して雑誌の選句を行い、25日には高岡の木津楼で開かれる中越俳人大会に出席、26日に立山登山し30日下山を予定していると書いてある。しかし実際には26日に八尾、翌27日再び高岡に戻って、立山登山は3日遅れの29日からになった。冷光はこの記事を読んでいたから3日前から待っていたのであろう。

碧梧桐は、この夜の室堂内を「榾烟に咽ぶ大衆の人でギッシリ、息も詰まる程」と記した。が、冷光の記録によると30日の宿泊者は比較的少ない47人だった。碧梧桐は、中林彬々や岡野牧羊という高岡の俳人らと一緒で、計10人の一行である。幕の外から冷光に声を掛けたのは中林彬々だった。

初対面であったのだろう、冷光は名刺を持って挨拶に行った。炉端の柱にもたれて巻き煙草をくゆらせている眼鏡の男、それが正岡子規なき後の俳壇をリードする36歳の河東碧梧桐だった。「接待所が空いていますからおいでなさい」と誘うと、碧梧桐は「ありがとう、あなたはひどいですなあ」と労をねぎらった。そして「ここには酒がありますか」と聞いた。

福引や蓄音機がひと通り終わったころ、碧梧桐たちは接待所にやってきた。

「登ってみるとうわさよりは雑作のない所だ」「飯も松葉臭くて食えぬと聞いていたが近頃こんなうまい飯は食ったことがない」。碧梧桐はそう言って飯を平らげた。そのうち、四高の学生、土岐越水も話の輪に加わったが、平林と岡野の方が疲れていて話は弾まなかった。午後9時すぎ、碧梧桐は冷光がすすめた蚤除け袋を着て寝た。「蚤よけの袋を借りなかったならば、恐らく一睡も出来なかったであろう」と碧梧桐は翌日の「続一日一信」に書いている。

翌朝早く、南風が強く周囲の山々は冴えて見えた。大勢の登山客が室堂を出払ったあと、午前5時ごろに碧梧桐の一行は出発し、浄土山と雄山に登って、午前10時すぎ室堂に帰ってきた。「仲語が例の悪い癖を出しいろいろ文句を持ち掛けて割増しをせぶるので、さすがの碧君も随分持て余して居られた」。冷光がせっかくだから書画帖に一句かいてほしいと頼むと、碧梧桐はすこし自嘲気味に「どうも平凡な句ですよ、まだ考えてませんから」と言ってこうしたためた。

立山登山即事
雪を渡りて又た薫風の草花踏む

『続三千里』の記述と読み合わせると、この句は室堂に到着する前に雪渓を渡り草花を見た場面を詠んだものである。

河東碧梧桐の一行は午前11時すぎ、室堂を辞して下山した。松尾峠を通って立山温泉に着くと午後5時だった。碧梧桐はその晩、四高生で俳人の土岐越水、日本画家の石崎光瑤、山岳会会員の辻村伊助(1886-1923)らと語り合う。

その中立山の頂上で顔を知った四高の土岐君が、工科大学生の某氏を連れて来た。農科大学生の辻村君が、信州の大町から途中一泊の野宿をして、針の木峠を越えて来たというて合い宿をした。高山植物実写に熱心な画家石崎光瑤氏が、辻村君と相知だというので尋ねて来る。予の部屋は一時人をもって埋った。山岳談、探検談、植物動物談、野宿の話などが相互に交換されて、疲れきった身も、ただ愉快に時を過した。[3]

碧梧桐が富山に戻ったのは8月1日夜。翌2日には墨汁吟社が歓迎会を開いた。午後4時から島倉鉱泉で句会があり、舟木香洲・高田稲光・大内白月・中田錦沙・卜部南水・黒田兎毛・田村無盡・赤江読天・吉崎空水・蜷川酔眼光・久世柴の戸・萩原椿川が出席した。午後8時からは花見橋畔にある八清楼で宴会が催され、中村杉樹・竹内水彩・若杉旅洲・亀谷清輔らが加わったという。[4]

冷光が碧梧桐のことを書いたのは「天の一方より」第9回と第10回で、それが『富山日報』に掲載されたのは8月4日と5日である。4日には、碧梧桐直筆の句が掲載されている。

立山頂上
七十二峰半ば涼雲棚引ける

碧梧桐の句
《七十二峰半ば涼雲棚引ける》
河東碧梧桐

『富山日報』明治42年8月8日3面

碧梧桐が立山に滞在したのは18時間である。その間、室堂で冷光と顔を合わせ話したのはほんのわずかな時間であろう。碧梧桐は高山に派遣された記者に強い印象を持ったのか、『続三千里』に「冷光氏に邂逅して種々厚意に接した」「冷光氏の乞ひに寄って書画帖に山上の即吟『雪を渡りて』を書した」と2度記している。

冷光と碧梧桐の文章を照合してみると、気になる言葉遣いが出てくる。それは「雲助根性」である。人の弱みにつけ込んでゆすりをするような卑しい根性をいうが、2人は山案内人である仲語に対して、同じような批判的文章を綴っている。

碧梧桐 7月29日記「一日一信」
いわゆる名詮自称で、何事につけても小理屈を言い、客の足もとを見、少し隙間さえあれば一銭二銭を貪らんとする、雲助根性に道理の衣を着せたその振舞は、中語という不熟な二字が如何にも適切であると感ぜしめる。(抜粋)

冷光 8月3日記「天の一方より」
▲仲語の雲助根性▼ 室堂に籠つてから十日余りになる、立山の仲語か雲助根性は充分に観察する事が出来た、最初数日は彼等の口実を本位として随分贔屓目に観た、殊に社務所や芦峅、岩峅の有志が『今では改まりました、仲語に悪い奴はをりません』と云ふたからそれ丈慎重に彼等の行動を注意した、處が何うであらう、如何に贔屓目に見たればとて、如何に山開き中僅か一月余が彼等一年中の収入時であるからと理由を付けてやつたればとて、如何に客も其通りに仕向ければとて其狡猾なる事迚も我慢が出来なくなつた(抜粋)

碧梧桐が立山登山を終えて室堂に戻ったとき、仲語が話題になったようだ。2人の会話に「雲助根性」という言葉が出てきたのであろう。

ただ冷光が仲語批判を展開したのは、碧梧桐に指摘されたからというわけでない。芦峅寺から室堂まで同行した奉幣使で、富山県社寺兵事課長の石坂豊一が7月25日、仲語の問題点を語っていて、冷光がそれを「奉幣使の土産談」という記事にしている。

我等の登山中最も不快に感じたは氏子中に頗る狡猾なる者ある一事なり芦峅より立山までは我等の實験に依れば約七里位なるべし、余は幸ひ強健なりしを以て苦もなく登山したるが、彼等は高き賃を貪らんが為めに初めての登山者などには殊更に里程を遠く吹聴し歩行をなるだけ緩慢にして里程を遠く覚えしむるなどなかなか図るき事を為し、中には恐ろしき妖怪話しを聴かして登山者に恐怖の念を起さしめ、或は奇石珍木等には荒誕無稽の説を附会して登山者に賽銭を上げしめ其賽銭を懐中し去るもの頗る図々しきものあり、又登山者の山賃人夫賃宿泊料等を加ふる時は一年間の芦峅岩峅両村氏子の収入は数千圓の多きに上り彼等は此収入を以て室堂の修繕其他登山者の便を計る経費に充つれば霊山の名声をして将来永く伝ふる事を得んに、彼等氏子は此収入を会社の利益金の如くに考へ悉く配当するが故に設備は依然として完全せざるなり、故に余は登山の際氏子に封し深く其不心得を注意し置きたり

仲語は、江戸時代に盛んだった立山登拝の案内人だが、これが近代登山においては優れた山案内人「立山ガイド」あるいは「芦峅ガイド」として名を馳せることになる。明治42年は過渡期というべきなのだろうか。碧梧桐は、芦峅寺に残る宿坊の制度を一種の保護政策だという批判も展開している。それがどこまで的を得た指摘なのか、ここでは考察するだけの資料がない。たしかに仲語の一部に不行き届きがあったのかもしれないが、仲語の果たした役割を評価せずに、あたかも仲語全員が雲助根性かのように批判するのは、一方的であるような気がする。[5]

碧梧桐と冷光の関係は、まだ分からないことが多い。冷光は3年後の明治45年夏、『少年世界』日本アルプス少年探検隊を指揮し、一行4人で長野大町から針ノ木峠を越え立山登頂を果たすのだが、そのなかのメンバーに河東汀(かわひがし・みぎわ)という14歳の中学生がいる。さらに時代は下って大正10年、冷光の『少女』の編集部に河東水亭という人物がいて、冷光が亡くなったあと、編集を引き継ぐ。この水亭は、冷光の遺著『母のお伽噺』の末尾に「偲びぐさ」という小文を書いて、冷光急死の詳細を書いている。汀と水亭、実は同一人物で、碧梧桐の甥だというのである。ただ、碧梧桐は『日本の山水山岳編』(大正4年)で、日本アルプス少年探検隊について触れて、針ノ木峠越えが「今日余りに平凡な冒険になった」と記したが、そこでは冷光の名も汀の名も出てこない。

冷光は明治43年末に上京し、児童雑誌の編集者となる。その後、どこかで碧梧桐と接点があるのかもしれない。

河東碧梧桐が下山した日の翌日、冷光は再び立山に登った。神官の佐伯五百津が案内役で、大阪大林区署山林技手の御領勲が測量人夫2人と登るのに同行した。御領は、同僚の小林三郎とともに、芦峅から室堂までの行程や郡の境界を測量するために立山に来ていた。[6]5人の一行は、立山本峰(雄山・大汝山・富士の折立)を縦走し、別山に向かう予定で出発した。

佐伯五百津は67歳というのに健脚で、さすがに物知りだった。途中、一の越の手前で、今が盛りと咲いている珍しい花を教えてくれた。植物採集家の須川長之助が見つけたことにちなんでチョウノスケソウという。冷光と御領は夢中になって摘んでしまうが、五百津は「立山でも咲いているのはここだけ、そのうち絶えてしまう。何とか繁殖させたいものだ」と言った。冷光は「実際立山の長之助草は黒百合以上に珍重なもの、何とか繁殖させたいものである」と記している。[7]

雄山山頂に着くと、5日前に立てた社旗のほうは残っていたが、休憩所の旗は風に飛ばされたのか既になかった。最高峰の大汝山に差しかかった頃、横風が激しさを増した。金剛杖を斜めに構えておずおずと進む冷光に対して、五百津も御領も気力十分だった。特に御領は、杖の代わりに双眼鏡を持ちながら、硫黄岳(八ヶ岳、2760m)で暴風雨に遭い、天幕を吹き飛ばされた体験談や、前方に見える白馬岳(2932m)へ登る近道を教えようかと山の知識を話しかけてくるのだった。

真砂岳を経由して別山の山頂につくと午前9時だった。横から大粒の雨が降ったが、神社の陰で避けて弁当を食べた。雨はまもなく止んだ。冷光は御領と別れて五百津とともに小走り坂を下りていった。しばらく進んだところに、ガラス瓶の破片が落ちていた。そこは2年前、高岡日報の探検隊が通ったルートで、隊員の学生が走り出して転倒した場所である。学生は30メートルも転がって落ちたが、岩に引っかかって止まり九死に一生を得たのだった。ガラス片はその時のものである。冷光がその話を語ると、五百津は感心した様子で「是非その話を新聞に書いて戒しめにしてほしい」と言った。

冷光は時間が空くと山に登った。8月4日は石崎光瑤と立山に登った。民間人として初めて剱岳に登った石崎は他の3人とともに7月25日いったん立山温泉まで下山したが、再び29日に一人で室堂に来て、スケッチのため大日岳に登った。31日に再び立山温泉に下りて河東碧梧桐と話し、みたび室堂まで上がってきていた。[8]石崎は前年にも20日間、立山に滞在し写真撮影やスケッチをしていた。明治42年5月に東京で開かれた山岳会大会で、石崎の立山の写真5枚は山岳愛好家の間でも高い評価を得ていたが、それはおそらく前年夏に撮影したものだろう。冷光に言わせると石崎は立派な「立山通」だった。

大井冷光と剱岳
大井冷光と剱岳
『少年』157号(大正5年10月号)
背景に真砂岳稜線があるので
撮影場所は富士の折立とみられる

「立山独特の巌を見るには立山から富士の折立あたりまで行かなければなりません。室堂から雄山神社までの道は石垣を見るようでつまりませんよ」。石崎はそう言った。2人は未明に室堂を出発し、雄山山頂で日の出を見た。それから大汝山を経て富士の折立に来て、その近くで雪渓に下りた。石崎は「去年ここで新しい熊の足跡をみたときは本当に気味が悪かったよ……今日あったら新聞ダネですがねえ」と冗談めかして言った。実際に冷光が足跡を探してみると爪もある足跡が見つかった。石崎は『これは去年の足跡かもしれない、今年のではないらしい』と言った。

石崎が剱岳を写生し、冷光が通信をしたため終わると、記念写真を撮ろうということになった。まず冷光が金剛杖を横たえているところを撮ってもらった。冷光はカメラの使い方が分からなかった。石崎がピントを合わせ種板を入れて写すばかりにしてからレンズに向かい、「いち、にい」の号令で冷光がシャッターを切った。[9]2人が室堂に戻ると登山客があふれていた。この日の宿泊者は265人、シーズン最多となった。

[1]「少年世界日本アルプス探検記」『少年世界』第18巻第16号(大正元年12月)p38-39。

[2]『続三千里』河東碧梧桐全集第10巻と第16巻による。この「つきなみ」は、『北陸タイムス』8月1日1面に「竹冷と碧梧桐」という記事も書いている。角田竹冷(1857-1919)は、30日富山で講演会を行った人物。「政客ながらも文学を得意に語る角田竹冷と、当代一流の新派俳人、碧梧桐を見る」という書き出しで、2人を比較して論じた。竹冷はただ風流を弄ぶ政治屋、碧梧桐は実力と弁才あれども多くを語らず多くを衒わず、文士振らず、物識りを標榜せず、という。竹冷の長舌なると、碧梧桐の沈黙なるを対照せば、甚だ異様の感に打たるるなり、と書いている。

[3]『富山日報』明治42年8月4日の「天の一方より」(九)では、30日に立山に登った125人のうち、「東京の山岳会員の学生増田吾助外三人が昨日針木峠を超して来た」とある。『山岳』第4年第3号(明治42年11月)では、「会員田中健太郎、同伍一、増田吾助の三氏は、七月二十五日に東京を出発、大町より針木赤澤の(籠川との)合流点に、第一野営し、二日黒部に一泊し、翌日立山室堂に至り、石崎光瑤氏の一行と逢ひ、富山に下山せられたり」とある。『富山日報』は4人、『山岳』3人で違いがあるが、増田と辻村が同行していたのか、それとも別々に針ノ木峠を越えたのかは不明である。辻村伊助(1887-1923)は明治42年7月に長野県大町の旅館「對山館」主人、百瀬慎太郎(1892-1949)と知り合いになったとされている。碧梧桐は、大正4年の『日本の山水』山岳編で、石崎を剱岳に登った某画家として記している。「雪を渡りて又た薫風の草花踏む」であるが、「又」は間違いで「又た」が正しい。碧梧桐はこのほか、次の歌も詠んでいるという。「八月一日立山温泉藥師堂の依頼にて額を揮毫(松尾峠の即吟) 温泉に下る百合逆咲きの峠かな」。水木伸一「碧梧桐と立山」『高志人』28巻9号。

[4]『北陸タイムス』明治42年8月4日2面による。『続三千里』では、「富山同人の歓迎の宴に列した」とあるだけで、前日の宿泊は島倉鉱泉でなく明治鉱泉に宿泊したことになっている。この点について、広瀬誠『立山黒部奥山の歴史と伝承』(1984年)p332で検討されているが、今後の調査を待つとある。碧梧桐が下山して歓迎会で北陸タイムス記者に語った内容の一部が「漫録 俳句と文学(一) 女許りは出来ませぬ」と題して8月6日1面に掲載された。しかしこの内容に関して、碧梧桐は同日の「続一日一信」で異議を申し立てた。「予の訥弁のためであるか、談話の要領が全く徹底していない。中には意味が転倒しておる。ここに略是正して置く」として、相当に詳しく異例の文章を綴っている。「漫録 俳句と文学」は1回きりで第2回以降は掲載されていない。この「漫録 俳句と文学」を書いたのは舟木香洲と推定されるが、いい加減な内容を書いておきながら、全く反省の色がなかった。翌年の明治43年7月20日の1面に「つはもの」という署名で「俳壇漫語」という記事があり、そこには1年前に碧梧桐を百円足らずの金で歓待したのに「東京の碧派の先生達は富山の俳人は先生を侮辱したと怒っているげな」などと茶化して書いてある。碧梧桐からみて、富山の俳人の印象は相当悪いものであったにちがいない。

[5]仲語については、五十嶋一晃「立山をめぐる山岳ガイドたち2」『立山をめぐる山岳ガイドたち』(立山カルデラ砂防博物館、2010年)に詳しい。「立山中語人夫同盟」が結成されたのは明治28年から明治30年の間であるという。

[6]『職員録明治42年(甲)』によると、大阪大林区署の山林技師4人は職階順に島村典眞、伊藤恒太郎、御領勲、小林三郎。河東碧梧桐と河東汀については、中条たつを「蝉のように――藤井尚治のこと――」『高志人』28巻10号。

[7]明治22年(1889)に植物採集家の須川長之助(1842-1925)が発見。ロシアの植物学者マキシモビッチが滞日した時、植物採集の手伝いをした長之助が、明治時代北ア立山でこの植物を採集、のち牧野富太郎博士によって命名されたという。

[8]『山岳』第4年第3号(明治42年)には次のようにある。「會員石崎光瑤氏は、七月十七日立山に第三回登攀を試み、二十四日河合良成、吉田孫四郎、野村義重氏等と共に打ち連れて、室堂を發し劍岳谷に露営し、二十五日劍岳の頂上を極め二十六日立山温泉に下り、石崎氏は更に立山に第四回登攀を試み、二十九日奧大日岳に登られ、三十日温泉に下りて休養、八月三日に更に第五回登攀を試み、植物風景等の寫生に日を送り、十一日下山されたり。」一方で、次のページには次の記述もあり、日付で混乱を招いている。「會員能登定吉氏は、七月二十三日立山登山、二十四日正午、室堂に於て、石崎光瑤氏一行の劍岳探檢を遂行し歸らるゝに會ひ、二十五日立山温泉に降られたり。」

[9]広瀬誠『立山と白山』1971年、によると、大井冷光は「立山頂上で剱岳を背景にして写した自分の写真を絵はがきにしてそれを常用するというほど立山を愛した人」だという。冷光が立山に登ったのは、明治40年、42年、45年の夏である。石崎に撮ってもらった写真が、剱岳を背景にしていたかどうかは分からないが、関連を感じさせる話である。『少年』157号(大正5年10月号)p84-85には見開きで「剱ヶ嶽と冷光君」という写真が掲載されている。岩の上に腰をおろし、金剛杖を両手を添え、笠をかぶっている。背景に剱岳が写っている。もしかしたらこれが石崎光瑤に撮ってもらった写真なのかもしれない。(2013/07/04 23:01)2020/7/5加筆修正

5_室堂で音楽会・揮毫会・演説会

明治42年8月8日の『富山日報』3面に「愈々本日より 立山山頂空前の賑ひ」という記事が出ている。前述したようにそれまで秘密にされてきた音楽会・演説会・揮毫会が、ついに8日から室堂で開催されるという告知記事である。

富山日報の立山接待所は、室堂に1か月間、夏山臨時支局を設置し、そこに大井冷光記者が常駐して記事を送る一方、登山客を蓄音機などでもてなすという企画だった。そしてその期間中に、音楽会・揮毫会・演説会という催しを開催することが謳い文句となっていた。当初、7月23日の記事では、5日に学術大演説会、10日に立山実景画会を開くことまで明らかにしていたのだが、予想以上に大きな反響があり、室堂の大混雑が危ぐされたため一転して開催日を秘密にしてきたのだった。25日の紙面で音楽会開催も告知したが、日程は秘密だった。8月8日の「愈々本日より」の記事には、主筆の匹田鋭吉をはじめ画家や音楽家など参加者14人の名が書かれている。

立山室堂での音楽会・揮毫会・演説会の参加者(明治42年8月、富山日報社主催)
匹田鋭吉 富山日報主筆、明治元年生まれ
鷲田碌翁 画家(美濃)
鷲田清美 碌翁の息子
島田神水 本名信太郎。明治4年9月21日富山生まれ。南画(墨竹研究)。大西金陽に師事。美術協会員。富山市西中野町242番地。※『日本美術年鑑』大正元年度。明治25年東京美術展覧会出品の「月下双竹」が宮内庁買い上げ。※「一日一人名物そろへ(三十)『富山日報』明治43年11月1日.
高山富雄 高山富雄 明治6年8月28日金沢生まれ。四條派の日本画家。原在泉、今尾景年に師事。明治29年京都美術学校絵画科卒。巽画会員、日月会員。富山美術協会幹事。東京府本所区小梅町1番地。※『日本美術年鑑』大正元年度。魚津中学教諭心得。「美術学校出身、四條派の妙手」(『富山日報』明治42年7月30日3面)
塩崎逸陵 1884-1974。本名一郎。明治17年11月1日富山県高岡市生まれ。日本画家(印象派) 寺崎廣業に師事。明治40年3月東京美術学校日本画科卒。研精会委員、巽画会員。東京府本郷区動坂町100番地。※『日本美術年鑑』大正元年度。
富田秀法 明治17年3月21日富山生まれ。教師。四條派の日本画家。富山美術協会庶務。富山市総曲輪16番地。※『日本美術年鑑』大正元年度。
浦山希義 音楽家、南田町小学校訓導(富山)
今村あさ子 音楽家、堀川小学校訓導(富山)
亀田外次郎 県弁護士会長
佐々木松蔵 県師範学校教諭、明治34年から同校。大正3年から県立富山高等女学校校長。福井県出身
吉沢庄作 魚津中学校教諭
山田亀太郎 写真師(富山市古鍛冶町)
栂野政次郎 (実業家)
浅野八重子 看護婦
浅野徳太郎 八重子の兄
一行芦峅寺到着
《一行芦峅寺到着》 高山富雄
『富山日報』明治42年8月10日3面

14人が富山を出発したのは前日の7日だった。出発した事実は伏せられ、7日の紙面には女流音楽家の今村あさ子と、日本赤十字富山支部所属の看護婦浅野八重子が登山することになったという記事だけが掲載されている。『富山日報』は、室堂大混雑への警戒を緩めていなかった。同じ8日にこんな記事が出ている。

団体旅行の注意
例年本月の八、九、十、十一の四日間は立山登山者非常に多く室堂満員にて殆大小便に通ふことすら不可能なる程にすし詰めとなる有様なるが、本年は我社の接待所もあり為に其登山者は何百人何千人に達するやも知れず(中略)山頂露宿の覚悟無き団体旅行は成べく右四日を除きたる以外の日を選定して登山する方宜しかるべし

立山 禅定道(明治時代の推定) 鏡石・姨ヶ懐・姨石

8月8日は朝から快晴だった。主筆の匹田ら講演者の一行が登ってくることを聞いていた冷光は、接待所を拡張し、地獄谷の風呂に水を張るなど朝から準備に忙しかった。

正午ごろ一足早く室堂に着いた仲語が言った。「日報社の一行12人が登られますから、迎えに行って下さい」。賓客が室堂に来る場合、握飯を持って迎えに行くのが通例になっていた。[1]器械方とよばれる人たちが早速その準備を始めた。

一の谷に於ける浅野女史
《一の谷に於ける浅野女史》 塩崎逸陵
『富山日報』明治42年8月17日3面
Kagamiisip
鏡 石

冷光はそれを待たずに草履で一足早く迎えに出かけた。室堂から西への道を降りるのだが、なかなか一行は見えない。途中すれ違った仲語に尋ねると、「女房衆が二人いるのでまだ遅いでしょう」という。およそ1里(約4キロ)、標高差にして220メートルほど下った鏡石(標高2230m)まで来て、そこで一行を待った。

1時間余りたち、午後3時30分になってようやく獅子ケ鼻からの道に白い笠が見えた。先頭はカーキー色の社服で胸に花を飾った主筆の匹田だった。続いて弁護士会長の亀田外次郎、画家の高山富雄。冷光がよく知る人物だった。茣蓙の上から束髪を出した女性は、匹田から紹介されて看護婦の浅野八重子だと分かった。

冷光が「島田さんはどうなさった……」と聞こうとしたとき、「やー、大井さん、御苦労さまな」。後ろの方から元気な顔を見せたのは画家の島田神水だった。島田は竹を得意とする水墨画家でやはり顔見知りだ。「お疲れでございましょう」とねぎらうと、島田は匹田と口を揃えて「思ったよりは易いですな」と言った。

立山 鏡石
《 鏡 石 》 島田神水
『富山日報』明治42年8月16日3面

鏡石は、高さ約2.5メートル、幅約2メートル、奥行約1.5メートル。伝説上そのように名付けられたのだが、特に鏡のような平面があるというわけではない。「この石はただこれだけのものですね」と浅野は言った。しかし水墨画家は違う。「鏡の表に元禄美人が扇を持って舞うところが写っています。誠に鏡石の名にそむきませんな」と島田は言った。今までそんな話は聞いたことはないと不審に思って見ると、岩の表に付着したコケが舞い姿にも見えるのだった。

神官我々を歓迎す
《神官我々を歓迎す》 高山富雄
『富山日報』明治42年8月21日3面

3人が遅れていてまだ来ない。冷光はひと足先に室堂に戻ることにした。途中、仲語の佐伯親人そして神官2人が、握り飯やビールや缶詰を持って迎えにいくのとすれ違った。鏡石でのもてなしについて、匹田は「奉幣使以上の待遇であろうと思ふ厚意感謝の至である」とのちに記している。[2]

この夜の室堂宿泊者は104人である。冷光が接待所で蓄音機を動かしていると、匹田ら15人がドヤドヤと入ってきた。わずか8畳の広さの接待所はすぐにいっぱいになった。「思ったよりはきれいだな」と口々に言う。一行は、地獄谷の露天風呂に入って疲れを癒した。風呂から戻った匹田は上機嫌だった。「あの湯に入ると頭だけが冷えて大変好い心地だ、君……神代の雪を眺めて湯浴哉……悪くはなかろう」。

匹田が俳句を詠むのは珍しかった。すでに詳しく記したように、読売新聞の政治部に在籍していたころから関心は主に政治だったのだが、もともと文芸に興味をもっていた。10日ほど前の7月30日に俳人で政治家の角田竹冷(1857-1919)の講演会が、富山文芸会の主催で開かれたのだが、その角田を招いたのは他でもない匹田だった。『富山日報』の紙面をみると、竹冷の講演要旨が8月1日の紙面に紹介されている。そして4日と5日には河東碧梧桐の記事や俳句が紙面に出ている。俳句界の重要人物が相次いで来県していたこともあり、匹田は歌心を刺激されていたのであろう。

匹田は室堂から『北陸タイムス』編集長の卜部南水に便りを出した。それが同紙8月13日3面に出ていて、そこにも俳句がある。

立山より
立山の霊気に触れて小生俄かに天下の俳人となれり其の一二を左に
 神代の雪を眺めてゆあみかな
 白山は孤島となりぬ雲の海
小生の俳句を見て天気でも変わりはせぬかと心配する人あれど其事なかりしは幸いなりき
         雪堂
卜部南水兄

8日夜の夕食は、白袴をはいた神官が接待した。室堂名物の一つ、タテヤマアザミの味噌汁が大好評で、魚津の藤本旅舘から寄贈された鯛の刺身も、社務所や器械方はもちろん宿泊者全員にふるまわれた。[3]

匹田たち一行が到着した8日夜、午後8時ごろから音楽会が始まった。音楽会と言っても舞台があるわけでない。狭い8畳間で浦山希義と今村あさ子が笛や琴を生演奏をした。

1 清笛月琴合奏(徳健流茉梨花)
2 清笛月琴合奏(平板調久聞歌)
3 提琴月琴合奏(武鮮花)
4 提琴月琴合奏(西皮調)
5 提琴月琴合奏(月宮殿)
6 鳳尾琴と月琴の合奏(筝曲六段)

いずれも明清楽である。音楽会が始まったころはいびきも聞こえたが、曲が進むにつれて、室堂内は静かになった。

浦山君が太い声で『コムエトーセーハー…』などゝ唐人の唄をやり出すと、囲幕の上には顔がだんだん殖える、やがて十時近くとなり、堂内は余りに水を打ち過ぎた様に静まり帰へつて居るので、若しやと案じて居たがやがて曲が終るや、南の隅から北の隅まで室堂破るゝが如き喝采となつた、社員たる僕等は初めて我が社の大音楽会の手答ひを知り得て窃かに胸躍らせた訳合でムる

浦山希義は富山市南田町小学校訓導、今村あさは上新川郡堀川小学校訓導である。[4]

立山室堂の音楽会は、今日の尺度では音楽会とは到底言えないが、明治時代末期に夏にのみ営業する山小屋で楽器を演奏したことは画期的な試みだった。ちなみに17日後の明治42年8月25日、富士山では「富士絶巓大音楽会」が開かれた。毎日電報の音楽記者である加藤庸三(長江)が発案し、加川琴仙が世話人、永井建子が団長格となった。総員約70余名だったという。[5]

翌日、匹田たちの一行は揃って立山に登った。午前10時、室堂に戻ると、接待所で画家による揮毫会が開かれた。揮毫するのは、鷲田碌翁・島田神水・高山富雄・富田秀法・塩崎逸陵の5人である。8畳間の中央に毛氈を広げ、その上で5人がひじとひじをすり合わせながら描いた。扇子あり短冊あり、画帖あり絵葉書あり、午後5時頃までそれぞれ百枚前後も描いた、という。

碌翁君の画は豪壮である富雄君や秀治君の画は誠に奇麗である、又逸陵君の画は如何にも素人好きがして嬉しい、殊に竹専門の神水君がこの日に限つて一本の竹も描かず、濃墨、淡彩愈々出でていよいよ其筆力の勁健なるを示されたるは敬服の至であつた

匹田は室堂内の窮屈さにたまらなくなって外に出た。しばらく休んで戻り、亀田と一緒にまた外に出ると、ござを敷いて露営の準備をしている人たちがいた。それは、その晩の演説会の講師、佐々木松蔵と吉沢庄作たちだった。富山日報の演説会が開かれることを予期してか、大勢の登山客で室堂はもうあふれていた。「午後三四時頃には室堂は全く立錐の余地無く後れて着きたるものは屋外に茣蓙を敷きて露営するのを止を得ざるに至りたり」と冷光は記している。匹田は、あらかじめ社務所に交渉してとっていた別席に案内し、講師たちの露営は避けられた。

冷光は、忙しかったからか、この8月9日の宿泊者数・登山者数・気温などのデータを書き留めていない。ちなみに8日も10日も最低気温は8.9度、10日の登山者が252人と記録されているので、9日の宿泊者は200人近くに上ったものとみられる。

福引大会が終わって、午後8時からいよいよ演説会が開かれた。司会は冷光である。最初に登壇したのはカーキー色の社服を着た主筆の匹田鋭吉だった。匹田は「高山に登るという事は、しだいに宗教的色彩が薄くなり、自然美の鑑賞となって、更に進んで今は体力の鍛練と精神の修養を目的とするようになった」と語り、富山日報社が立山接待所を設けた意義を力説した。2番目は、県弁護士会長の亀田だった。モーニングに白足袋姿の亀田は穏和な口調で、越中人らしい立山自慢を展開した。

予が立山に対して感じたる事第一は山容の非凡なることなり予の意見にては富士山は秀麗にして立山は豪壮なり富士山は愛嬌ありて立山は威厳に富む富士山は愛すべく立山は敬すべし富士山は淑徳高き貴婦人の如く立山は千軍萬馬叱る英雄の如しと評するも亦可ならずや(中略)
最後に一言を附加せん仮に富士山を東の大関とし立山を西の大関として土俵の上に雌雄を決せしむることを得は優勝旗はいずれに帰すべきか単に山の形状のみに就て比較すれば双方五分にして引分とするを相当とすれど其内容に於ては単調なる富士山は多趣味なる立山に匹敵せざること明かなり故に本邦第一の名山なりと断定するも決して過賞にあらざるを信ず

3番目に登壇したのは魚津中学の教諭で博物学の吉沢庄作(37歳?)だった。吉沢は『富山日報』で2年前に「高山旅行」、1年前に「大蓮華山跋渉録」を寄稿し、登山家として広く名を知られるようになっていた。室堂での講演では、学者らしく地学の観点から立山は富士山より古いことを説いた。

吉沢の次は、富山県師範学校の佐々木松蔵である。福井県出身で、明治34年3月、東京高等師範学校理科博物学部を卒業した。佐々木は、やはり地学の観点から立山の噴火口が立山温泉付近であることや材木坂の成り立ちについて専門的に話した。背が高い佐々木は、演壇に立つと頭が鴨居の上から出て、漫画のような光景だったと冷光は記している。[6]

最後の弁士は大井冷光だった。『少年世界』の愛読者会である土曜会(富山市愛宕町76番地)が主唱して編成された少年立山登山隊35人がちょうど室堂に来ていた。冷光が話したのは、立山を開山した佐伯有頼の話だった。これは、8月1日発行されたばかりの『越中お伽噺』第2編に納められた2話のうちの1話である。[7]

室堂に着いた登山者はふつう疲労のため仮眠をとる人が多く、日没ともなれば寝てしまう人も少なくなかったというが、演説会の日は居眠りする人はいなかったという。最後に主筆の匹田の主唱で万歳唱和を行うと、聴衆の中から匹田君万歳と絶叫する者があったという。演説会は3時間近く行われ、午後11時ごろ終わった。

総て室堂宿泊者は終日峻坂を攀ぢ上りたる疲労にて堂に入れば直に睡り、日没後は鼾聲堂に満つるを例とするに此日は一人として居睡りを為すものすら無く冷光のお伽噺を終るまで一同興に入りて静聴し居たるは主催者の特に満足する處なり

富山日報立山接待所記念写真
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富山日報立山接待所 音楽会・揮毫会・演説会の参加者
『富山日報』附録 明治42(1909)年9月5日
※同年8月10日撮影 (富山県立山博物館蔵)

翌朝、匹田たちの一行は午前5時に起床し、旅装を調えたあと、外に出て記念撮影をした。この朝の最低気温は5.6℃。相当寒かったはずだ。

この写真は「立山接待所本日限り閉場」を報じる『富山日報』9月5日付の附録として印刷され、現物が今も富山県立山博物館に残っている。当時の登山者姿を知ることができる貴重な一枚だ。5日2面には写真説明として21人の名が記されている。

後列右から吉沢庄作・村上安太郎・大井冷光・吉田博・今村あさ子・佐伯数馬・浅野八重子・佐々木松蔵・匹田鋭吉・鷲田碌翁・亀田外次郎・鷲田清美・栂野政次郎・佐伯等・小西為次郎・島田神水

前列右から浦山希義・富田秀法・塩崎逸陵・高山富雄・浅野徳太郎

佐伯数馬は雄山神社氏子総代、佐伯等は雄山神社社掌。村上安太郎は不詳。小西為次郎は予備陸軍少尉。

多くの人は金剛杖と墨書きした笠を手にしている。ほぼ中央にいる匹田の笠には「HE」の文字がある。詰襟を来た男性が多い。女性は着物である。佐伯等は杓を手にしている。冷光は着物姿のように見えるが、綿入れのようなものを羽織っているだけようにも見える。[8]

撮影した写真師の山田亀太郎は、山好きで明治40年7月の奉幣使の随行写真師となっている。この明治42年は7月に『高岡新報』の主筆、井上江花の黒部峡谷探検に同行したばかりだった。[9]

匹田の一行は、朝食を済ませると、地獄谷と松尾峠を経由して立山温泉に向けて下っていった。11日に立山温泉で一泊し、富山に着いたのは12日の晩であった。

[1]明治36年7月の立山奉幣使の同行記事にも出てくる。

[2]「立山みやげ」4『富山日報』明治42年8月16日3面。

[3]タテヤマアザミの味噌汁、イワタケの吸物、ご飯をつぶして味噌を塗って焼くごへいが室堂の三名物と言われたという。

[4]『富山県教育會雑誌』によると、明治39年8月に教育大会が富山市で開かれた際、音楽会が2日間開かれ、そのときの演奏係は杉江主任以下6人である。
杉江秀(独唱) 富山県師範学校教諭
浅尾初音(合唱) 富山高等女学校教諭
吉岡うた
氣駕良次(ヴァイオリン/箏)
浦山希義 富山市南田町小学校訓導、福井県出身
小池悠作
『中等教育諸学校職員録』明治41年10月によると、当時の音楽教員としては富山県師範学校に高塚鏗爾、富山高等女学校に浅尾初音、高岡高等女学校に吉田なほ(石川県出身)がいた。

[5]永井建子「富士登山の感想」、加藤長江「音楽家富士登山記」、加川琴仙「霊山果して俗化されたる乎」、3編いずれも『音楽界』2巻9号(明治42年9月号)所収。同号の口絵として写真が掲載されている。小松耕輔著『音楽の花ひらく頃 ― わが思い出の楽壇 ― 』。

[6]佐々木は当時富山県立師範学校教頭。博物学を専門としていた。『富山県教育会雑誌』第1号(明治35年3月11日)に「小学校に於ける博物教授の価値」という寄稿がある。大正3年に県立富山高等女学校校長、大正6年に県立女子師範学校校長兼務。大正8年7月、女学生たち一行49人(引率者11人含む)で立山登山を行ったことで知られている。

[7]『富山日報』明治42年7月24日3面には、少年隊のために冷光がお伽噺を語る予定が記されている。『北陸タイムス』明治42年7月29日3面によると、少年隊は往復4日分の会費が2円30銭で、この日の時点で20人近くの応募があったという。富山出発が8月8日であるから、室堂到着は9日、すぐに演説会だったのであろう。

[8]富山県立山博物館『大衆 山へ 大正期登山ブームと立山』2008年、p12に、この写真がやや大きく掲載されている。(平成20年度特別企画展)

[9]「一日一人名物そろえ」18『北陸タイムス』明治43年10月20日1面に山田写真館主人。(2013/07/17 00:14) 2017/02/03修正

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6_洋画家吉田博と立山3作品

明治42年夏の立山で大井冷光が出会った人物のうち、後世に名が知られる人物といえば、日本画家の石崎光瑤、俳人の河東碧梧桐、洋画家の吉田博、山案内人の宇治長次郎などが挙げられる。このうち最も濃密なかかわりを持ったのは吉田博(1876-1950、当時32歳)である。[1]

吉田は8月2日に東京を発ち、5日に室堂にやって来た。[2]当初は約10日間滞在の予定だった。冷光が運営している立山接待所に寝泊まりし、よほど気に入ったのか、結局3週間も寝食をともにすることになる。特筆すべきは最後の5日間だ。冷光と吉田は、宇治長次郎の案内で黒部谷の平(だいら)ノ小屋とザラ峠を探訪し、立山温泉から室堂に戻って、別の案内人を得て大日岳・称名ヶ滝を探検する。

本題に入る前に、吉田が当時の洋画界でどんな位置にいたのかを記しておこう。[3]明治時代後期の洋画界は、フランス印象派の影響を受けた黒田清輝(1866-1924)らの新派「白馬会」(明治29年創立)と、明治美術会を引き継ぐ旧派「太平洋画会」(明治34年創立)という2つの勢力が競う構図にあった。吉田は太平洋画会の中心メンバーの1人である。白馬会の画家たちが官費留学をするのに対して、吉田は明治32年、23歳のとき仲間の中川八郎とともに渡米し自身の絵を売って資金を稼ぎながら欧米を遊学した。強い在野精神から、10歳年長で東京美術学校西洋画科教授の黒田清輝に対して対抗意識を燃やし、「黒田清輝を殴った男」と噂されるほどであったという。海外修業は3回でのべ約5年になった。明治40年2月に帰国してからの活躍は目覚ましかった。同年10月、初めての公設公募展として開かれた文部省美術展覧会(第1回文展)に水彩画3点を出品し、いずれも入選した。そのうち《新月》は3等賞という評価を受け、文部省買い上げとなった。翌41年の第2回文展でも、水彩《雨後の夕》が2等賞(最高賞)を受賞し、《峡谷》が文部省買い上げになった。[4]明治40年9月には、博文館から著書『寫生旅行 アメリカアフリカヨーロッパ』を出版している。また、山岳画家として注目され、明治42年5月の山岳会大会にスイスアルプスの水彩画など18点を出品したことは既に記した。

冷光と吉田が出会ったのは、明治42年8月5日の夕方、場所は立山室堂である。

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立山室堂
スタンプから明治42年の絵葉書と推定される
江戸時代中期の創建とされ1995年国重要文化財指定

夕方酒保へ行くと新進洋画家吉田博君が来て居て石崎君に曽て瑞西のアルプス山や、亜米利加のロッキー山の写生旅行をした話をして居られるから、聞けば同君は茲十日間許の予定で立山を写生するのださうな、先頃の文部省美術品展覧会に幽谷を描いて好評を拍した同君が今秋は我が立山を紹介して同会に光彩を添えて呉れると思ふと大いに歓待すべしである

吉田博と石崎光瑤は面識があったのであろうか。明治42年5月16日に東京で開かれた山岳会大会では、2人の写真や絵が話題になった。『読売新聞』5月18日5面によると、吉田博は画家の大下藤次郎らとともに5月の大会に参加していたが、石崎が上京して参加していたかどうかは不明である。2人がその場にいたとしたら、2か月半後の立山室堂では顔見知りとして再会したことになる。ただ、石崎は早くに山岳会に入会したが、吉田は入会していなかった。

当時の吉田に対して「新進洋画家」という表現は明らかに不適切である。冷光がよく知らずに書いたとしか思えない。吉田の画壇デビューは明治31年の明治美術会創立10周年記念展に《雲叡深秋》など4点を出品した21歳のときである。「新進」と言えるのはせいぜい明治33年にパリ万国博覧会に出した《高山流水》が褒状を受賞したあたりまでであろう。明治42年の時点で吉田は、新派「白馬会」に対抗する太平洋画会の若きリーダーであり、美術に趣味ある人なら当然名を知っていてもおかしくない人物だった。

冷光にもともと絵画趣味がなかったというわけでない。農学校で学んでいたころ、親友で画家を志す五島健三が写生に出かけるのによく付いていった。油絵を描くのを横でよく見ていたのであろう。冷光はある日の日記に「我が社会観に一の定義を存す、凡て人を見るには油絵観たらざるべからず、よく三歩を退き五歩退いて人物を評すべし」と綴っている。その2年後に、師である井上江花と語らったときにも、自らの処世則の一つに「人を見るには油絵と同心掛なるべし」と記している。自らは油絵を描かないが、油絵というものに関心があったことは確かである。

五島とは極めて親しい仲である。大学進学を目指す受験生だった明治37年の一時期、東京で同宿していた。富山に戻って明治38年、恩人の井上江花にお礼をするため作品制作を依頼したこともある。明治42年春には自著『越中お伽噺』の表紙デザインを依頼している。五島が東京美術学校西洋画科を卒業したあと第1回と第2回の文展で連続入選を果たしたことは、冷光も当然知っていたことだろう。その五島の師が、岡田三郎助であり黒田清輝である。それにしても人間関係とは不思議なものだ。冷光が明治42年夏、立山で思いがけず出会った吉田は、親友が属する美術団体とは対立する側にいる。そして文展で3等賞、2等賞と受賞し、しかも文部省買い上げという栄誉を手にした著名な画家なのだ。運よくというべきか、洋画界の情勢を知らなかったがゆえに、冷光は予断を持たずに吉田に接し、興味深い逸話をいくつも書き留めている。

冷光の書いた内容に入る前に、もうすこし吉田博という人物について触れておこう。吉田はこのとき32歳。冷光より9歳年長だ。前年7月に長女が生まれたばかりだったが、家を空けて山に籠もるように絵を描いたらしい。安永幸一氏の『山と水の画家吉田博』(2009年)では、次のように記されている。

いま風にいえばバリバリの硬派。頑固そのもので、いったん決心したら、どんな事があっても最後まで貫き通す。反骨魂では誰にもひけをとらない九州男児の中の九州男児。無駄なおしゃべりや芸者遊び、歌舞音曲などの軽佻浮薄な亭が大嫌いで、浮いた話はどこを探してもカケラもない。身なりにも全く無頓着で、ついた仇名が「煙突掃除」。「ある夏の日、親戚に行く時、博は絽の羽織を着て出かけましたが、帰りにはその羽織をクチャクチャにまるめて懐に入れて掃ったり」「(写生に出かける時は)ズボンをめくって、脚絆を巻いて草鞋履きといういでたち」で、服装はもう「滅茶苦茶」(『朱葉の記』)。生涯、描きたい自然を求めて、なりふりかまわず、ただひたすらに山野を駆けめぐった「絵の鬼」。

全生涯を通じ、一貢して、清新と叙情にあふれた風景画を描き続け、日本人特有の自然への畏敬の念や愛着、人と自然との親しい調和を願い続けた"近代風景画の巨匠"吉田博のこうした風貌や自然への愛着は、多分に生来のものである。有馬藩の武士の家に生まれたことが、その質実剛健な性格を育んだであろうし、少年時代を過ごした吉井町の自然環境が博の自然への眼を開かせることになったのは冒頭に述べた通りである。

こうした少年時代からの博の自然への取組みを決定的に本格化させたのは、冒頭でも述べた、十九歳の夏に丸山晩霞と決行した奥飛騨での二ヶ月にわたる山籠りの"決死的"写生旅行である。(安永幸一『山と水の画家 吉田博』2009年、p154-155)

吉田の性格がよく分かる文章なので、少々長くなったが引用させていただいた。『山と水の画家吉田博』は、片道切符の渡米から、若くして風景画の巨匠となり、大正時代に入って木版画に新しい境地を見いだすまで、吉田の足跡を丁寧に追った評伝だ。『朱葉の記』は妻で洋画家の吉田ふじをの著書である。

再び8月5日の室堂である。午後6時のことだった。誰かが外の美しい夕映えに気づいた。冷光と吉田は慌てて裸足のまま外に出た。「夕陽が今しも前大日の肩に落ちやうとして四邊の雲は輝き渡つて居る、而し越颪が吹き荒れるので呆然すると吹き飛ばされさうだ」。刻々と変化していく夕映えの美しさに皆が見とれていると、吉田は反対側の峰々に垂れた雲の趣を写生しはじめた。吉田の美意識は他の人たちとどこか違っているのだった。山岳写真を得意にする石崎が、カメラを持ち出して組み立て、ピントを合わせようとしたころには夕映えは終わっていた。

その晩、冷光は吉田から面白い体験を聞いた。「晩に榾火の端で同君が曽て実見された西班牙の魔法城の面白い口碑を記者に話された」。これは、明治39年10月25日にスペインのアルハンブラ宮殿を訪ねた時の話らしい。吉田は明治43年3月、『寫生旅行 魔宮殿見聞記』を博文館から出版している。

バリバリの硬派である吉田。登山者のために蓄音機を鳴らし福引をするいかにも軟派な冷光。吉田は冷光をどのように見ていたのだろうか。吉田の著書に「冷光」を記した記述はまだ見つかっていない。

吉田と出会って3日目の8月7日。前日は登山者が289人とシーズン最高を記録したが、この日は半分以下の120人と少なかった。吉田がミクリガ池に写生に行くというので冷光はついていった。ミクリガ池(標高2405m)は、室堂から徒歩10分でほど下ったところにある周囲600m余りの池である。

画伯はつがざくらの敷き詰めた池の北側の低味に画架を据ゑて、賽の河原から折立邊の山の皺を遺ひ登る乱雲を『オゝ好い雲だ実に好い』と、賞め乍ら刷毛を走らせて居る

賽の河原は室堂の北側を下りた浄土沢にあるガレ場で、折立は立山を構成する峰の一つ、富士の折立(標高2999m)のことである。国内の高山で吉田が描いた絵のほとんどは特徴的な雲を描き込んでいる。

吉田が絵筆を走らせる間、冷光は「乱雲軍観戦記」と題して文章をしたためた。

地獄谷の上を通つて来る風は確かに北から吹くが、蒼空を飛ぶ雲の姿は全く混戦を極めて居るむくむくした冬向の積巻雲といふ奴が下の空から権現様の方へ周章まくつて走るかと思ふと、ずつと高い処に白モスリン式の涼しい巻層雲が西に向つてブラブラ路草を喰ひ乍らやつて行く、画伯の賞める乱雲が折立の頂上まで登ると逸早く消えて了ふのも可笑しい、更に奇抜なのは、大日嶽と國見嶽の間の谷間から灰色の鬼雲の一隊が散兵線を作つて居ると見れば、これに封ひ向つた一の越の辺りから茶色の敵雲が斥候にやつて来て、ヌーツと顔を出してはベツカツコをして見せて居る、旋ての事に灰色軍が風の神の應援を得て突撃を始め攻め登るよと見るうちに四顧忽ち瞑矇として咫尺を辯じなくなつたこれには、画伯も刷毛を置いて呆然して居る、すると三分間と過たぬ裡に灰色軍が一の越から富士の折立邊迄の一帯を峰の彼方へ敵を追撃し去つて、跡には落伍した負傷兵の薄い霧丈が美久里ケ池の水面に取残され、それも次第々々に湖心に吸ひ込まれて行くのである斯る大戦に踏み蹂られもしなかつたか、高山花の一入(ひとしお)露に輝く鮮かな姿もうれしい

吉田の執着心は「絵の鬼」とあだ名される通りだった。この日は午後6時すぎに冷光が帰った後も粘って描いた。そして室堂へ帰ってきて、池にかかった雲の上に夕日が差し込み御来迎が見えた、というのだった。このときの強い印象を、吉田はのちの著書『高山の美を語る』(1931年)で次のように記している。

その御来迎のことが念頭にあった當時、私はある時附近のみくりが池へ写生に出かけた。その帰り道のこと、四邊に霧が罩めてきたと思ふうちに、断崖の上へ差しかゝると間もなくその霧が晴れた。

見ると池の上にはまだ一杯に雲が懸ってゐる。その雲へ、折しも夕日の光が滲むほども差し込んでゐた。

その時だった。その池の上の雲の中に、洋服を来た一光如来が丸いキラキラ輝き渡るやうな虹を背負った、姿をお現はしになったではないか。

御来迎という現象を吉田はもともと知っていたのだろうか。冷光が吹聴していたのだろうか。[5]

富山日報立山接待所記念写真
富山日報立山接待所 音楽会・揮毫会・演説会の参加者
『富山日報』附録 明治42(1909)年9月5日
※同年8月10日撮影 (富山県立山博物館蔵)
大井冷光と吉田博
大井冷光(後列右)と吉田博(後列左)
上の写真の拡大 女性は今村あさ子(堀川小学校
訓導) 右端は吉沢庄作(魚津中学校教諭)

 

10日早朝、富山日報社の一行が、下山する前に室堂と立山を背景にして記念写真を撮った。その写真には、冷光の右後ろに吉田が写っている。服装や表情までは分かりにくい。吉田は富山日報社が9日に主催し5人の画家が参加した揮毫会には参加していない。吉田の性格からして、新聞社のPRイベントとはかかわりたくなかったことであろう。それでもこの写真に収まったのは冷光に誘われてのことなのだろうか。2人の関係はしだいに深まっていく。

ある時、冷光は室堂の粗末な設備を嘆いた。吉田は「欧米ではアルプスばかりでなく深山幽谷の至るところに、立派なホテルが出来ている。それで登山者に便宜を与え、思い切り暴利を貪っているんだ。だから、逆にこうした室堂のようなところは面白いし、望みがあると思う」と言った。やや皮肉を込めた言い方なのだろう。冷光が「そう虐めるものじゃありません」と答える。すると、吉田はその晩、寝る前に奇妙な体験を話して聞かせてくれた。モロッコ事件発生の1か月前に同地を探検して、現地人にあやうく夫人ともども首をはねられそうになったが、かろうじて逃げ帰ったというのだった。[6]

8月12日、最低気温は6.1度と冷え込んだ。いつの間にか室堂付近はすっかり秋景色になっていた。吉田は秋景色の大作を描こうと、浄土山の中腹にイーゼルを据えた。冷光もその傍に寝転ろんで記事をしたためた。

緑葉のあの位威勢の好かつた絹笠草を真先きとして兎菊、三光草、こけりんどうなどの思ひ思ひに黄葉と化し其隙を綴るちんぐるま草の芒さながらの穂も捨てがたく、さては岩桔梗、千島桔梗のゆかりの色に咲き揃ふ趣き、更にもいぢらし草にすだく蟲の音は無い、さり乍ら足元を廻る雪融け水のせゝらぎ、遠くの岩聞に友呼びかはす鶺鴒の囀り、左顧右眄いくら老ひ直しても秋だ、確かに秋に違ひない、別山続きの雪の班点が黄色く映えて、仰げば雲の流は実に高い、薪取りから教はった『寒い風だよ、室堂の風は、さすが御前の吹きおろし』全く室堂の風は寒くなった

この日の朝、20歳の男性が高山病にかかり、背負われて下山していった。晩になって今度は59歳の男性禅行者が体調を崩した。白山と御嶽山を登ったあと飢えと寒さに震えながら単衣一枚で野宿をして室堂にたどり着いたという。冷光が接待所から寝具を提供し、吉田がドイツ仕込みの強いヘモクロビンの塊を溶いて飲ませると、ようやく男性は生気を取り戻した。この夜の室堂宿泊者は163人と平年の3倍以上もあった。富山日報の報道の影響だった。

8月14日午前、冷光は吉田を誘って、立山公園と呼ばれる場所に出かけた。浄土山の中腹やや平坦なところで見晴らしがいいので、神官たちがそう名づけていた。冷光は前日、神官と出かけて面白い獣道があるのを見つけ、それを吉田に話したところ、吉田が興味を示したのである。

吉田君が公園を観たいといふのを幸ひ再び鹿逕探検に出掛けた、浄土山御光岩の下から高原に何時しか例の逕が発見かつたから傍見もせずに其の細い逕を歩いて行くうちに何時しか龍王岳に臨んだ断崖の爪もたたぬ所へ来て仕舞つた、これはいけないと再び新らしい逕を取つて行くとやがて二條に岐れる、其の右を行つたらトある岩角の蔭で先きに歩いた逕にチヨロリと出た、更に引返して左の逕を辿り行く、すると今度は二三丁も続いたがこれまた國見嶽に対つた崖で途切れて仕舞つて居る、こんな風で画伯から『君、狐に魅まされたんぢゃないか』と笑はれる迄に苦しんだが今日に限つて鞍鹿の糞さへ見付からなかつたとは何たる業腹な事だらう

吉田博『千古の雪』
《千古の雪》 吉田博
明治42(1909)年作
表題英訳《The Pristine Snow》
第3回文展 明治42年で洋画2等賞(最高賞)、文部省買い上げ
現在は所在不明。出典『美術画報』26号(巻12:臨時增刊)
Senkonoyukibubun
《千古の雪》 (部分)

鹿道探検から1週間後の8月21日。前日までの雨が上がり、久々の快晴となったこの日、吉田の油絵の大作がついに完成した。浄土山山腹より別山を見た風景で、10日前から苦心を重ねてきたものだった。

立山別山
《立山別山》 日本アルプス十二題より 吉田博
大正15(1926)年作 版画24.9×37.2cm
浄土山から別山方向を描いた
『立山別山』(部分)
《立山別山》 日本アルプス十二題より (部分)

先づ大汝山裾の力ある偃松の茂味、室堂附近の残雪を囲んだ黄葉の態、その上の大走り坂邊を軽く浮んだ雲のちぎれの趣きなど、看れば看る程動くやうだ、今秋文部省展覧会の華なるべきは今より誰れが眼にも受け合はるものとなつた、それにしても画伯が刷毛を下してから殆んど一日として休ませなかつた連日の快晴も或は立山山霊が特にこの画伯を加護したのではなからうか

草に寝転ろんで画から山の景色に眼を外した画伯は不意に恁んな事を云ふ『今日の山は実に硬く見えますな、最初からこんな山だつたら描かなかつたのに』と妙な事を言はるるもの哉神世この方変らぬ山を昨日が柔らかくて今日は硬いなどと美術家は山を豆腐と心得て居るらしい、と僕は怪しみ乍ら眺むると、これは驚いた、雨後の澄み切つた空に木立の冴えた大日獄、成程平日に似ず硬さうに見えて、殊に別山の山の皺が鋭い

画伯は又恁んな事を云ふ『ラスキンの反対のホイスラー(英の画伯)が云ふた言葉に世人はどんな場合でも深山幽谷を描き、蒼海を描くと凡て崇高なもの神聖なものの様に思ふて居る、さればこそ山岳に登る人は遠く下界の展望のきく日は喜こぶが或は雲が湧き、霞が棚引き霧が立つて居る様な日は殆んど無心で下りるであらう、斯る場合に唯美術家丈はこの自然を悦こび、自然を知る而して之を悦こぶは息子にして之を知るは主人であると言うて居ます、面白いですなア……、私は来年も亦テントを担いでやつて来ますよ』と

文展・太平洋画展と吉田博出品作(明治40-43年)
第1回文部省美術展覧会(文展)明治40年10-11月 《ピラミッドの月夜》《池の鯉》《新月》 いずれも水彩。《新月》は3等賞で文部省買い上げ。洋画329点のうち入選83点、審査員出品13点。2等賞1点、3等賞9点。現在、《新月》は東京国立近代美術館蔵、水彩59.5cm×79.5cm。
第2回文展 明治41年10-11月 《峡谷》《雨後の夕》《店頭秋彩》 水彩《雨後の夕》は2等賞(最高賞)、文部省買い上げ(洋画では5点のうちの1点)。洋画101点陳列。2等賞2点、3等賞13点。※鳥瞰生「當代畫家論(十四)」『読売新聞』明治41年11月21日5面。「『雨後の夕』に就て吉田博談」『読売新聞』明治41年11月3日5面によると、《雨後の夕》も《峡谷》も群馬県沼田の利根川の上流で描いた。12-13年前に丸山晩霞と出会ったのもこの沼田だという。
第3回文展 明治42年10-11月 《精華》《千古の雪》《雲表》 無鑑査出品。《千古の雪》は2等賞、文部省買い上げ。《雲表》は水彩で他の2点は油彩。洋画98点。2等賞3点。3等賞7点。※「文部省美術展覧會評(七)」『東京朝日新聞』明治42年10月26日6面。現在、《雲表》は福岡県立美術館蔵、水彩66.0cm×101.5cm。
第4回文展 明治43年10-11月 《渓流》《雲界》《劍ケ峰より》 ※審査員出品。「公設美術展覧會評」(七)(八)『東京朝日新聞』明治43年10月23・24日3面、「一番高いもの(二八)」『読売新聞』明治43年10月26日3面、木下杢太郎「文部省展覧展西洋畫評(十三)」『読売新聞』明治43年11月22日5面。3点は『美術画報』に掲載されている。現在、《渓流》は福岡市立美術館蔵。
第6回太平洋画会展 明治41年6月 《遠雷》《新緑》など油彩、《富士山》《富士の朝》など水彩、《魔法》《スフィンクスの夜》《赤帆》など。 ※「太平洋畫會展覧會」『東京朝日新聞』明治41年6月11日3面。
第7回太平洋画会展 明治42年6月 《多摩川眺望》《秋》《越ヶ谷の春色》《早春》《雨》《春雨》《十月の朝》 ※「太平洋畫會展覧会(上)(下)」『東京朝日新聞』明治42年6月12・13日6面。
第8回太平洋画会展 明治43年5月 《越後の春》《春の入江》《桃の花盛り》《鳩》《高山夏雲》《残雪》《瀑布》《秋の午後》《牛逐ひ》《激流》《溪潤渡頭》《夕暮》《曇り日》計水彩13点、《妙高山》《伊豆の山》《春》《玉殿窟》《秋の川》《渡し場》《草山》《立山絶頂の眺望》《麓の池》計油彩9点 ※「太平洋畫會を評す(下)」『読売新聞』明治43年6月3日5面、※コスモス會同人「太平洋畫會展覧會合評」『読売新聞』明治43年6月12日別刷2面。

明治42年10月の第3回文部省美術展覧会に、吉田は3つの作品を出品した。《精華》《千古の雪》《雲表》、いずれも立山にちなむ絵である。

このうち、冷光が8月21日に完成の場面に居合わせた油絵は《千古の雪》である。浄土山の中腹から別山方向を望んだ風景で、手前には雪渓を配し、奥には雲に霞む山肌、中央に点景として室堂が描かれている。東京朝日新聞は10月26日の展覧会評で「優品なるべし。其描写法は寧ろ精密に流れずして、併も能く自然の趣を得たり。色調は称すべし」と賞賛した。その後、審査の結果、2等賞(最高賞)を受賞、文部省買い上げとなった。[7]

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《 雲 表 》 吉田博
明治42年作、水彩66.0cm×101.5cm
(福岡県立美術館蔵)

 

《雲表》は水彩画で、浄土山中腹の稜線上から立山カルデラを見下ろしたパノラマ作品である。現在は福岡県立美術館に所蔵されている。東京朝日新聞は「水彩画中唯一の佳品にして、彼は遠く高山より見たる山相を写すものにして遠近宜しきを得」と評している。

吉田博は、立山で描いた絵で文展3年連続受賞という栄誉を手にし、翌年の第4回文展から34歳にして審査員を任命されることになる。

明治42年秋の第3回文展に吉田博が出した3作品のなかに《精華》という油彩の大作がある。3匹のライオンと裸婦を配した「構想画」で、風景画の巨匠として知られる吉田の画業の中ではひときわ異彩を放っている。縦157.6cm、横270.6cmと西洋画部門の出品作品のなかで最大の作品であった。

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《 精 華 》 吉田博
明治42(1909)年8月作 油彩157.6cm×270.6cm
(東京国立博物館蔵)

安永幸一『山と水の画家吉田博』(2009年)によると、当時、構想画と言えば黒田清輝が知られていて、強い対抗意識を持っていた吉田が「黒田のむこうを張ろうとしていたのかも知れない」という。そして「この大作での受賞をねらったのかも知れないが、構想というかテーマというか、そのあたりの博の意図が必ずしも明確とはいえず、その点から不評であった。以後、博はこの種の構想画を一切描かなくなった」という。

過去2回の文展で3等賞・2等賞という実力を評価され、この年の文展への出品は、吉田がただ一人の無鑑査の待遇だった。審査員の目を気にせずに絵を描き、自らの力量を見せつけるような意図があったのだろうか。

《精華》は現在、東京国立博物館で所蔵されている。近年、ライオンと魔女を題材にしたファンタジー映画が上映されたこともあるのだろうが、ライオンと裸婦は見る人を不思議な感覚に引き込む。寓意画なのか、あるいは神話画なのか。作者自身が多くを語らなかったためにその意図はよく分かっていない。そして、この絵が北アルプスの立山と深い関係があるといっても、にわかには信じられない。立山とライオンではなかなか結びつかないのだ。大井冷光はこの1枚の絵が生みだされた経緯を詳しく書き留めている。

冷光がこの吉田の油絵について『富山日報』に書いたのは、立山から下山後の9月上旬、文展開催の1か月余り前のことである。「玉太郎の曲線美 絵葉書が縁にて名画の女神となる」という3回連載だ。吉田から聞いた作画意図、そして料亭の芸妓が女神のモデルに選ばれる一部始終を、得意の柔らかい筆致で紹介している。

今秋東京上野で開かるべき文部省美術品展覧会に出品せんとて今春以来丹精を凝らせる大作あり高さ六尺、巾八尺余の油絵にてその画題は未だ命名されざるも大なる岩窟の前に一人の女神が今にも吠え立たん姿のライオン三匹に言い付けをなし居る處にて万能の智識を具体的に表さんとするものなるが其中ライオンの事は動物園若しくは浅草花屋敷のものにて間に合へど女神の顔と、背景の岩窟は東京近在にて得難ければ何処かに之が材料無やと一日特派記者迄申込みたる

これは、立山室堂で吉田が冷光に語った内容をもとにしている。この時点ではまだ題名《精華》は決まっていない。のちに吉田は作画意図をあいまいにしか語らなかったとされるが、冷光に対しては意外なくらい率直に話したようだ。ライオンは動物園で写生した。しかし女神と岩窟が描けていない。そのためにわざわざ立山に来たわけではなさそうだが、立山に来ても何か材料はないか考え続けていたのは確かである。

相談を受けた冷光は、岩窟ならすぐ近くにある玉殿の岩屋がいいだろうと案内した。玉殿の岩屋は室堂から浄土沢に5分ほど下った崖にあり、佐伯有頼が熊を追い込んだという立山開山伝説ゆかりの神聖な場所である。吉田は「理想に近い」と言ってすぐに写生をはじめた。

残る問題は「万能の知識を具象化した女神」の顔だった。吉田はそれまでに9人ものモデルを試していたが、[8]顔がうまくイメージ通り描けないと嘆いた。相談を受けた冷光も困ってしまった。「不粋の記者大いに閉口しあれのこれのと苦心し居る」。そんな矢先、富山日報本社から慰問の美人絵葉書が届いた。絵葉書には、料亭「八清楼」の玉太郎という芸妓が茶を立てている写真が印刷されていた。八清楼は、鼬川(いたちがわ)の花見橋のたもと富山市西仲間町17番地にあり、当時、市内では富山ホテルと並ぶ格式のある料亭である。[9]玉太郎は、本名を八木とめ子といい、当時16歳。前年に講談社が行った日本美人投票にも選ばれていた。

濃い眉の凛々しい顔立ち。玉太郎の写真を目に留めた吉田は言った。「おーこれだこれだ。東京で随分のモデルを探したが、この顔のような女は見当たりません。この顔の曲線は実に強い、面白いなあ、富山にいるんなら、周旋してくれませんか」。

最初は冗談なりと思へし記者も其後間がな隙なの交渉に『それでは画伯の熱誠に感じまして下山早々美術家と美人との月下氷人となりましょうか』と答ふるの止む無き破目となれり、さるにても御本人の玉太郎拍子に果して面壁数日の業が出来得るや否や思へばおぼつかなき次第なりけり

芸妓の玉太郎に絵画モデルがつとまるだろうか。歌い踊るのとは正反対に、数日間も壁に向かう座禅のように動かないでいる仕事なのだ。冷光は心配になった。立山から下山した8月27日午前、富山日報社に戻るなりさっそく八清楼に電話した。「お金をいかほどか差し上げて描いていただくのでしょうか」。女将からそう問い返されて、「いや金はこちらからどれだけでも支払うので顔だけを写生させてほしい」と話すと「そんなら願っても叶わない名誉です。玉ちゃんが喜んで上りますからどうか写生してもらって下さい」という返事。案ずるより産むが易し、冷光は胸をなでおろした。

精華
《 精 華 》 (部分)
モデルは八清楼(富山
市)の芸妓、玉太郎

2日後の29日正午、吉田が遅れて下山しホテルに着いた。冷光が朗報を伝えると、吉田は喜んだ。「立山で予期以上の結果を得て、今またモデルを得るとは実に愉快です。文部省の展覧会へは一人に付き三枚まで出品されますが、私は昨年受賞者の恩典をうけたため今年は鑑査無しに出品を許されていますから二枚は立山で描いた画を出品しますが、今一枚と思っていたのもとうとう越中仕込みになってしまいました」。あと3日間しか滞在できないから早くとりかかりたいと言う。冷光はまたすぐ八清楼に電話をかけ、具体的な段取りをした。

而し今更正直に髪を垂れたる裸体の女神が巌角に下してライオンを指揮し居る画の女神の顔に用ゐる様にと明して了っては却って今迄の苦心も水の泡、不成功になる事は火を見るよりも明らかなれば『まアまア着物は帷子で結構、髪もお手軽のハイカラ巻としてお化粧も余り厚くない方が宜からう』と答へしに実は文金の高髷に結びさせたるを以てそれで勘弁をしろとの事『まアまアどうでも宜しいから早く早く』と促がす

裸婦の顔のモデルであることは内緒だった。その日の午後2時、玉太郎がやってきた。はにかんで落ち着かない様子でお辞儀をする。その横顔を見た吉田は、冷光を見て微笑みながら「君、曲線は写真よりは面白いよ」と言った。

あらかじめ座敷に差し込む光線の具合を調べておいた吉田は、椅子を据え、そこに玉太郎を座らせた。そして2間余り(約3.6m余り)離れた場所にイーゼルを立て、12号(新聞半枚大)のカンバスに木炭で描きはじめた。10分間ほどデッサンして一服。吉田はひそかに言った。「額より鼻に掛けての曲線は実に立派です。口も宜しいが顎から咽喉の辺は少しゴツゴツしています。目の大きいのがこの子の特長で好いですが、私の画に用るのはやや伏し目でありたいから其様に写生します。その代わり顔が似ないかもしれません。髪は束髪が一番面白いから明日は束髪にしてもらいましょう」。冷光が「玉ちゃん、どうだい、辛抱ができるか」と声をかけると、玉太郎は「出来ますわ、それだけど何だか気を引きつけられるようで眠くなりますわ」と答えた。

玉太郎のデッサンは、1日目3時間、2日目4時間かかった。3日目の早朝、冷光がホテルを訪ねると、「床に立て掛けたる神々しき美人像、髪は束髪にして物言いたげなる唇してスッと下眼に見下ろし居れる」玉太郎の絵があった。本物はこんなに気品がないはずなのにと聞くと、吉田は「目と鼻に僅かの加減であんな顔になってしまうのです」と言った。そしてもう一日来てほしいと頼んでいたが、もう出来上がったので来てもらわなくても済みましたという。冷光が八清楼に電話すると「玉ちゃんは頭痛がして寝ております」と返事があった。

以上が「玉太郎の曲線美」という連載の内容である。

1か月余り後の10月15日、第3回文展が東京市上野で始まった。『富山日報』10月19日3面には、「玉太郎が千五百圓」という短信が出ている。「『精華』は豫て評判の八清楼の玉太郎が女神となりて獅子三頭を感服し居る大作なるが其売価は實に千五百圓なりとぞ」。当時の1500円は一体どれだけの価値になるのか。冷光の月給が15円だとすれば100か月分すなわち年収8年分余りに相当する。『富山日報』11月1日3面には、「立山の画は優賞」と題して、30日発表の審査結果が出ている。《千古の雪》は、西洋画部門の2等賞(最高賞)3点のうちの1点に選ばれ、「画伯が予期の如き名誉を得られたるは我が社の大に満足するところなり」とある。

その後、『富山日報』は11月6日に「玉太郎をモデルにしたる精華」「雲表及千古の雪」という批評記事を掲載した。執筆したのは、富山出身で東京美術学校日本画選科(明治43年3月卒)に在籍していた野口安太郎。野口が、詩人で評論家の高田浩雲に送った私信を転載した旨の注釈がある。冷光が高田を通じて依頼したのだろうか。

野口は、学生らしくアカデミックな視点で《精華》《雲表》《千古の雪》を批評している。《精華》はモデルや画面構成において欠点がないが、配色に3分の失敗があると評した。《千古の雪》は構図がよく雲の描き方は神技と思われるほどだとしつつも一部の色調に疑問を提起した。《雲表》は水彩でこれだけ描くのは感嘆するという。そして、世間では《精華》よりは《雲表》が評判がいいと記している。

大井冷光と吉田博との深い縁。《精華》という絵は、まさにそれを物語る1枚なのである。

[1]「天界通信」は約65000字からなるが、その中で72人の人名が記されている。このうち最も回数が多く記されたのは、洋画家の吉田博である。画伯という敬称だけも含めて66回ある。称名滝探検で書かれた約30回を除いても、石崎光瑤15回、河東碧梧桐11回、宇治長次郎11回と比べて圧倒的に多い。

[2]「よみうり抄」『読売新聞』明治42年8月6日5面。

[3]吉田博の評伝は安永幸一『山と水の画家吉田博』2009年を参照。

[4]伊藤匡『日本の水彩画15吉田博』(1989年)では、《雲表》の説明に「吉田は前年の8月に丸山晩霞と越中立山に登り、この年の8月再び写生旅行に訪れているが、この作品もこの際に取材したものだろう」と記述がある。これが正しければ、吉田は明治41年、42年と2年連続で立山に来ていたことになるが、「天界通信」に裏付けるような記述はない。「よみうり抄」『読売新聞』明治41年8月15日1面では「吉田博氏目下九州地方に旅行して写生をなしつつあり」とある。安永幸一『吉田博資料集―明治洋画新資料』 (福岡市美術館叢書 4)の年譜でも「8月下旬、丸山晩霞と白山、越中立山に登山」と記されている。この点は今後の調査が待たれる。

[5]吉田の念頭になぜ御来迎があったのか。それは冷光から聞いていたからと考えるのが自然である。ただ、もう一歩進んだ推測も可能である。吉田は冷光の『立山案内』を読んで、立山に写生に来たかもしれない。『立山案内』の出版は明治41年7月であり、日本葉書会の精美堂で印刷された。吉田の著書『寫生旅行 アメリカアフリカヨーロッパ』は日本葉書会から明治40年9月に発行されている。吉田が、高山での写生候補地を選ぶのに『立山案内』を手に取ったことは十分に考えられる。

[6]『山と水の画家吉田博』によると、吉田が妻ふじをとともにモロッコに渡ったのは明治39年10月20日から22日までのことで、イスラム教徒にカメラを向けて写真を撮ったことが罪に問われ、裁判所で窮地に陥ったという。

[7]残念ながら《千古の雪》は現在、所在不明の幻の絵画である。『美術画報』26巻12号(臨時增刊)の白黒写真で確認できる。吉田は大正15年に木版画シリーズ「日本アルプス十二題」を制作した。《劔山の朝》《鎗ヶ岳》《白馬山頂より》《穂高山》《針木雪渓》《烏帽子岳の旭》《鷲羽岳の野営》《立山別山》《黒部川》《五色原》《大天井岳より》《雷鳥とこま草》で、このうち《立山別山》が《千古の雪》とほぼ同じ構図である。

[8]「作者の談」『美術新報』9巻1号(明治42年11月)。冒頭から全体の6割がこの《精華》について書かれている。残り4割で、2等賞の《千古の雪》と評判の高い水彩《雲表》について書いている。取材記者の関心が、3作品のうち《精華》にあったことをうかがわせる。

私は文字に乏しいので自分の画に適当な命題を附ける事が出来ませんでしたから、或る人に頼んで獅子と女の図に名を付けて貰つたら、「精華」といふ二字をくれました。然し精華といふ言葉では私の思想を充分に言ひ表はして居らない。ともすると那の裸体の女は日本国民性の精華を象徴したもので、獅子は其れに対する何物かの体現であるやうに思はれますが、私は爾ういう意味で描いたのでは無く、また獅子は強い者の代表であって裸体の女は優しい者の代表であると斯う対立して描いたのでもない。唯だ見る人其人の心持で何うにでも想像して貰へば宜しいのです。あの絵は昨年から思い立つたのですが、獅子を少しばかり描いて置いたゞけで、今年になってからモデルの選択に掛りました。而し陽気の寒い間は誰も戸外で裸体になつて呉れるものが無いので、夏になつてからソクソク始めました。女のモデルは前後で九人使ひました。何うも日本の婦人は線に面白味が無くて困ります。其の内の一人はモデルとして名の売れてゐる女ですが、所謂日本趣味の美人で、胸が張ってゐない、腰が出ッ張つて居ない、という處からして余り好まれないのですが、私は其のスッキリとした處を特に選びました。中沢君の使ったとかいう女も来ました。是も胴がスラリとして居ました。それから特に足の長い女を使ひました。で胴中も足も兎に角整ひましたが、色は思はしくないので別に色の好いのを使ひました。処で顔に困った。私の思ふやうなのが無い。親類の内には一人だって其様なものは無い。願はくは華族の嬢様か何かでモデルに成つて呉れる人は無いかと思つて色々考へて見ましたが駄目でした。然るに此の夏、越中へ旅行しました折、富山の新聞記者の紹介で丁度あのモデルに好さ相なのを見付けました。初瀬楼という料理屋の女中でお玉といふ女でした。眉毛の濃い凛々しい貌立でした。何うにか斯うにか其の女で間に合せて了ったのです。背景の岩は立山の洞窟を見て描いたのです。実は此の夏立山の室に滞在して居る時、お玉の絵葉書を見て、周旋の労を其の新聞記者に頼んだのです。「千古の雪」に図に小さな小屋が在りませう。あれでも五間に十一間の建物で、私は三週間ほど那の中に滞在して居りました、俗にムロ又はムロ堂といひます。彼處から頂上まで凡そ一里半はありませう。私の居りましたのは丁度八月でして、登山者も混雑する時季でしたから多い時には二百人も三百人も泊まり込むので実に閉口しました。幸ひ新聞記者と懇意になって記者専有の幕の中で起居を倶にして居りました。小屋から麓までは八里もありませう。「千古の雪」は立山々中の写生です。私は山国で生れたものですから、兎角岩だの山だのに興味を持って居ります。「雲表」も爾ういう動機から出た製作です。

[9]玉太郎(本名・八木とめ子)は、明治26年3月25日生まれ、石川県能美郡新丸村出身。講談社の『文芸倶楽部』14巻3号(明治41年2月1日)によると、日本美人投票(大懸賞百美人写真大募集)に、富山市から東京楼の小雀とともにエントリーされていた。また明治42年から43年にかけて行われた『富山日報』美人写真審査で、530枚の応募中3等に選ばれ、明治43年2月28日3面に経歴が紹介されている。2人の姉(あい子・富子)も八清楼の養女となっているという。「八清楼の金箱は此一少女の笑顔に依って軽重されつつある」と記されている。明治43年6月14日3面には「玉太郎の朝詣で」、11月18日「玉ちゃんが引いた」という記事もでていて何かと世間から注目されていた。11月16日に廃業届を出したらしい。

『北陸タイムス』明治43年12月22日3面には、「富山で料理屋と云へば先づホテルと八清楼を数へ次いでは秋山亭、松田楼、田舎庵等を数へる」とある。この記事には、女将の談話が載っていて、玉太郎が廃業し、東京から玉八が来て、古参の三好に金太外愛子、富子、芳香等がいるという。明治44年には『北陸タイムス』が2月15日から2月18日にかけて「全盛極めた芸妓の行末 元八清楼玉太郎」という4回連載記事もある。

明治42年9月、北陸タイムス本社新築落成記念の園遊会もこの八清楼で開かれた。八清楼については『富山柳町のれきし』(1996年)p425-428に詳しい。創業は明治15-16年頃と推定されている。大正初期から昭和の初めにかけてが最盛期だったとされ、抱え芸妓5~6人がいたとされる。。『美術画報』は「初瀬楼という料理屋の女中でお玉」と書いているが初瀬楼は間違い。記者が聞き違えたか、吉田が間違えて話したか、いずれかである。富山ホテルは桜木町にあった料理旅館。吉田が宿泊したホテルは、この富山ホテルとみられる。明治42年5月に巌谷小波と久留島武彦も宿泊している。

大井冷光「天界通信」に出てくる人名(明治42年)
佐伯多二間 氏子総代。
佐伯永丸 奉幣使と冷光の一行が往路で宿泊。
佐伯等 神官。
佐伯五百津 67歳。※一山屋号「大仙坊」
佐伯数馬 器械方。
佐伯竹次郎 仲語。熊狩猟話。1876-1946。
佐伯親人  
佐伯治重 神官。
佐伯小源太 神官。小源太老。山羊髯。※一山屋号「宝伝坊」
甲源太  
乙麿  
丙重  
徳造 人夫。薪刈人、16歳。
佐伯有久 地獄谷で採鉱、30余年前。
宇治長次郎 山案内人。1872-1945。大山村大字和田村。室堂~黒部谷~立山温泉を案内。
佐伯和三五郎 室堂器械方。称名滝探検。山案内人、59歳。
佐伯春吉 猟師。仲語。称名滝探検。山案内人、38歳。芦峅寺。
有岡巡査  
北村出張巡査  
赤江三五郎 立山信者。小杉町、79歳。
能登定吉 日本山岳会員。神戸。兵庫県御影町東明村字八番335。
石坂豊一 富山県事務官補。1874-1970。立山奉幣使。富山県社寺兵事課長。
藤川秀吉 伏木測候所。
齊藤宗平 県会議員。
波部権六郎 高岡区裁判所判事。丹波の人
後藤庄吉 金澤裁判所検事。岐阜大垣の人
福井秀夫 砺波新報社。
アール・ヱー・レデー 英国陸軍中尉。5・6か月前英国大使館に派遣。※「名誉の徽章」『少年世界』17巻9号(明治45年)で、主人公の少年高瀬が代々木で出会った外国武官がレデー中尉となっている。
ガラシー 英国人。レデーが黒部小屋で待ち合わせ。
ウィリアム 山口県舘山中学教諭。米国人。
香川含章 画家。
鷲田碌翁 画家(美濃)。
島田神水 画家。富山市西中野町。
高山富雄 画家。魚津中学教諭心得。
塩崎逸陵 画家(東京)。
富田秀法 画家(富山)。
岡本清彦 画師。-1921。本名祖山末吉
石崎光瑤 画家。1884-1947。剱岳登頂
吉田博 洋画家。1876-1950。
小林三郎 大阪大林区署山林技手。7/28「明日剱岳へ」、郡界設定委任。黒部谷。
御領勲 大阪大林区署山林技手。立山道を測量。
伊東恒太郎 大阪大林区署山林技手。
島村典眞 大阪大林区署山林技手。黒部谷。
吉田孫四郎 山岳会、法科大生。剱岳登頂。
野村義重 法科大生。剱岳登頂。
河合良成 山岳会、法科大生。剱岳登頂。
増田吾助 山岳会。他3名と針ノ木峠越え。
平尾良久 滑川。
河東碧梧桐 俳人。1873-1937。
岡野牧羊 俳人。高岡、越友会か。
平林彬々 俳人。高岡、越友会か。
土岐越水 四高生徒。
匹田鋭吉 富山日報主筆。
亀田外次郎 富山県弁護士会長
佐々木松蔵 富山県師範学校教諭。博物学、演説会
吉澤庄作 魚津中学教諭。1872-1956。演説会。植物採集。
野上弘 中新川郡郡視学。植物採集。
内山松世 1864-1945、書家・政治家・実業家。令息巌麿。
東地薫 富山少年土曜会。芦峅寺で発病し登山断念。
杉本正一郎 富山中学。
津田重長 富山中学。
黒田と娘 教育家、四方町。
堂垂 少尉。東砺波郡種田村の在郷軍人団21人を指揮。
加藤一等主計 歩兵第69聯隊。
桜井浅次郎 京都府笠郡池内村大字堀村、59歳。
李家隆介 富山県知事。明治36年か37年、書画帖に署名
金山 立山村長。明治36年か37年、書画帖に署名
エーチ・カリュー 神戸。明治36年か37年、書画帖に署名
中村安太郎 前高岡中学校長。明治37年、書画帖に署名
山崎直方 東京高等師範学校教授、地理学。1870-1929、明治38年、書画帖に署名
佐藤伝蔵 東京高等師範学校、地質学・鉱物学。1925-1986、明治40年、書画帖に署名
南部甕男 なんぶ・みかお、1845-1923。枢密顧問官。明治41年立山登山

大井冷光の天界通信は、『富山日報』明治42年7月28日から9月16日まで掲載されている。この稿では網羅的に紹介することができないため、参考までに見出しを列挙しておく。

大井冷光「天界通信」の主な見出し(『富山日報』明治42年)
掲載日 連載名 見出し
7月28日 天の一方より(1) 蓄音機煙に咽ぶ/奉幣使一行の意気/立山信者三五郎翁/継母に虐められた三ちゃん
7月29日 天の一方より(2) 愈々立山接待所開始
7月29日 天の一方より(3) 劔山登攀談
7月30日 天の一方より(4) 室堂の社務所/寝舎器械料と酒保
7月31日 天の一方より(5) 接待所まだ淋し/御来迎を拝んだぞ/虹の御光に影法師
8月1日 天の一方より(6) 御花畑の御来迎/絶嶺の歓迎大旗
8月1日 天の一方より(7)上 接待所漸く賑ふ
8月2日 天の一方より(7)下 団隊登山の歓迎/立山の動物調べ
8月3日 天の一方より(8) 外国人の初登山者/珍客続々集る
8月4日 天の一方より(9) 謙譲な英国士官/登山里程と新川郡界
8月5日 天の一方より(10) 碧梧桐君来る/朝陽の綺麗な朝/三光が弾丸除け/女の登山を妨ぐる馬鹿者/登山路実測の里程
8月6日 天の一方より(11) 長之助草の繁殖策/絶頂の社旗天上す/高山の雨の味/小走り阪に硝子の破片/黄金瀧を潜る
8月7日 天の一方より(12) 弥生頃の空模様/浄土山にて救ひ求む/登山者の優先権
8月8日 天の一方より(13) 朝食前より接待所の賑ひ/仲語の雲助根性
8月9日 天の一方より(14) 美はしき頂上日の出
8月9日 天の一方より(15) 巌見物に趣く/忽ちにして盛夏
8月10日 天の一方より(13)※誤植か 小兎を生捕る/接待所に救護を求む/洋画家吉田博君/室堂の夕陽
8月11日 天の一方より(16) 立山と迷信
8月12日 天の一方より(18) 七夕の日に女の登山/乱雲軍観戦記/けなげな雛子軍
8月13日 天の一方より(19) 他県人愈々多し
8月13日 天の一方より(20) 思ったよりは易い路/鏡石の恩人神水画伯/主筆の俳句は珍らしい/大音楽会開かる
8月14日 天の一方より(21) 日報晴れに登山/五画伯の大活動/少年隊来る/室堂未曾有の盛事
8月15日 天の一方より(22) 団体引揚げ後の接待所/クサトリの精力/中学生の演説会/欧米高山の設備
8月16日 天の一方より(23) 高山の睡眠とわが懺悔/六十年目の天候
8月17日 天の一方より(24) 忽ちにして秋景色/瀕死の老人を救ふ
8月18日 天の一方より(25) 女性的の浄土山/猪逕を行く/枯泉水の説明/蛇を刈り込んでいる
8月19日 天の一方より(26) 地獄谷の火事/猛獣に遇ひたさに/強地震来る
8月20日 天の一方より(27) 立山講の勢力/兎の太腿を噛る
8月21日 天の一方より(28) 立山珍談比べ/加州公の隠れ場所
8月22日 天の一方より(29) 立山の熊狩ばなし
8月23日 天の一方より(30) 室堂の書画帳
8月23日 天の一方より(31) 地獄谷の採礦談
8月24日 天の一方より(32) 君ケ代を祝ふ岩茸
8月25日 天の一方より(32)※誤植か 油絵の大作完成す
8月25日 天の一方より(34) 岩魚釣に出発る
8月26日 黒部谷より(1) 愈々黒部谷に出発/一の越の展望/龍王岳の相違/雪辷りの失敗
8月27日 黒部谷より(2) 禽野獣の行動/長次郎の鼻唄利用/目的の小屋は留守
8月28日 黒部谷より(3) 黒部の岩魚と神通の鮎/黒部ホテルの歓迎/三技手の実験談
8月29日 立山温泉より(1) 籠の渡しに乗る/更々越まで
8月30日 立山温泉より(2) 秋の花に鶯の声/地震と登山者
8月30日 室堂より 登山者の徳義/大団円
8月31日 大日岳と称名滝(1) 発端
9月1日 大日岳と称名滝(2) 地獄の朝景色
9月2日 大日岳と称名滝(3) 素麺滝の奇観
9月3日 大日岳と称名滝(4) 巌角上の評議
9月4日 大日岳と称名滝(5) 熊の逕に迷ふ
9月5日 大日岳と称名滝(6) 崖崩れ熊の逸走
9月6日 大日岳と称名滝(7) 絶頂に達す
9月7日 大日岳と称名滝(8) 偃松と苦闘す
9月8日 大日岳と称名滝(8) 行き暮れし乗木平
9月9日 大日岳と称名滝(9) 再び路を失ふ
9月10日 大日岳と称名滝(10) 愈々大摩の嶮
9月11日 大日岳と称名滝(11) 山毛欅蔭の一夜
9月12日 大日岳と称名滝(12) 水さへ断つて出発
9月13日 大日岳と称名滝(13) 榛木谷の滝
9月14日 大日岳と称名滝(14) 憧れし称名滝
9月15日 大日岳と称名滝(15) 望楼の設備
9月16日 大日岳と称名滝(16) 犢首の小屋

(2013/08/03 16:29)(2020/8/26訂正)

7_長次郎とゆく黒部奥山廻りの道

室堂周辺は日増しに秋の気配が濃くなった。明治42年8月22日、この日は朝から快晴で冷え込みが強かった。肌寒くて綿入れ着が欠かせない。8月14日に起きた地震の影響もあるのか、登山客は少なくなって前夜の室堂宿泊者はわずか2人だった。[1]富山日報の夏山臨時支局「立山接待所」は7月25日の開設以来まもなく1か月を迎えようとしている。大井冷光はこの日、画家の吉田博とともに黒部谷へ出かけることに決めていた。

黒部谷はいまでいう黒部川の谷すなわち黒部峡谷のことで、平(だいら)と呼ばれるすこし広くなった場所に平ノ小屋(標高約1380m)があった。信州から針ノ木峠(標高2536m)を越えて立山へ登るルートの中継点にあたる。かつてここで通行料を徴収していた名残で、道銭小屋とも言った。小屋を守る主人は遠山品右衛門といい、足掛け36年も黒部谷でイワナを釣っているという。[2]針ノ木峠を越えて室堂に来た人たちの話を聞いて、冷光は一度その小屋に行ってみたくなった。名物のイワナを食べ、あわよくばクマに遭遇してみたいと思った。社務所の人たちに話すと「あんな山の中へ何が面白くて行きます?」と制止されるのだった。立山登拝を生業とする岩峅・芦峅の神官や仲語たちにとっては「室堂が御城下」なのだといい、黒部谷には関心がなさそうだった。

冷光は、道案内として、芦峅・岩峅の仲語ではなく大山村大字和田村の宇治長次郎を雇った。長次郎は、明治40年の陸地測量部の剱岳登頂、つい1か月前には石崎光瑤ら民間人の剱岳登頂を導いた案内人だ。冷光に言わせると「黒人(くろうと)」である。

3人は午前11時半、社務所の一行に見送られて出発した。「妙な気持ちがしますな」と吉田が冷光に言った。室堂滞在は冷光28日目、吉田が19日目になる。同じ釜の飯を食った者同士、「住み馴れた家庭を離れる時の様な」気持ちになるのだった。

小春日和のような陽気のもと懺悔坂を登って、まずは立山と浄土山の鞍部にある一の越(標高2700m)に着いた。

人間の路とは愈々茲で別れるのであるから暫らく草原に休んで生卵を啜り乍ら行手を見やると東海道の富士こそ見えね左浄土山の彼方に赤く座つた薬師岳より赤牛、針木岳、栂岳、後立山谷より後立山に至るまで瑠璃色の屏風の如くに重なり立つて右手立山続きの雷電山の裾が四十度許りの角度を以てなだれ込み居る大雪溪、あの谷を下り尽して更に山の低味を南に越え、奴久井谷、中ノ谷と渡らなければ目的地なる黒部谷の道銭小屋には行けないさうな

冷光たちが向かうのは、地図に詳しく描かれていない深い谷である。

明治末期の山岳地図事情

近代登山が盛んになりはじめた明治42年夏の時点で、立山・黒部の地形図といえば2つの地図が利用されていた。一つは陸地測量部の輯製20万分1、もう一つは農商務省地質調査所の20万分1である。いずれも明治20年代中ごろに別々に編集されたものだ。陸地測量部の輯製20万分1はケバ図法で描かれ、日本最大級の広さの溶岩台地である弥陀ケ原さえ描かれず、ほとんど模式図に近い。農商務省地質調査所20万分1は等高線が用いられ、弥陀ケ原が描かれていて輯製20万分1に比べればいくらか詳しいのだが、山の位置関係を誤るなど精度はかなり低かった。

そもそも20万分の1の小縮尺図では登山に利用できる代物ではないのだが、それでも登山家たちはその2つの地図をめぐっていろいろ論議していた。山岳会会員の間では、立山周辺は地質調査所の地図のほうが陸地測量部より正確ではないかという見方があったようである。山岳百科事典『日本山嶽志』(明治39年2月)を編さんした高頭仁兵衛(本名式、1877‐1958)は、陸地測量部の地図には、針ノ木峠からの道が立山と浄土山のあたりに通じるように描かれていることと、立山の標高が15729となっていることの2点がミスであると指摘している。これに対して、明治42年7月に針ノ木峠と立山温泉を経由して薬師岳に登った山岳会の辻本満丸(1877-1940)は次のように意見を述べている。

農商務省二十万分一富山図幅は余程正確であるが、夫でも浄土山と龍王山の位置は、全く転倒して居る、此点に於て参謀本部二十万分一図の方が却って正しい龍王岳は浄土山の略東南にある岩壁の雄峯で、浄土山と山背は続いて一山塊を成して居る(中略)黒部の小屋から一の越にかゝって登ってくる人が極く稀にはあるそうだ、して見ると針木方面から温泉に出ずに、直接登山することは不可能でないらしい、参謀本部の図に、針木路が雄山と浄土山との間に通じて居るのも、右のやうなことが原因ではあるまいか(以下略)

当時の登山者の間で、室堂~黒部谷は立山温泉・ザラ峠を経由する道しかないように思われていたのであろう。明治26年のウォルター・ウェストンや明治39年の大平晟・高頭式仁兵衛・志村烏嶺らはいずれもそのルートをたどっている。しかし実際には、辻本が推測したように、立山温泉・ザラ峠を経由しないで、黒部谷の平と立山・浄土山の鞍部を直接結ぶ道が古くからあった。それは、御山谷(おやまたん)・中ノ谷・ヌクイ谷を通る道で、江戸時代の加賀藩奥山廻り役の絵図に描かれている。現代の地図でみると室堂と黒部峡谷の平を結ぶ最短ルートで、厳しいアップダウンがある。奥山廻りが廃止されて40年近くがたち、その道も忘れられようとしていたのだろうか。いずれにしても、この山域は熟知した者の案内がなければ到底踏み込める場所ではなかった。[3]

Oyamadan

立山・黒部の本格的な地形図が発行されるのは4年後の大正2年7月30日である。陸地測量部による大正元年測図の5万分1地形図「立山」は、小説『剱岳・点の記』で知られる測量官柴崎芳太郎らが明治40年に行った三角点設置と測量の成果であり、地図が完成するまで6年近くを要したことになる。

御山谷の下降と熊坂・板屋峠

長次郎は古くから知られた奥山廻りの道を進んだ。一の越を越えた先の御山谷は、古くは一の越谷ともいい、広大な雪渓が黒部谷に向かって落ち込んでいた。冷光は次のように綴っている。

一の越を僅かに下ると雪田に乗る、行く程に仰げば左手の空に懸る怪岩奇石、『予て天狗の石を投ると聞えた龍王岳こそ目醒しい』と両人で称へ合ふのを案内者長マが咎めて『その山は龍王岳ではありません、龍王は一の越や二の越から見えぬ山です、もう少し来て見られ』と云ふ、それは又どうした訳と怪しみ乍ら下ると、旋て両人が称へた山の彼方に更に奇抜に天そそり立つ怪山が現はれた、然も其柱の様に立つた岩の皺のところどころからカンパの木が軽き枝振りをあやなし居る態、全く一の越や五の越では夢にも見られぬ眺めである『成程あの山ならば龍王の名に反くまい』と感服の余り画伯はとある岩の上にて写生帳を開いた

午前11時半という遅い出発なのに途中スケッチをする余裕があったのだろうか。冷光と吉田は、荒々しい巌を見てこれが龍王岳かと言い合うが、山をよく知る長次郎は龍王岳は一の越や二の越からは見えない山だと言う。[4]昼食のあとさらに小1時間、雪渓を下った。「今までの雪田が何時しか溪流と化し、時には其流の上に大雪門、大雪橋が架されて居る」。午後3時にようやく右手の谷との出合いに着いた。一の越から距離にしておよそ3キロ、標高差900メートルも下って標高約1800m地点である。長次郎は無言で逆戻りするように右手の谷を遡っていった。5分ほど進むと、今度は真南に山を登る。このあたりは奥山廻り絵図で熊坂と記されている。

今迄は路こそなけれ所謂、雪を渡りて又薫風の草花踏む(碧君の句)で展望のきく所と暢気に下りて来たのであるが、この山からは愈野獣の行動を取らねばならぬらしい、長マは岩に荷を引掛けて小休みをし乍ら「貴方達はこないに脚が強うないと思ふた』とてニタリニタリと笑つては両人の顔を眺めて居る

3人は40分ほどで見晴らしの利く所に着いた。御山谷と中ノ谷を分ける稜線の鞍部で、標高約2030m地点と推定される。むかしの奥山廻りはここを板屋峠といった。長次郎がその地名を知っていたかどうかは明らかでない。残念ながら冷光はほとんど地名を書きとめていない。

長次郎は板屋峠で休みをとらずに先を急いだ。

今度はピョンピョン枝を伝ふて下り初めるが、其の又早い事、すぐに姿が匿れて仕舞ふ、両人は或は雪に撓むで下へ下へと延びて居る幹を根から渡つて穂先きでぶら下って見たり、或は幹につかまつて宙返りの藝なぞ、やるまへと思へど何時かそんな事に手間取るので、すぐに長マに取残される、『オーイ』『オーイ』も四度五度迄は答へて呉れたが、おしまへには長マ君答へる事が面倒臭くなったものか鼻唄をやり出した、成程これは旨い方法であるわい、ものの一時間も雑木山の苦闘を続けてやっと山抜けのした所まで出ると、其処は中ノ谷、又侯溪川を溯り初めたが午後四時と云ふに珍らしくも立派な道に出た、長マ君『これは座良越の新道、もう近くなりましたぞ』と汗を拭ふ

3人が着いたのは中ノ谷の標高1750m付近と推定される。

新道というのは、明治時代に入って山道を幅2間に拡幅し整備した有料道である。立山新道とも針ノ木新道とも越信新道ともいう。富山県上新川郡大山村原と長野県大町野口を結ぶ20里18丁(約80.6km)で、明治9年に建設が始まり、明治10年8月に開通した。しかし、針ノ木峠(標高2536m)とザラ峠(2348m)という高所を通るこのルートは極めて険難で、冬場に崩壊して補修が追いつかず、わずか3年後の明治13年10月、運営する開通社が解散して廃止となったという。[5]それから30年近くがたつ。新道はかなり荒廃していたが、探検登山の高まりで通過する人がそれなりにいたらしい。石崎光瑤は明治41年8月に立山からこの道を通り大町経由で白馬岳に登っている。

30年前ほどに廃止されたと聞いていたが、その場に立ってみると「誠にもったいない道だ」と冷光は思った。3人は中ノ谷から南の山腹を登った。登り切った場所が刈安峠(標高1881m)だった。浄土山谷国有林の標札があった。いま来た方角を振り返ると、夕日を浴びる立山雄山の三角点(2992m)が見える。吉田は立ち枯れのモミを眺め、冷光も手帳にスケッチした。峠から南へヌクイ谷に向かって下りる。黒部川の平(だいら)に着いたのは午後6時5分だった。室堂から6時間半、途中、人とすれちがうことはなかった。

平ノ小屋は角材を横に積んだ西洋風の小屋だった。あいにく鍵がかかっていて主の遠山品右衛門は留守だった。「戸の破れ目から炉の上に吊された岩魚の匂のみを嗅いで猫のようにスゴスゴと引き返した」。失望した2人は黒部川の川べりまで下りていった。黒部谷といえば岩をかむ奔流を想像していたのに、それは大きく違っていた。幅が30-40間(約54-72m)、水深が4-5尺(約1.2-1.5m)でさらさらした流れだった。それは平が古くからの渡渉ポイントであることを考えれば当然だった。長次郎が品右衛門を探しに行っている間、2人は川原の岩に座って途方に暮れた。

遠山品右衛門(1851-1920)は、「黒部の主」とも呼ばれる猟師・漁師で、本名を里吉という。嘉永4年の生まれであるとすれば明治42年夏の時点で57歳。イワナ釣り36年という伝聞情報が正しいとすれば、明治7年、22歳のときからイワナ釣りを始めたことになる。冷光は次のように記している。

爺さんは信州野口村の品右衛門(五十余)と云ひ、今年で足掛け三十六年間岩魚を釣つて居るから、何処の瀬には岩魚が何尾居てどの淵にはもう何尾釣つたから後に何尾残つて居るなどとチヤンと算用をして居る位ださうな、あの角材を横積みにした西洋風の小屋の内でそんなお爺さんと語つたら随分面白かつたらうに惜い事をした[6]

しばらくして長次郎が戻ってきた。近くに大林区署の小屋が掛けてあり、そこで泊まらせてくれると言う。室堂で顔見知りになった5人の山林技手のうち誰かがいるかもしれない。そう思うと冷光は嬉しくなった。崖をひとつ越していくと川原に2つの小屋が見えた。一つは山林技手たちの、もう一つは人夫たちの小屋だった。

火を囲んで3人の山林技手が迎え入れてくれた。やはり顔見知りの島村典眞と小林三郎がいた。「嗚呼其の顔は御来迎様より有難かった」。丸太と木の葉と柳の枝でできた広さ4坪余りの小屋を、彼らは「黒部谷ホテル」だと言って笑った。

Yoshidakurobedani
吉田博《黒部谷ホテル》
『富山日報』明治42年9月4日3面

その晩、山林技手たちは山での体験談を替わる替わる話して聞かせてくれた。どの話も山男らしい武勇伝で、小林は人夫と2人で水晶山(水晶岳か標高2,986m)に登ったとき雨で動けず7日間も断食したと語った。このとき、3日後にまさか冷光と吉田が同じような遭難寸前に陥るとは想像だにしていなかった。

翌朝、山林技手たちは籠の渡しを案内してくれた。長さ30間(約54m)高さ5間(約9m)で、両岸のマツとブナの幹に電線を渡し、小男なら2人くらいが乗れるような板が吊してあった。3年前の明治39年8月、山岳会の大平晟・高頭仁兵衛・志村鳥嶺らが、大町から針ノ木峠を越えてこの渡しに差しかっかった。志村が渡る途中で引き綱が切れて大騒ぎになったのだが、その後、測量綱で復活させたのだと島村が言った。最初に案内の人夫(長次郎かは不明)が渡ってみせ、次に冷光が恐る恐る乗った。川面を渡る風が涼しかった。イワツバメが下を通り抜けた。そして次に吉田が煙草をふかしながら籠に乗った。「君、乗らなくては新聞に書けなかったねえ」。吉田は降りてから嬉しそうに冷光に言った。初めての体験ではしゃいでいたのか。2人は川岸を1キロほど下流まで歩いてみたが、景色が変わり映えしないので引き返した。

冷光と吉田と長次郎は午前9時、黒部谷ホテルを出発して、立山温泉に向かった。ヌクイ谷を遡り、刈安峠を越えて前日通った中ノ谷の桟橋に着くと12時だった。そこからはザラ峠(標高2353m)に向かってひたすら高度をあげていく。

路の傾斜が昨日に比べるせいか甚だ易くて行き悩む処もなく、唯雪溪と別るる間は草いきれに汗を搾りながら登つたが山抜けの赤泥を二三箇所も歩いて三十分許り行くと、緩く凹んだ両側に車百合賑はしく咲き木苺露を孕んで熟み、其他藤の花房を立てた様な名も知らぬ花が今を盛りと咲きこぼれて居る小平に出た、ちぎれ雲がしきりに眼の前を掠めてやがては笠に引掛りさうになつた、勇気も奮つて其巓迄駈け登ると前面は黒焦げた様な礫利の坂となつて五十度以上の角度でなだれて居る、遥かに見渡せば雲の断目に温泉前の赤岩も見えて雲表高く白山が懸つて居る、これが即ち佐々成政の更々越、画伯と僕は傍の岩陰に赤き甘露梅(こけもゝ)を喰ひ乍らこの立山とは趣を換へた大観に見惚れた

ザラ峠は獅子岳(2714m)と鷲岳(2617m)との鞍部にある。中ノ谷側から上ると右手に獅子岳がそびえる。冷光は、その斜面が黒く焦げたような小石の坂がなだれ込んでいるように見えた。2人が食べたのはコメモモ(苔桃)の実であった。

立山温泉への下り道は改修中だったが、難なく下りることができた。右手には、浄土山と国見岳の鞍部(標高約2570m)から落ち込む断崖が見えた。9日前に吉田と獣道を探しまわったあの立山公園のちょうど裏にあたる。標高差700mはあろうか。切り立った断崖には一見どこにも取りつく所がないように見える。しかし、案内人の長次郎は既に2回も通ったといい、距離は松尾峠を経由するのに比べて半分くらいしかないという。[7]

湯川谷を下り対岸に新湯(1626m)を臨むあたりまで来ると、道の両脇に萩の花が盛りだった。その花のトンネルを行くと、春を告げるはずの鳥ウグイスがしきりにさえずる。「どうも矛盾極る風韻に接したものだ」。不思議な感じがした。刈込池(1578m)まで来ると、岩梨の実がなっていた。3人は夢中になって岩梨を摘んだ。刈込池を見物しブナ林を写生して、立山温泉(1305m)に着いたのは午後5時10分だった。

立山温泉は最盛期、1日の宿泊者が300人とも500人とも言われているが正確な史料はない。明治23年から28年にかけての宿帳を分析した研究によると、年間宿泊者は約1500人で、ほとんどは7月中旬からと8月上旬の2か月間である。1日平均にして25人となる。[8]明治30年に経営者が代わり、明治39年からは国庫補助による本格的な県営砂防工事が始まって土木労働者の宿泊が増えたものとみられている。

気になるのは、冷光が明治42年夏に立山温泉を初めて訪ねたのか、それとも明治40年夏以来2度目だったかである。明治40年に宿泊していたとすれば、陸地測量部の測量官柴崎芳太郎に会っていた可能性もでてくる。しかし残念ながら冷光が記した天界通信には、それを推測できるだけの記述は一切ない。

湯の主人の話では近頃まで浴客の雑踏したのは非常なものであったがこの頃の地震で大鳶が大崩れでもしたように新聞に載ってからピッタリ客が途絶えてしまったとの事、なるほどそう聞けば立山登山者も同ように地震後著しく減じたようだ、立山にも登ろうという人でも存外神経過敏なものだわい、筆を捨てようとする時庭先きに盆踊りが始まった。きょうは地蔵祭とやら、もう天界通信も中界まで天降ったようだ

冷光は14日の地震で客足が遠のいたことなどを書き留めただけで、はがゆくなるほど鈍感な筆である。現代からみると、ほとんど文献がない一の越~平ノ小屋のルートや、剱岳をきわめた優秀な山案内人長次郎の言動について、もう少し詳細に記録しておいてほしかった。

翌8月24日、冷光と吉田は、松尾峠~追分~一の谷~獅子ケ鼻という一般ルートをとって午後2時、室堂に戻った。2泊3日の探検が終わった。最終日に長次郎が同行したかどうかは不明である。冷光も吉田も、次の日から始まるもう1つの大きな探検の準備で頭がいっぱいだったにちがいない。

[1]大平晟「蓮華山及針木嶺」『山岳』第2年第1号(明治40年3月)によると、明治39年8月、黒部谷の平には2つの小屋があった。「漁夫の小屋は、籠渡より稍ゝ北に降る数十間の河岸にありて、広さ十畳量許のもの二棟相対し、其持主を異にし、我等が宿りしは『漁業借地小屋場、長野県北安曇郡大町打保助次郎』の標札掲げぬ、簷端に沿ひて若菜の栽培も見るも珍らし」。

[2]1909年8月14日15時31分に滋賀県北東部の姉川(あねがわ)付近を震源として発生した地震は姉川地震と呼ばれる。M6.8の内陸直下型で、滋賀と岐阜で被害が出た。立山室堂でも約2分間にわたって強い揺れが感じられた。立山温泉周辺では大規模ながけ崩れが起き、温泉から見える大鳶山が一時砂煙で見えなくなったそうだ、と冷光は記している。

[3]黒部奥山廻りは、広瀬誠『立山黒部奥山の歴史と伝承』(1984年)、奥田淳爾編『黒部奥山廻記録』(1990年)を参照。御山谷は長い雪渓があり、今日では春の山スキーの人気コースになっているが、登山道は設けられていない。今日よく利用される稜線上のルート、平~刈安峠~五色ヶ原~ザラ峠~浄土山~室堂は当時あまり利用されていないようである。

[4]実際に二の越からは龍王岳は見えるので、この記述についてはさらに検討を要する。

[5]大町山岳博物館(2017年)によると、「針ノ木新道(信越連帯新道)の工事期間は明治9年7月から明治11年8月または9月(推定)まで、有料道路としての営業期間は明治10年8月から明治13年10月または11月まで」という。相澤亮平著「飯嶋家文書と信越連帯新道 -市文化財指定にあたって-」市立大町山岳博物館編『山と博物館』第48巻第7号(市立大町山岳博物館、2003)を参照。大井冷光は『立山案内』(明治41年)に次のように記している。「針木峠は、英人チャンバレン氏をして悪絶險絶なること、天下無比、と迄曰しめたる難関にして、海抜八千三百尺、明治八年に信濃安曇郡平村字野口村飯島某、此處に新道を開き、牛を通ずるに、適へしめたる事あるも、数年ならずして、廃絶し、今日は殆んど其形跡を止めず、されば温泉より、野口に通ずる、行程三日間は、全く無人の境を跋渉すべきなり、案内者なくして、一歩も進むべからずと、知るべし」。

「悪絶険絶天下無比」は、針ノ木峠を形容する文句として登山者の間で語り継がれたものだという。英国の日本研究家、バジル・ホール・チェンバレン(1850-1935)が言ったとされる。大平晟は「蓮華山及針木嶺」『山岳』第2年第1号(明治40年3月号)で、彼好山家「チェンバーレン」氏が險絶無比と稱せる、針木嶺」と記している。志村烏嶺は『やま』(明治40年7月、前田曙山と共著)で「チャンバレン氏の日本アルプス横断記に曰はく、『針木峠は悪絶險絶天下無比』と。針木峠は海抜八千三百尺」と記し、籠の渡しで綱が切れるというアクシデントを詳述している。高頭仁兵衛『日本山獄志』(明治39年2月)は、小島氏増補で「峠ヲ南下シテ、針木川ノ峡谷ニ入リ、更に黒部川ノ高谷に沿ヒテ立山ニ上ルマデ、險絶、本州中殆ンド無比」と記している。「チャンバレン」という表記からみると、冷光は志村烏嶺の『やま』を参考に『立山案内』を書いたのではないかと見られるが、今後さらに調査が必要である。

[6]「立山温泉より」『富山日報』明治42年8月29日3面。3年後の明治45年夏、冷光は『少年世界』日本アルプス探検隊を指揮してこの平ノ小屋を再訪し、遠山品右衛門と面会した。そのとき品右衛門は「73歳で、43歳の夏に黒部で岩魚釣りを始め、31年になる」と語っている。(『少年世界』18巻15号、p41)。31年前は明治13年にあたり、針ノ木新道が廃止になり、平ノ小屋が品右衛門に払い下げられた年にあたる。しかし、明治45年で73歳ならば、1839年か1840年に生まれたことになり、一般に言われている生没年1851年(嘉永4年)5月18日-1920年(大正9年)8月28日と大きなくい違いがある。

石崎光瑤「日本中央アルプス跋渉」『高岡新報』明治43年8月9日2面によると、黒部谷には信州のイワナ釣りが営む2棟の小屋があり、1人は打保照次郎、もう一人が品右衛門であるという。

[7]立山温泉と室堂を結ぶ近道で、むかしは御歌道(おうたみち)と呼んだらしい。広瀬誠『立山のいぶき 万葉集から近代登山事始めまで』(1992年)、p210。広瀬によると、東宮(のちの昭和天皇)の立山御歌を記念して昭和初年に開削されたが、崩れやすくやがて廃道になったという。また橋本廣・佐伯邦夫編『富山県山名録』(2001年)によると、昭和初期に造られた道で、室堂山の途中にあるリンドウ平から国見岳川に続く石畳道がかすかに残っている、という。明治42年に長次郎が2度通ったという記述とは矛盾することになるが、もともとこの鞍部は冷光の記述によると立山公園と呼ばれた場所であり、地元の人たちが立山温泉から上り下りする近道があった可能性が高い。詳しい調査が必要である。

[8]富澤一弘・若林秀行「明治中後期立山温泉の社会経済史的研究--温泉関連史料及び新聞史料の検討を中心に」『高崎経済大学論集』第48巻第1号(2005年)(2013/08/19 23:35)※2018年6月9日追加。

 

8_大日岳・称名滝の探検

奥山廻りの古道をたどって黒部谷まで下り、ザラ峠と立山温泉をめぐって室堂に戻る2泊3日の旅。それは近代登山の範疇に入るものである。同時代の登山家でこのルートを通って記録した人は他にいない。宇治長次郎という優秀な案内人を得て危険らしい危険に遭遇していないので、これを探検というといぶかしむ向きもあろう。大井冷光(23歳)は何かと茶化して書いてしまうために、登山記らしくない文章しか残っていない。しかし室堂に戻ってすぐ翌日から始まった下山の旅は、危険と隣合わせのまさに探検というにふさわしい山旅になった。

その旅の記録が『富山日報』で17回連載された「大日嶽と稱名瀧」である。[1]大井冷光が書いた山岳紀行文で最も力のある作品とされ、明治42年夏の「天界通信」の中で4分の1を占める分量がある。この旅に同行したのは、3週間寝食をともにしてきた洋画家の吉田博(32歳)、そして案内人の佐伯和三五郎(59歳)と荷担ぎの佐伯春吉(38歳)。4人は2日間、道なき道を進み、暗がりの崖でのビバークを余儀なくされ、一昼夜ほとんど食べられずに遭難寸前まで追い込まれた。以下では、明治42年当時の地名を併用する。

立山室堂に1か月近く駐在して周囲の山や谷を見渡すうち、大井冷光にとって興味の引かれる場所があった。それは大日岳(標高2501m)と称名滝(落差350m)である。

西北別山と天狗平の間に地獄谷を前にひかへて頑張つた大日嶽、其の茂味澤山な黒ずんだ嶺こそ獨り毛色を異にした癖者と云はねばならぬ麓の猟夫が鞍鹿や熊の本場の様に心得て居るのもこの山であれば又頂上の岩窟から古武器を発見すると云ふのもこの山である、今では冬期雪の上の外は容易に登る者とてはないが、むかしむかし立山の開基者有頼公が初めて登つた路筋といふのは口碑の多い今の路ではなくて芦峅寺村から早乙女山に亘り夫からこの大日嶽の嶺伝へに立山へ登つたものらしいと土地の故老が物語る、室堂に居て見ては低く見えるが富山から見ると立山を肩に載せた大山、何方にしても、山住みの僕に取つては見逃し難き山となつた[2]

室堂に立ってみると雄山や浄土山や別山など多くの峰々が岩でできているのに、大日岳だけは緑に覆われているように見える。大日岳は大日如来に由来する山で、西から来拝山~大辻山~早乙女岳~大日岳~奥大日岳と連なる峰々は古来、修験道の場として知られた。16年前の明治26年7月には平安時代初期のものとみられる銅錫杖頭が発見され、山頂には御堂があったとされている。冷光にとっては探検心をかきたてられる謎めいた山であった。

芦峅~弥陀ケ原~室堂~雄山が登拝者たちでにぎわいを見せるのに対して、称名川を挟んだこの山域に入る人は少なかった。地元の木こりや猟師、薬草取りなどが入山していたらしい。つい1か月ほど前には日本画家の石崎光瑤が大日岳に入ったのだが、どのルートをとったのかは定かでない。[3]

もう一つの目的地である称名滝に、冷光は特別な思い入れがあった。

僕は今日迄立山の観察上称名瀧の瀧壺を見ぬ事が何よりの恥辱と感じられて居たので、今年こそは是非宿望を果たさばやと予期して居た

恥辱というのは、前年の明治41年に『立山案内』を編集した際、称名滝について文章を大幅に転載をしてしまったことをいう。称名滝は古くからその滝壺に近づいてはならぬされ、そこを見て生きて帰った者がいないとされてきた。立山登拝道の途中、崖の突端にある伏拝と呼ばれた場所から遠く2.6キロ先の瀑身を眺めるのがふつうだった。そこから滝壺は見えない。[4]

明治30年代に近代登山が始まって、称名滝の滝壺まで初めて到達して紀行文を残したのは、日本山岳会会員で新潟県の教員、大平晟(おおだいら・あきら、1865-1943)だった。明治39年8月、大平は猟師の佐伯直次郎(48歳)を案内役にして下流の藤橋から称名川を約8.8キロ遡った。その様子は、雑誌『山岳』第2年第2号(明治40年6月)に寄稿した「越中立山の偉観」(「北陸三山跋渉記」の二)に記されている。冷光の『立山案内』では、大平の紀行文全文2600字余りのうち約98%、つまりほとんど丸々転載した。冷光はそのことを内心恥じていたのである。

室堂で社務所の人たちに相談すると、称名滝に行くなら藤橋まで下りてから川を遡るのでなく、大日岳の裾を下りた方が難しくないのでないかという。いずれの行程でも2日間かかる。滝の4キロほど下流に木こりの小屋があるのでそこで宿泊したらどうかという。ちょうど、室堂の器械方として働く佐伯和三五郎が2度ばかり滝壺までいったことがあった。吉田に話すと、吉田もまた「立山に登ってくるとき伏拝で見た滝にぞっこんほれこんでいた、ぜひ滝壺で写生してみたい」というのだった。そして、荷担ぎとして佐伯春吉が同行することに決まった。春吉は、猟師で雪の上なら隅から隅まで行かないところはないという強者だった。

Dainichi

 


Jigokudani

地獄谷と4人
左から吉田・冷光・和三五郎・春吉
『富山日報』明治42年9月1日3面

4人が室堂を出発したのは、明治42年8月25日午前7時である。稜線から昇った朝日を受けて、草露が輝いている。冷光は元禄笠、吉田は菅笠、和三五郎は麦藁帽、そして春吉は桧笠。冷光と吉田は立山山頂の焼印のある愛用の金剛杖を、春吉は生木でこしらえた杖を手にしている。冷光と吉田は雄山山頂の峯本社に向かって参拝すると、向き直って地獄谷へ歩き出した。立山長期滞在を記念して企画した2つ目の探検がいよいよ始まるのである。

20分ほど坂を下った地獄谷(標高約2300m)は、周囲1.5kmほどの草木のない窪地である。至る所から水蒸気が立ち昇り、硫黄臭が立ち込めている。噴気口にはそれぞれ無間地獄や八万地獄などと名前があり、全部で四十八地獄といわれていた。冷光には、朝の地獄谷が荒涼としたというより穏やかに感じられた。「こんな時には鬼の代わりに天人が天降り、このきれいな煙のぐるりを立ち舞うのかもしれない。そうだそうだ天勝の胡舞にも確かにこんなあんばいの色彩を使つたはず」。吉田もまた「これはいいですな」と言って紙切れに写生を始めた。

地獄谷をはさんで見える小高い山は迦羅多山(標高2380m、からだせん)といった。その山の右側を回りこむように紺屋川が標高2240m地点で浄土川と合流し称名川となる。左側を回りこむのはミクリ川で、素麺滝を経て称名川の標高2050m地点で合流する。

室堂から大日岳へのルートは、現代ではすこし遠回りしていて浄土川を標高2260m地点で渡り、新室堂乗越(のっこし、標高2384m)に出て、東西方向の稜線上をたどるのが一般的だ。明治42年の時点では室堂~地獄谷~室堂乗越(標高2350m)のルートがあった。室堂乗越は、江戸時代に地獄谷から早月川の馬場島へ硫黄を運び出した道の峠にあたる。ちょうど明治42年の夏、のちに英文学者で登山家となる富山市出身の田部重治(1884-1972、たなべ・じゅうじ)が馬場島から室堂乗越を越えて立山登山を果たしている。[5]室堂乗越は昭和32年の5万分の1地形図に記載があるので、少なくともそれまでは地獄谷~室堂乗越経由ルートは利用されていたが、いまでは廃道になっている。

冷光たちのルートは室堂乗越を経由するものでなかった。和三五郎が当初、大日岳登頂を念頭におかず、称名滝への最短コースを考えたためのようだ。称名滝より上部の称名川は、称名廊下と呼ばれる険谷である。この一帯は現在、登山道がなく、ザイルなど沢登りの装備を備えたごく一部の登山愛好家が通るのみである。

冷光たちは地獄谷の西端にある大安地獄を見たあと、迦羅多山の尾根を越え、称名川への急斜面を下っていった。標高差は約200m、稲妻形に何度も折り返すように進み高度を下げた。左手から滝の音が聞こえてきた。

『サア素麺瀧に来たぞ』の声に熊笹を掻き分けて覗くと、見上ぐる崖へ糸と乱れ珠と砕くる目醒ましさ、素麺と見ては余りに綺麗過ぎるではなからうか、四人は急いで溪に転げ下り、川の対岸から正面にこの美観に臨んだ、瀧の高さは四十間はあらう、九十度強の岩壁を三四間の幅にて右に砕け左に折れて落下する姿、宛然白モスリンを引懸けた様である、瀧の右側の崖の中程から赤、白、黄、緑さては樺色といふ風にさまざまの小流が懸つて居る、人夫の春吉は『あの彩色の瀧は皆湯です』とて荷物を下して岩の上を飛んで行つたが其の彩色のあちこちへ手を差入れ『こいつは熱い、こいつは冷たい』などと検べ廻るのである

注目されるのは素麺滝の右側の崖の小流である。冷光はこの滝を「五色の湯滝」と記している。そんな滝が本当にあったのだろうか。最近のガイドブックでは、ソーメン滝は落差130mでソーメンを流したように細く、幾筋にも分かれながら岩肌を滑り落ちていると紹介され、すこし丁寧な案内書では、地獄谷からこの滝まで来ると赦免されるという伝説から別名「御赦免滝」と記している。五色の湯滝にまで言及したガイドブックは見つからない。1962年の立山・称名滝調査報告書『立山 称名滝とその渓谷を探る』では「滝壺近くの五色の岩壁は湧泉とともに注目されている」と記され、冷光の記述を裏付けている。[6]

案内の和三五郎が言うには、ちょうど20年前の明治22年、芦峅寺村の小左衛門が、五色の湯滝の湯を浴槽に溜めて、湯屋を開いた。大変よい湯ができたが、場所が悪かったために翌春の雪融けの時すぐ流されてしまった。その後、再び計画はないが、それからこの場所を小左衛門谷と呼んでいるという。

 


Yoshidasoumendaki

吉田博《素麺瀧》
『富山日報』明治42年9月3日3面

 

冷光は「その成分のいかんは知らず、こんな立派な滝のある所に、こんな立派な温泉の湧くのを道さえ付けずに埋らせおくとは誠に惜しいものである」と記している。吉田は鉛筆でスケッチしながらため息を漏らした。「ああ油絵で描けたら、……ここまで道が着いていたら……」。そんなに魅力的な光景だったのであろうか。

4人はしばらく休んでから、いよいよ後大日岳の裾を登り始めた。草付きの急斜面である。イタドリやクマザサを片手でつかみ、やぶこぎする。100メートル余り登ると、なたの切り口のある古い株があった。山腹に沿って、草のない線が続いているように見える所がある。

和三五郎の説明によると、20年前に小左衛門湯ができた時、称名川の下流にまで通じる道を切り開いたことがあり、切り株はたぶんその痕跡であろうという。冷光たちはその痕跡を手がかりに、後大日岳の山裾を称名川下流に向かって進んだ。しだいに草の丈が高くなった。冷光は片手の金剛杖で草をかき分け、もう片方の手で草をつかんだ。

脚の辷る事は夥だしい、若し踏み外づして転げやうものなら、それこそ七十度乃至八十度の断崖を車返しに奈落へ落ち込んで仕舞ふのだ、実にこの経験で登山者が岩壁を攀づるよりは却つて草鞋の辷る草着きを登るの難事なるを知る事が出来た、然も登る丈ならまだしもである、之を横切る苦痛に至つては更に更に忍び得べきものではない、全く想像以上の危険に僕等は遭遇したのである、斯る難坂を一時間も苦しんで漸く禅定松の二三本樹つた巌角に辿り付いた、其時気が付くと名々の草鞋は悉く右側の甲へめくり返つて脚の底には草鞋の耳ばかりを踏んで居る

現代の地図で斜度を計ると平均斜度32-34度、相当な急斜面である。等高線は曲がりくねり、ひだのように波打った山腹である。雨裂と呼ばれる小さな谷も多い。4人は1時間歩いても進んだという実感がなかなかわかなかった。

ハイマツのある岩場でひと休みしボタ餅を食べているとき、案内役の和三五郎が切り出した。

中腹をたどってはるか先に見える尾根にまでいき、そこから称名川に下る計画だったが、今の調子では簡単には進めない。斜面をいったん登って稜線に出たほうがいい。最もそうなると、今晩の目的地である犢首(こうしくび)小屋まで着くことができるかどうか。

「まあまあ野宿のお覚悟でおいでなさい」。おそらく和三五郎は真剣に話したのだろうが、冷光は例によってすこし茶化して書いている。

和三五郎としては最初、称名滝まで昔の道の跡をたどったほうが近いと考えていたようである。しかしその目論見は大きく外れた。確かに道の跡はあるが、それは道といえる道でなく、わらじで進むにはあまりに危険な片斜面の連続なのである。

冷光はここで初めて和三五郎と意思疎通ができていなかったことを悟った。自分の目的は大日岳と称名滝の2つであり、大日岳がより重要な目的地である。称名滝を見るためだけならなぜこうした無理をしなければならないのか。冷光は力むように言った。「登ろう登ろう、野宿しても絶頂へ登ろう、道の善し悪しは頓着しない」。吉田も大賛成で「野宿の準備に鍋が無ければ、私は石で飯を焚く事を知ってます」と援護した。たしかに春吉の背負う荷物の中には、生米5升・缶詰3個・イナダの干物1枚があるだけで、携帯した昼食以外にすぐに口に入れられるものはなかった。夕食は生米を炊かなければ食べられないのである。

4人はようやく大日岳登頂を目指すことになったが、それからが苦難の始まりだった。

「大日嶽と稱名瀧」地名の比較
明治42年 現在  
地獄谷 地獄谷 標高2290-2320m、東西約700m。南北約300m。周囲約1.5kmの火口跡。
素麺滝 ソーメン滝 落差130m。古名は御赦免滝。
五色の湯滝 (不明) ソーメン滝に向かって右岸の岩壁。
迦羅多山 伽羅陀山 標高2380m。
西北別山 (不明) 2511mのピークか。
後大日嶽 奥大日岳 標高2611m。3等三角点2605.9m。
(不明) 七福園 岩の窪地。行者が修行したとみられる岩屋遺跡がある。2011年の調査で奥行10m、最大幅2.5mと計測。標高2470m。
前大日嶽 大日岳 標高2501m。2等三角点2498.0m。
乗木平 大日平 標高1550-1750mの湿原。約160ha。中央部やや北側にザクロ谷が刻む。南端は称名溪谷の下の廊下。
細首(の嶮) 牛ノ首 標高1450-1530mのやせ尾根。
大摩(の嶮) (不明) 牛ノ首直下称名川側の急坂。
(不明) 猿が馬場 標高1380m。
犢首 皇子首 称名平、標高970m。
伏拝 滝見台 標高1280m
(不明) 大観台 標高1470m。1960年代に設置。
(覗き)? 伏拝 標高1530m。弘法小屋の西。

[1]冷光の天界通信は最後の移動日を除く35日間全体で約64000字の分量があるが、そのうちの「大日嶽と稱名瀧」は2日間で16900字で26.4%も占める。広瀬誠氏は16回の連載としているが、第8回が2回あるため正確には17回の連載である。大村歌子編『天の一方より』も16回分を収録しているが、第8回「偃松と苦闘す」が漏れている。

[2]西北別山とはどの峰を指すのであろうか。奥大日岳の南東南にある2511mのピークであろうか。明治時代と現代では、いくつもの地名が異なっている。

[3]八尾正治『絢爛の花鳥画 石崎光瑤』(1995年)p45によると、明治40年7月から8月にかけて、石崎は大日岳を往復したことになっている。これが正しいとすれば、明治40年と42年に2度大日岳に登ったことになるが、裏付けはとれていない。

[4]現代では称名滝を台地上から眺める地点として3か所が知られている。滝見台(1280m)・大観台(1470m)・伏拝(1530m)である。しかし、1530m地点が伏拝と誤って言われようになってしまったのは、おそらくごく最近のことである。称名滝の上部落ち口は標高1410mあたりで、1530mから見ると斜め横の上から見る角度になる。しかも直線距離で700mと近づきすぎで決して良い観望ポイントとはいえない。

明治時代の『立山権現』『立山案内』など主要な書籍によれば、伏拝はブナ平と桑谷の中間にあったことは明らかである。つまり現在の滝見台あたりの場所が本来、伏拝とすべきなのである。これは郷土史家の間で議論の余地のない事実であった。写真では滝筋が右下がりの線になる。大観台は車道ができてからのもので、昭和44年に昭和天皇が訪れた際に見える場所として整備された。大観台からの写真では滝筋がほぼ鉛直の線になる。1530m地点からだと滝筋がほぼ左下がりの線になる

ではなぜ1530m地点が伏拝となってしまったのか。誰かが誤ってここが伏拝だと言ったことが、いつの間にか正しくなる。この地名によくある不可思議な変遷は、立山の郷土史研究の第一人者だった広瀬誠氏が何度も指摘している。大日岳(2501m)をもとは前大日岳と言っていたが、現代ではその大日岳の前にそびえる1788mのピークを前大日岳というようになったという。50年以上前の立山・称名滝総合学術調査団『立山 称名滝とその渓谷を探る』(1962年3月)の地図にすでに誤った位置に伏拝が記されている。

称名滝を見る場所として、明治41年の立山奉幣使、中野有光(富山県警察部長)は、「伏拝み」「覗き」という場所を記している。2-3本の大木が邪魔だったので、下山後、大阪大林区著長に伐採を申し入れたという。明治41年の直後の記事では「伏拝み」、翌42年の回顧記事では「覗き」であり、このままだと「伏拝み」=「覗き」である。大木は杉であったらしいが、実際に伐採されたかどうかはわかっていない。中野には中林喜三郎と山田亀太郎の2人の写真師が同行したとみられる。写真師山田亀太郎は明治40年にも奉幣使に同行し、山田による称名滝の写真が大井冷光編『立山案内』(明治41年7月発行)に収録されている。この撮影位置が覗きであるとするなら、覗きは1530m地点となる。『富山県写真帖』(明治42年9月発行)にも称名滝の写真があるが、山田の写真とほぼ同じ位置である。「覗き」についてはさらに調査が必要である。『富山日報』明治41年7月30日3面「奉幣使の立山談」、同明治42年7月29日3面「魂既に立山に飛申候 在韓国中野有光君より」参照。

 

[5]江戸時代に行われていた加賀藩による硫黄採掘がいつまで続いたのかは不明である。佐藤武彦氏によると、地獄谷の硫黄採掘は文政年間(1818~30)に加賀藩から民間に払い下げられ、室堂乗越を越えて早月川の馬場島に運ばれたという。産出量は明治17年2800貫がピークという。(橋本廣・佐伯邦夫『富山県山名録』p88、奥大日岳の項)。

田部重治は明治31年富山県第一中学校(旧制富山中学)に入学、第14回卒業生である。冷光は明治32年の入学で約1年在籍したから田部の1年後輩ということになる。そのころの富山中学は1学年70人なので、冷光が田部と面識があったかどうかは不明である。少なくとも明治42年に立山室堂で書かれた天界通信には、田部重治の名は出てこない。田部は『わが五十年の山旅』で立山登山を回想し、硫黄運搬道の痕跡を書きとめ、室堂乗越を室堂峠と記している。ちなみに田部の同級生には、高岡新報記者でのちに北陸タイムスに移籍した五艘霞翠(治三郎)がいる。

[6]佐伯幸長『霊峰立山』(1969年)p51には、伽羅陀山の説明のあとに「また五色湯も近い」とある。2012年に称名川中の廊下を遡行した登山者のブログ「真っ黒ネコさんの散歩道」に、それらしい画像がある。(2013/09/16 19:01)

9_月明かりを頼りに下山強行

大井冷光・吉田博・佐伯和三五郎・佐伯春吉の4人は、後大日岳(奥大日岳)の斜面に取り付いた。ガレ場を踏み外さないように慎重に進む。相変わらず草にすがらなければ登れない急な斜度である。先の方から叫び声が響いた。生々しいウサギの死骸を、和三五郎が誤まって踏んだらしい。「やっぱり、ワシか、何だろう」。冷光が尋ねると、ワシならばウサギの腹わたは残さないし、クマやカモシカはウサギを食べないから、たぶんテンの仕業だろう、と誰かが言った。オオカミなら少しは驚いたろうに、テンと聞いてはあっけない。冷光は思わず笑った。

1時間足らずで、2町(約200m)ほどの雪渓に出て休憩をとった。春吉が恨めしそうに言った。「クマを見にゃらんところだが、皆騒がしいから隠れてしまうのだ、道でクマが今食ったような新しい草の跡がいくつも見たが……」。そして目上の和三五郎に向かって冗談めかして続けた。「あんたがしきりに工ヘンエヘンいうから逃げてしまう、これから気を付けっしゃい」。和三五郎はたんがのどにつかえるのか、1分間に2度3度とエヘンエヘンとせきをする。冷光はこれでは宿願であるクマとの遭遇はできないと思った。

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大日岳~称名滝下山ルート(明治42年)赤線は推定ルート

3日前に宇治長次郎と黒部谷を旅したときも、冷光はクマに出くわすことを目的のようにしていた。クマとの遭遇にこだわるのはなぜか。それはもしかしたら立山開山伝説に関心を寄せていたからかもしれない。ここでその伝説の内容まで触れないが、立山に来る直前に出版した越中お伽噺第2編『佐伯有頼・コロリン爺』のうち「佐伯有頼」はまさに立山開山伝説をもとにしたお伽噺であり、有頼がクマを追って立山に入る場面がある。

雪渓を1町(約109m)ほど登ると、左手に赤砂のなだれる緩やかな斜面が見えた。和三五郎と吉田は雪渓をそのまま進んだが、春吉と冷光は赤砂の斜面に入っていった。上のほうでいずれ2人と会えるだろう。気まぐれで別行動となった。赤砂の斜面を登りつくすと、クマザサとヤシヤ木のしげる崖だった。2人は草をかき分け、枝にすがりながらさらに進んだ。獣道があった。

処々に馬の沓を撲付けたやうな肢の痕、草の喰ひ残し、ヤシヤ木の幹の噛りちらし、熊だ、熊だ、熊逕に相違ない、と胸躍らして其路を急ぎ登らうとすると、春吉後から『周章られませぬ、徐かに々々々、屹度居りますぞ』と注意を与へて自分の腰にチンチンと音のした火打鐵を帯にくるんで仕舞つた、成程枚を啣んで進むべしである、幸ひに和三五郎のエヘン老人が居なかつたのが安心と、二人はひたすらに登つた、行く程に爪の痕、さては新らしき糞塊が……一歩一歩敵に接近する心地もすれどさて正体にはまだぶつからぬ、斯くてものの三十分許りを登つたが俄かに逕は崖を下り初めるではないか、落胆して春吉を見返り『何うしやうか』と云ふと春吉も亦呆然して『もう駄目だ、諦めツしやい、二人に遇はねば面倒になる』と答へる、それもさうだと俄かに力限りの大音声を搾つて『オーイオーイ』と呼んで見るが、答ふるものは谺のみ、否その谺さへ溪が広くて聞えない

クマとの遭遇はまたも空振りに終わった。雪渓をまっすぐ進んだ和三五郎と吉田はどうしたろう。2人とはぐれてからもう40分ほどたつ。冷光と春吉は心配になった。やや開けた場所まで来ると、クマザサの上にクルマユリの束が残してあった。吉田の残した目印にちがいない。ようやく安心して進むと、やがて和三五郎が探しに下りて来た。和三五郎と吉田は、冷光と春吉が先に行くものと思って急いで登ったところ、なかなか呼びかけに返事がない。ようやく考え直して戻ったという。4人は、以後勝手な行動を慎むことを約束した。

午前11時、後大日と前大日との間の、猟師たちが大谷と名付けている大雪渓に着いた。[1]雪解け水をコップに受けてのみ、弁当を開いた。振り返って見ると、称名川の谷をはさんで、あの室堂も鏡石も手に取るように見える。4時間余りも登ったはずなのに、直線距離はおそらく1里(約4キロ)もない。そう考えると徒労感が募った。

雪渓を登るとやがて一面の花畑が広がった。室堂付近で盛りの過ぎた花が、ここでは咲きそろっている。珍しいのは白花蛇苺の実だった。一粒食べてみるとなかなか甘い。吉田と摘んだが、それほど数はなかった。

午後1時半、岩壁を横に伝ってようやく稜線に出た。北側が早月川支流の小又川、南側は今登ってきた称名川の谷である。いずれの谷も雲で埋め尽くされて眺望はきかない。晴れていれば劍山(剱岳)が真正面に見えると和三五郎は言った。

小休止していると、足元の谷で岩が崩れ落ちる凄まじい音がした。驚いて立ち上がると、100m足らずの木陰の向こうにクマが逃げていく。待ち焦がれた遭遇に、冷光は思わず万歳を叫んだ。しかしなぜか「それは後から考えて見れば誠に無意味な万歳であった」と記している。あれだけ望んできたがことが意外にも簡単に訪れ、拍子抜けしたのであろう。

4人は稜線上を進んだ。小高い峰を3つ越えると、岩に取り囲まれた窪地に出た。周囲は2町(220m)ほどでそんなに深くない。

現代ではこの場所を七福園(標高2480m)と呼んでいる。

そのうちに下りんと屈めば人の四五人も泊られそうな巌窟があった。ハイマツの朽葉を一面に敷いて薪木の跡もあるところは両三年中に誰れか泊まったものと見られた[2]

七福園を過ぎて4人が大日岳山頂(標高2501m)にたどりついたのは午後3時30分だった。[3]7年前の明治35年に陸地測量部の古田盛作によって選点された二等三角点(2498m)のやぐらがあった。

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《絶頂の雪》
大日嶽頂上には三角点の櫓があった
『富山日報』明治42年9月6日3面

残念ながらあたりはすっかり雲に覆われていた。「こんなことなら登らなかったのに」。皆からつい不平が漏れたが、しばらく休んでいると雲が途切れて剱岳が雄大な姿を現した。言い伝えによると、大日岳山頂には延喜年中に弘法大師が登山する前までは立山峰の本社が建てられたといわれていた。剱岳を遥拝する場所だったのだろうか。冷光は調べてまわったが、建物の跡も遺物も見当たらなかった。この場所で、4人は食べ残しの握り飯を平らげた。缶詰が空いたので、冷光は4人の姓名を記した紙片を入れて記念に残した。

いよいよ下山、称名滝に向かって急降下である。ところが、和三五郎と春吉は、下山の道が雲に隠れて分からないと言い出した。方角さえ確かなら下りられるだろうというのは素人考えだった。この先、幾筋もの谷があり、うっかり断崖に出てしまうと途轍もない回り道を強いられる。「日暮れまでに犢首(こうしくび)の小屋へはとても行けないから野宿の覚悟でいてくれ」。和三五郎が念を押した。

春吉は4人分の夕食の材料を持っていたが、犢首の小屋で調理する算段なので、鍋や椀がなかった。吉田が勢い込んで「石で炊く」といったのは全く当てにならなかった。

大日岳~大日岳登山口(称名川)は標高差約1500m、ひたすら下りである。登山道が整備されている現代でも所要時間はおおむね3時間50分だ。仮に午後3時30分で山頂を出発すると登山口に着くと午後7時20分。途中で日没となることやルートの険悪さを考え合わせると、スケジュールには相当な無理がある。当時は、登山道が整備されていないうえに視界が利いていない。悪条件がいくつも重なっていた。

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《偃松と苦闘す》
※表題は見出しから
『富山日報』明治42年9月7日3面

4人はとにかく急いで下山を始めた。最初の障害はハイマツである。立山や浄土山付近に生えているハイマツの背丈が2-3尺であるのに対して、ここ大日岳のハイマツは6-7尺も伸びていた。踏めばしなってわらじが滑り、踏まないと枝が絡んでなかなか進むことができない。笠が破れ、着物を裂け、顔が傷つく。しなった枝が容赦なく目に当たる。手に持つ杖が邪魔になった。春吉はただの生木でできた杖なので真っ先に捨てていた。しかし冷光は杖を捨てるのをためらった。

僕等のは八角削りの立山頂上の焼印を押したものである、殊に僕のは三十餘日手慣れた大切な紀念品であるから此處まで持って来て偃松との苦闘に負けて打ち捨てるという事は武士が愛馬を捨てるよりも辛い、到底思ひ切られる事ではないからそれからは四五間先きに投りては進み、投つては進む事とした

ハイマツとの苦闘すること30分。次はクマザサの薮こぎだ。わらじが滑ってしきりに尻もちをつく。つかまった草がちぎれ、滑り落ちる。斜面がきつい。仕方なく、後ろ向きに四つんばいで下りていく。途中、腰を掛けられるような場所もない。カバのしなった枝を見つけて、鳥が留まるようにそっと休んだ。雲はいつしか散り散りになり、夕日が向かいの山のカバの幹を赤く照らす。一行はようやく石道を発見した。確かにこの道らしい。

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《のりき平》
日が暮れて空には三日月が昇った
『富山日報』明治42年9月8日3面

金剛杖を使って岩の間をたどることまた1時間。ようやく水場を見つけた。カンパの木に古い鉈(なた)の跡があった。和三五郎が持っていた少量の砂糖を水で溶いて飲んだ。皆疲れ切っている。今夜どうするのかという話を切りだす雰囲気ではなかった。黄昏が迫り、だんだん薄暗くなってきた。時折、獣が逃げる音がする。テンが岩の上に後足で立ち上がって木の実をあさっている。ようやく広い高原に出ると、夜の7時近くだった。猟師たちはここを乗木平といった。

日はとっぷりと暮れて三日月が空に浮かんだ。振り返ると大日岳は「黒く大象の影の如くに眠つて居る」。

大日岳山頂から約750m下ったことになる。乗木平は現在の大日平(標高1550-1750m)にあたる。乗木平はもとは弥陀ヶ原と同じ溶岩台地であり、その台地の中央を称名川が刻んでできたのが称名滝である。弥陀ヶ原には一の谷などの谷が切れ込んでいるのに対し、大日平にはその中央をザクロ谷という深い谷が横たわっていた。冷光の記述にはザクロ谷という地名は出てこない。ザクロ谷をできるだけ上部で横切らなければ、大日平の出入り口にあたる牛ノ首(標高1450~1530m)の尾根には出られない。明治時代、牛ノ首は細首(ほそくび)、その先の標高差400mの急坂は大摩(おおずり)と呼ばれていた。いよいよ最大の難所である。

Hosokubi
《細首の険》
暗がりの痩せ尾根を下降した
『富山日報』明治42年9月9日3面

明治42年8月25日の暦を調べると、日の入りは午後6時30分。月は月齢9.1で、月の出午後1時40分。南中は午後6時37分で月の入りは午後11時30分となっている。乗木平で午後7時前後であるから、この時間には月明かりはあっても三日月で相当暗かったものとみられる。

和三五郎が言うには、犢首の小屋まで1里ぐらいしかないが、この先が最も危険な場所だった。冷光は素人考えで弥陀ヶ原の弘法小屋に行ったらどうかと尋ねた。和三五郎は、大きな渓谷が2つあり、昼でも人が通れるところでないという。意外にも楽観的だったのは吉田だった。「幸いの月夜です。倒れるまで進もうではありませんか。見渡すところ道は易そうです、行きましょう」と皆を元気づけるように言った。

かすかな月明かりを頼りに進む。番号の字も消えかけている測量標の杭が見つかった。この道はやはり人の道に違いない。しかしそう安心したのも束の間、また道を見失ってしまった。先頭の和三五郎君としんがりの春吉とが話し合う。冷光は草原に寝転んで西の空のかすかな残照を眺めながら、うろ覚えの聖歌を口ずさんだ。「夕日はかくれて道は杳(はる)けし、行く末いかにと思いそわづらう、わが主よ、今宵もともに……」。吉田は、残り少ないウイスキーで唇を濡らしながら吐息を漏らした。

鳴呼今朝室堂を出てから十三時間余の登攀跋渉、其間に画伯の材料となつたのは僅かに素麺瀧のみである、実に僕は画伯が称名ケ瀧を写生するばかりに斯る苦難を伴つたかと思へば今更申訳がない、殊に和三五郎君が今朝大日登山の発議をした時画伯は僕の賛成を好まぬらしいそぶりも見えたのに到当絶頂まで登らせてこんな憂き目を見せて仕舞つたと思ふと愈々以て身を切る様に苦しくなつて来たから『先生!劇い目に遇はせました、堪忍して下さい』と思はず口に出すと『何に構ふもんですか、後からこの旅行を追想するのは愉快でせうよ、私は日本では余りこんな苦しみはしませんが、一度砂漠で日を暮らしたことがあります、この時こそは全く閉口しましたよ』などゝ口丈は頗る元気なのは嬉しい

冷光は後年、吉田の性格を「書生肌」「山法師気質」だったと振り返っている。常に勉強をしている印象があり、どこか超越したところがある人だったということであろうか。[4]

偵察に出かけた春吉が戻ってきた。細首に通じる道は窪地をまたいだ向こうの原にあると分かった。しかし窪地は簡単に渡ることができそうにないからいったん戻ろう、と春吉はいう。[5]冷光には窪地がそんなに広いように思えず、小さな用水でも通っているとしか見えない。いまさら後戻りすることが我慢できなかった。和三五郎が話すのも聞かないで、冷光は強引に木の枝にぶら下がり、その窪地の底へ飛び込んだ。倒木が天然の橋になっていた。倒木を伝い、登りかえすと案の定また道があった。

ササやぶの坂となった。月は雲に見え隠れして、うっかりすると道を見失う。春吉の背の荷物には提灯があるが、この草むらでは使うことができなかった。やがて坂が急になって栂の老木が5-6本が立っているところまで来た。

春吉が言った。「ここから細首というところだ、両側へ砂が崩れた痩馬の背みたいなオボ子を伝はにゃなりません。そのオボ子のことはかまわないが、それから下の大摩というところは赤砂が崩れて草さえ生えておらんが、通られようかのう」。案内役の和三五郎も頼りなく「そうじゃのう」と相槌を打った。

冷光は、春吉の背負う荷物が草や木の枝に引っ掛かかるのをみて申し訳ないと思った。「壊れる品物もないから、さきに谷にほうり落としてもいい」。すると春吉はまた案じて言った。「おらのことはこれだけくらいの荷物は何でもないが、お前方、通られようかのう」

細首は、標高1450~1530mの急なやせ尾根で、右手は称名川支流雑穀谷の支谷ザクロ谷、左手は称名川本流に鋭く切れ落ちている。山に慣れた2人であるから、この場所を暗がりに通過することがいかに危険なことか知っていたはずである。緊張が高まった。

静寂を破るように谷底からどうとうと音が聞こえた。称名滝の音である。まだまだ距離がありそうだ。栂を伝ってしばらく進む。いつしかそれもできなくなり、腹這いに進んだ。その難関を5分ばかりで通過し、ようやく傾斜の緩い所まで出た。両側は千仭の谷である。先頭をつとめる和三五郎が、山の端に沈みそうな月を見上げ、脂汗を拭いながら言った。「もう歩くのは駄目です、おい、春吉どうしょうかのう」。しかし、体を横にする場所さえない。こんなところで一夜を明かすわけにはいかない。何とかしてもう少し下りよう、と冷光は言った。

今度は春吉が先頭に立ち、皆を元気づけるように言った。「さあ、これからはイタドリにすがって下りたら大丈夫だ、後からいらっしゃい」。4人は大摩と呼ばれる断崖を後ろ向きになって下降し始めた。それにしても何時だろうか。冷光の時計はとっくに壊れていた。吉田に聞くと吉田は苦笑して「もう時計は見ますまい」と答えた。

クマザサやイタドリを手でつかみながら下りる。大日岳を下りた時と比較にならない急な斜度である。草は種類と長さが変わって、暗がりで時々イバラをつかむ。顔も手ももう傷だらけである。手に握る金剛杖がねばついている。

葉擦れの音とともにガラガラと崖の崩れる音。「おーい、東京の旦那あ、富山の旦那あ、下りれるかのう……」。下から和三五郎と春吉が代わる代わる声を掛ける。後ろ向きの苦闘は休みなく2時間余りも続いて夜10時になった。

和三五郎と春吉がまた相談を始めた。このあたりから右に外れてお花畑という所まで出ねばならぬはずだが、この暗がりではとても分からない。「たとえそこまで出たとしても草は深くてとても歩けません。見られる通り月も入ったから、どこか火を焚けるところを見つけて野陣を取りましょう、オイ春吉、どこか場所を見つけようのう」。和三五郎が言った。そのうちブナが4-5本そびえ立っているところまで来た。草を分けて焚火をできるだけの広さがある。和三五郎は柴を集めて火を焚いた。

冷光と吉田は無言で腰を下ろした。空腹感とともに眠気が襲ってきた。冷光は牛缶の一切れを口にしたが、それ以上食べられなかった。吉田からウイスキーをもらい2-3滴をなめたが、その後は朦朧としてしまった。

誰かが肩を揺すっている。目を開けると、春吉が提灯を持って立っていた。

「ここにいると風で岩が落ちて来る。それ見っしゃい、お前の枕元の木の傷口は岩の跡だ。あぶないからほかにいい場所を探せどないさかい、この木の陰で寝てくれっしゃい」

ブナ一本が今宵の宿
《ブナ一本が今宵の宿》
冷光本人の画か
『富山日報』明治42年9月11日3面
「山にさ迷うて一昼夜絶食す」の挿絵
「山にさ迷うて一昼夜絶食す」の挿絵
ブナの根元でビバークの場面を描いている
『少年』157号(大正5年10月号)

春吉が促すのにただうなづいて、ブナの根元の窪みに下りた。クマザサを刈ってござまで敷いてある。冷光と吉田が並んで寝てみると、膝から下を曲げて崖に投げ出すような格好になった。寝返りを打てば谷底に転げ落ちる危険があるが、そんな心配をする余裕などない。毛布にくるまる時、吉田が「12時を済みました」と言った。忘られない一夜になった。

4人がビバークした地点は、現在のどのあたりなのだろうか。立山一帯のブナ林植生はおおむね標高1000-1300mである。現在の登山コースでは標高1380mに猿が馬場という休憩ポイントがあるが、おそらくその下部まで下りて野宿したものとみられる。地形図を読むと、細首直下の大摩の斜度は53度とほとんど断崖に近い斜面で、猿が馬場下部でも38度前後の急斜面である。そもそもこのような場所を明かりをもたずに夜間に下降するというのは無謀というよりほかない。

それにしてもなぜ、案内役である和三五郎と春吉は、乗木平でビバークという安全策を選ばず、暗がりの細首・大摩に突入してしまったのか。和三五郎も春吉もこの場所の険難さを知らないはずはない。誰かが先を急がせる事情があったのだろうか。それとも「お花畑」をビバーク地点に考えていたからなのか。「お花畑」はどこなのかは不明である。

数日前、冷光と吉田を黒部谷に案内した男、宇治長次郎とつい比べてしまう。和三五郎と春吉の力量が足りなかったのではないか。そういう見方があるかもしれない。しかしそれは和三五郎と春吉にとって酷であるように思える。この細首~大摩は、はしごや鎖が整備されている現代でも遭難者が絶えない最も危険な箇所なのだ。冷光の文章を読み解くと、最後まで和三五郎と春吉はなかなか冷静である。急斜面でのビバークで落石の危険があり、それを避けるためブナの根元に2人を誘導した判断は、いかにも山を知り尽くした山男らしい。

目が覚めるとあたりはもう明るかった。落石はなく無事だった。吉田も目を覚ました。時計は5時30分を指している。2人は焚火をしたところまで登ると、和三五郎と春吉が焚火にあたってぼんやりしていた。春吉が言った。

「昨夜お前方寝しやってから、おらあ生米を噛んだが1合ほどで歯が痛あなった。夜中に獣が枕元をガサガサいわはせるので起きて追ったが、食べ物をとられないでよかった。何だったか分からんが、小さい獣ではなかった」

冷光は和三五郎に道が分かったかと尋ねた。

「どうも今年はお花畑に道がついておりませんから、まずここから谷へ下りましょう。そして称名川まで出て、そこから春吉に犢首の小屋へ米を焚きにやることにしましょう。さあもう一奮発だ」

和三五郎はそう言って身支度をはじめた。

春吉は鉈を取り出して、2人の寝ていた枕元のブナの幹を削り始めた。「二度と人間の来るところでもなけれど、名前を彫っておかっしゃい」。春吉の粋な心遣いだった。冷光は面白くなって小刀を取り出し、削り口に4名の姓名と「明治四十二年八月二十五日夜十二時此木の蔭に屯す」と彫った。

空腹感が一段と強くなった。せめて水でもないかと探すが、湧き水はなさそうだった。焚火を始末し、足首に耳と紐だけ残っているわらじを新しいものに取り換え、また下降を始めた。

全身が疲れきっている。簡単に尻もちをつく。先を下る吉田も同じだった。枝にすがってつい立ち止まる。昨夜の強行軍と違って、周りが見えるとしゃにむに進めなかった。草や木の枝を避けて通る。それがとても面倒に思えた。「ああ、せめてイチゴでも見つからぬものか」。そうつぶやいたのが和三五郎に聞こえたらしい。和三五郎は立ち止まって、外套のかくしを探って、小さな紙包みを取り出して開いた。室堂の社務所から出す「立山供饌」の字がある小さな落雁だった。「これは孫の土産だが上げます」。その1枚は「大牢の滋味」という言葉でも形容し尽し得ない、と冷光は心の中で感謝した。

向かいの山を望むと、ねずみ色の大懸崖から一筋の滝が落ちている。榛木谷の滝だった。和三五郎が言った。「称名滝も近くなりました。あれ、川の瀬音が聞えますぞ」。せき立てられて1時間ほど下った。「水だ、水だ」。先を下りていた吉田が呼んだ。岩間からほとばしる命の清水だ。顔を見合わせてもう死ぬ気遣いはないと笑った。

それから沢をひたすら下った。体が冷えてきて身震いをする。春吉がたくあん漬を一本取り出して「これでも喰はしゃるか」という。ナイフで三分して、それぞれがしゃぶりながらまた下った。水がだんだんかさを増す。
和三五郎が岩の間から生えている草を採って皮をはいだ。「これはヨシナといって大蛇(うわばみ)の餌物です。食べてみなさい、うまい」。恐る恐る食べてみると、繊維が柔かく、淡泊で水分があった。空腹を紛らすために、冷光と吉田は道すがらヨシナを採っては食べた。

やがて傾斜は緩くなり、午前8時30分、称名川の河原に着いた。冷光は顔を洗い手をゆすいで身始末を直した。滝壺までどれほどあるかと尋ねると、和三五郎は疲れた様子で「もう20町もありましょう」という。

春吉は荷物の中から飯米だけをかついで1里(約4キロ)ほど下流にある犢首の小屋に向かった。[6]飯を炊いて戻って来るまで少なくとも3時間以上かかるだろう。ぼんやり座ってひもじいめをみるよりも、最後の気力を振りしぼって滝壺まで行ってみよう。冷光と吉田はそう決めると、遅れがちの和三五郎をそそのかして上流に遡ることにした。

大きな岩を這い登り、急流を飛び越えて2町(約220m)ほど進み、右岸の小高い崖に攀じのぼった。

前面に落下する銀河千丈、其赭色の断崖を雪の如く注ぎ出す称名瀧の偉観は、嵯呼吾れは幾年前から憧れたものであらうぞ、見える処は瀑の下段ばかりである、上の三段は崖に匿れて居る、二人は我を忘れて駆け寄つた、瀧が約三町近くからは風のまにまに余沫が霧の如く降つて来て、淙々の音は漸く広く大きく四邊の山に呀するのである、更に湍を渉り潭を飛び超ゆる事両三度、やがて両岸十間許に狭まりたる処を上ると訳もなく瀧壺の縁に立つ事が出来た

下段の滝は高さ30丈(約90.9m)余り、幅は約5-6間はあろう。濃い赤茶色の岩壁を這いながら落ちる水の音が、滝壺に落ち込む音より大きく聞こえる。岩壁の一部は角材を斜めに重ねたように見える。滝壺は幅20間奥行25間余り。水は硫黄分が含まれるためか浅い碧色で、主のような生き物が潜んでいそうな凄味を感じない。高さ2間ばかりの水煙が立ち昇っている。和三五郎が5年前に来た時、水の落ちる所に大きな平たい石があり、それに水が落ちてあたりはもうもうとした霧に包まれていたという。

滝壺の浅瀬に尺周りの流木があった。和三五郎が言った。「この頃は30日以来の晴れ続きですから水が大変細うござるが、雨降りの後に来るとこんな木や岩がドシドシ落ちてくるから、とても縁まで来られません」

40年余り前、称名滝の滝壺から龍が頭を出して天上しようとしているといって、土地の人たちがずいぶん騒いだ。その時、義賢という一人の山法師が、この龍を見て、一人で退治に出掛けた。近づいてみると、龍の頭に見えたのは大きな木の株で、さかさまに立っていたという。

和三五郎はしぶきが冷たいといってすぐに下流へ戻っていった。吉田が写生をしている間に、冷光は滝壺の周囲を歩いて測り図面を書いた。

Yoshidashoumyoudakii
《称名瀧》吉田博
『富山日報』明治42年9月2日3面

荷物を置いたところまで戻ると10時30分だった。犢首の小屋に行った春吉はまだ戻っていない。冷光は川原に寝転んで、1年前に出版した自著『立山案内』を取り出して読んだ。山岳会会員の大平晟(1865-1943)が3年前に滝壺を訪れたときの探検記が引用してあった。

今迄この文を読む際には何となくうら恥かしい心地のしたのも今は却々に愉快になつた、否唯読み下しては気が済む様にもなつたからドラ鳥渡大平君の口添えをしやうか

大平の文章にあらためて共感しながら、冷光は大平とは違った結論めいた感想をいだいた。「雄大なる我が称名瀧の偉観は需めて瀧壺まで入り込んで評すべきものではない、少なくとも瀧の飛沫の三町以外に避けて見るべき瀧である」。それには、立山登拝道の伏拝に望楼など建物を設置してはどうだろうか。冷光はそういう提案を綴った。

春吉が戻ったと、吉田が岩の上から声を掛けた。「春吉来れり春は来ぬ」。8月26日正午、3人はようやく食事にありつけたのである。大日岳頂上で握り飯を食べてから実に20時間ぶりの食事だった。

腹がいっぱいになると体のところどころが痛んだ。膝ががたがただ。4人は再び歩き出した。冷光は金剛杖を手に弱々しい姿だ。大きな岩が転がる称名川に沿って約1時間、そこが犢首の小屋だった。

やや広い平地で、屈まないと入れない無雑作な小屋が5-6棟立ち並んでいた。「この人ら、大日からゴザったのか、へえーっ」。屋根をこしらえていた樵(きこり)が手を止めて驚くように言った。称名滝の滝壺へ入った人は今年は冷光たちが初めてで、昨年がわずかに1人、一昨年は1人も来なかったという。

吉田は2-3日ここに滞在して滝を写生することにした。和三五郎が冷光に言った。「芦峅寺へ行くまでには日が暮れるからここで泊まって行かっしゃい」。冷光は疲れていたが、先々の予定があった。まだ午後2時である。芦峅寺まで4里だから、いますぐ出発すれば暗くなる前に着ける。春吉が仕事着のほころびを眺めながら言った「おらあ、どうあってもきょう帰らしてもらいたい」。和三五郎も「それでは俺も泊まるわけには行きませぬ」と言った。旅を急いだのは冷光であり春吉であり和三五郎だったのか。

結局、吉田を樵にたくして、3人が小屋を出発した。山葵谷(わさびだん)という所を越えて再び称名川に下り立つ。腰切りの深瀬を2度渡ると、雑穀谷との出合である。昨夜細首を下り馬乗りになって休んだあの右側の谷から流れ出る川だった。滝壺からこの出合まで、称名川には魚が棲まないが、雑穀谷にはイワナがいる。ここから下流の称名川にもイワナが釣れるという。

春吉はイワナを釣ってみせたいといった。煙草入れの中から不細工な針を出し、イタドリの幹を折って竿代わりにした。イワナは餌に寄っては来るが、針を知っているのか、すぐ逃げてしまう。春吉は20分余り粘ったが、結局釣れなかった。それからコウツラ・マルヤマ・マガリダニ・ナガツレ・タキイハ・エボシイワ・ダシノタン・コウクラ・オクアラタ二・ムカゼ(春吉の説明)などという所を通った。

藤橋まであと10町(約1090m)ほどの地点まできたとき、春吉が言った。「滝を見っしゃい、もう見納めじゃ」。振り返ると称名滝が小さく見えた。

17回に及んだ連載「大日嶽と稱名瀧」は、次の文章で締めくくられる。

回顧ると、今超して来た圓山の肩より其上段に夕雲を冠りたる称名瀧、アゝ今や吾が一行は汝の為めに壮絶快絶なる紀念を贏(か)ち得てこの二日の旅を終らんとす、さらば称名瀧、今後汝を憧がれ慕ひ来る者をして更に更に幸あらしめよ(大團圓)

称名滝を「汝」と二人称で呼び、「壮絶快絶」と書いたあたりからは、遭難寸前の状況に対する反省はみじんも感じられない。いかにも冷光らしい文学的な結末である。

夜の無謀な前進と急斜面でのビバークで遭難寸前まで追い込まれた探検は何とか無事に終わった。この山旅の最大のポイントはどこにあったのだろうか。思い返されるのは、日が暮れた乗木平で道を見失った場面である。春吉が小さな窪みを渡るのは危ないので引き返そうと提案した。しかし冷光は強引に窪みに突き進んでしまう。そこに倒木がたまたま天然の橋になっていた。ただ運が良かっただけなのかもしれない。

この倒木がなければ、4人はさらに道に迷っていたことだろう。乗木平の唯一の出入り口である細首にたどりつけず、ザクロ谷の深い谷に入り込んでいた可能性がある。ザクロ谷は両側に岩壁がそそり立ち、いったん入り込むと谷を横切ることは至難になる。夜は滑落して命を落とす危険があり、何としても回避しなければならない場所なのだ。和三五郎と春吉の2人はそれを知っていて警戒していた。あの際どい状況で案内人に従わない冷光にはあきれるしかない。春吉が言うようにいったん引き返し、時間を見て乗木平でビバークするのが最善の選択だったはずである。

冷光は7年後、「大日嶽と稱名瀧」と同じ内容を児童雑誌『少年』に書いている。題名は「山にさ迷うて一昼夜絶食す」である。[7]大正5年7月、甲武信岳(こぶしがたけ、標高2475m)で山岳遭難事故が起きた。東京帝国大学の学生らが道に迷い5人のうち4人が疲労死するという痛ましいもので、社会的に大きな注目を集めた。『少年』の編集者となっていた冷光は、これを受けて、自らが経験した危険な探検をいくらか冷静に綴った。

その中に次のような一節がある。

私も吉田画伯もその時は室堂に長い間滞在して山中生活に慣れてゐた、其上今が下山しやうとする途中であるから、正に凱旋将軍の意気であった

1か月間の立山接待所は大成功だった。さあ富山に帰るぞ―。凱旋という気分の高揚が、最後の2日間の探検で冷静さを失わせたのであろう。冷光の冷は、冷静さの冷だったはずなのだが。

『富山日報』明治42年8月26日2面には、次の2段の社告が出ている。

立山々頂の特派員と接待所
立山々頂特派員大井冷光は本月廿二日室堂出發黒部谷の上流を探検し二十四日温泉より室堂に帰り二十五日大日嶽の麓より路無き懸崖を下りて称名ケ瀧の瀧壺を探り同所に一泊二十六日芦峅寺に出て二十七日帰社する事に決したり
同人引揚後も室堂閉鎖まで我社の接待所は之を閉鎖せず[8]

社告が掲載された26日は、冷光が大摩の急斜面で悪戦苦闘していた日である。約4日遅れで紙面化されているから、冷光は22日朝にこの連絡を発信していたはずだ。ここには大日岳の麓を通るが山頂に立つとは書いていない。大日岳登山はあとから追加されたのである。そして27日に帰ると連絡した以上、どうしても27日には富山に着いていなければならないと考えたのであろう。

そして『富山日報』8月28日3面には次の短い記事が出ている

大井冷光帰る
社員大井冷光昨日午後天の一方より帰り来れり同人元気頗る旺盛

社告といいこの記事といい、一社員が主筆並みの扱いになってしまった。紙面ではちょうど「黒部谷より」が掲載されている。連載は、このあと19日間にわたって下界で執筆されることになる。

5日間の2つの探検を終えて、ひと夏の天界通信は終わった。天界通信のうち、主要部である「天の一方より」は雑多な記事の寄せ集めという感がぬぐえない。しかし、最後の「黒部谷から」「大日嶽と稱名瀧」の2編を加えたことによって価値ある山岳記録文学となったと評価してよかろう。やや物足りないが、加賀藩奥山廻りの道を宇治長次郎と旅したこと。この時代に他にない素麺滝~大日岳~乗木平~犢首の山行記録を生き生きと描いたこと。この2点が大きな成果である。

称名滝
《称 名 滝》 吉田 博
左下に「HY」のイニシャル
『少年』157号(大正5年10月)
立山室堂(水彩画)
《立山室堂》(水彩) 吉田 博
『お伽倶楽部』1巻2号(明治44年8月)

そしてもう一つ忘れてならないのは、約4週間にわたって洋画家吉田博と親交を深めたことであろう。吉田はすでに大家と呼ばれる域に達していたが、この室堂滞在を皮切りに本格的な山岳画に手を染めることになる。滞在中に描いた作品はいずれも高い評価を受ける。その制作現場に冷光が立ち会い、書き留めたことは評価に値する。ちなみに『富山日報』では明治42年9月2・3・4日3面の「大日嶽と稱名瀧」に、吉田のスケッチ「称名瀧」「素麺滝」「黒部谷ホテル」)の3点が挿絵として掲載されている。その後、『お伽倶楽部』1巻2号(明治44年8月)に水彩画「立山室堂」、『少年』157号(大正5年10月号)に水彩画「称名瀧」がいずれも白黒で掲載されたが、原画は確認されていない。[9]

冷光は下山後の明治42年9月、日本山岳会に入会する。しかし以後、同会の機関誌『山岳』に寄稿した形跡はまったくない。冷光の略歴に「登山家」と記述した例があるが、それは言いすぎである。冷光にとって登山は数ある趣味の一つにすぎない。趣味の広さこそ児童雑誌編集者として大切な資質となるのだ。

翌明治43年1月、冷光は「立山々中猛獣狩」というまたしても破天荒な企画を立てて『富山日報』紙面で展開するが、匹田鋭吉主筆の退陣もあって実行に移せなかった。[10]その年の夏は山に向かわず、久留島武彦たちの企画「お伽船」に参加して瀬戸内海を旅することになる。

その後は明治44年夏に富士登山、明治45年には「少年世界日本アルプス少年探検隊」を指揮して針ノ木越えと立山登山。大正4年には立山開山伝説の佐伯有頼銅像の制作に奔走することになるが、山との関係はこのあたりまでである。明治42年春の時点で、冷光にとって最大の関心事はすでに児童文化活動にあった。立山から下山した冷光は、1か月ほどして、新聞紙面に子ども欄を立ち上げる。それは久留島武彦が歩んだ道とよく似ている。

[1]現代の地図で計測すると、大谷と推測される地点から直線距離は室堂まで約3.5km、鏡石までは約2.0kmである。この奥大日岳南面は、尾根や谷が複雑に入り込み無数の山ひだがあり、現代においても登攀意欲をそぐような難所である。

[2]大日岳一帯での歴史的な遺物については不明な点が多い。立山町文化財調査報告書第18冊『芦峅寺室堂遺跡―立山信仰の考古学的研究―』(1994年)には次の記述がある。

1893年に発見された銅製錫杖頭は、奥大日岳の東麓にある俗称「行者窟」という岩窟から出土したといわれているが、詳細は明らかではない。この錫杖頭は鋳銅製であり、長さが17cm、丸みを帯びた心葉形の外輪に4個の爪をつけ、輪頂には蓮華坐宝瓶をすえる。輪内の蕨手は竜頭形をなし、その頭上には宝珠形をつける。柄の先端には蓮華台宝瓶がつき、柄の下部には竹の節状の緊縛を刻む。これに類似したものに栃木県輪王寺蔵の鳳首飾錫杖頭があり、その年代は8世紀末に比定されている(大和久1989)。このことから、大日岳の錫杖頭は8世紀末ないしは9世紀初めの作と考えられる。この錫杖頭が行者窟から発見されたとするならば、行者窟は奈良末・平安初期の頃からの籠山修行の場であったと推察できる。なお、この窟は1961年に発掘調査され、少量の須恵器・土師器が発見されたとあるが、その遺物の詳細、現在の所在は不明である。さらに、中大日岳の東稜線に七福園と呼ばれる場所があり、ここにある俗称「七福園岩屋」という岩窟からは、1934年に修業者が岩場に使用したと思われる鐙や刀子が、1961年には平安期の須恵器破片などが発見されている。なお、1961年発見の遺物はその詳細、所在が不明である。また、大日岳の山頂にある大日社堂跡からは、1934年に青磁の底部破片が発見されたが、これもその詳細・現在の所在は不明である。

橋本廣・佐伯邦夫『富山県山名録』p89、大日岳の項(佐藤武彦)によると、1961年の調査でアオモリトドマツの柱の根と、室町時代のものとみられる鉄釘が見つかり、御堂があったことが裏付けられている、という。

大日岳で発見された錫杖頭については現時点で1次史料が不明である。明治26年7月、高岡の河合磯太郎が温泉探査のために上市村の土肥平作ほか4人とともに入山し、頂上で錫杖頭を拾得した、とされる。その帰路天候悪化で道を見失い、3日3晩山中をさまよい、遭難しかかった。危ないところを芦峅の人に助けられ辛うじて下山した、という。その後、錫杖頭は蓮花寺(現在の高岡市)の河合家に保管されていたが、1963年7月、国重要文化財の指定を受け、現在は東京国立博物館に保管されている。

大日岳の錫杖頭が発見されたのは、冷光が「天界通信」を記した16年前のことだが「天界通信」には一切言及はない。明治時代には大日岳の錫杖頭が一般に知られていなかったのだろうか。

[3]大日岳の登頂時刻は「大日嶽と稱名瀧」(7)『富山日報』(明治42年9月6日3面)では「午後三時三十分」、7年後の「山にさ迷うて一昼夜絶食す」『少年』157号(大正5年10月)p87では「午後二時半」とある。後者では稜線には「午後一時頃」まで出たとある。

[4]「立山と画伯」『富山日報』明治43年8月18日1面。

[5]窪地は今でいうザクロ谷の上部にあたるのであろう。

[6]いまの称名平(標高970m)には皇子首という地名が残っているが、そのあたりが犢首にあたる。※現在の地図で計測すると、犢首と称名滝の滝壺との距離は約1.6キロである。冷光の文章では1里下流に犢首小屋というのはあまりに距離感が違う。

[7]『少年』157号、158号(大正5年10月号・11月号)。

[8]富山日報が立山室堂に開設した夏山臨時支局「立山接待所」は9月5日に閉所された。『富山日報』明治42年9月5日2面に、主筆の匹田鋭吉が書いたとみられる論壇「立山接待所 本日限り閉場」という記事があり、43日間の成果が短く総括されている。それによると、このシーズンの立山登山者数は、例年の2000人に対して約2倍に達し、「中流以上の人々の登山するもの著しく増加したりと聞く」。そして「此破天荒の壮挙に依りて大に立山を県外に紹介し得たるを認め、頗る愉快の感に堪へざるなり」と記されている。

[9]明治42年以降の大井冷光と吉田博の関係は今後の調査が待たれる。「高陵日誌」『江花文集』第5巻の大正2年12月6日の項に、東京の大井家にブリを贈ったお返しとして、吉田博の絵が贈られてきた旨が書かれている。

[10]『富山日報』主筆の匹田鋭吉は明治43年2月末、一身上の都合を理由に辞職した。その後、九州日報に移籍。ところが、明治43年11月15日に北陸タイムスに電撃移籍し再び富山に戻った。このことは冷光の進路選択にも微妙な影響を与えた可能性がある。匹田は大正2年10月12日、北陸タイムスを辞職、郷里の岐阜日日新聞の社長兼主筆となった。一連の移籍の背景には、大沢野開墾地汚職事件があり、匹田は明治44年3月6日に罰金50円の判決を受け、判決は確定しているが、ここでは詳述しない。(2013/09/22 17:05)

 

参考資料インデックス

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大井冷光「お伽旅行」(1910年)

(上)


五月二十九日の日曜日は僕の二週間目に得らるゝ尊い安息日でした。


(ところ)が此日曜日は恰度金澤へお伽話の久留島先生がお出でになると云ふ事が同地の新聞に見えましたので、僕はこの日金澤へ行かうかと思って居ました


すると土曜日の午後七時過ぎ、社から疲れ切って帰りますと、机の上には『日曜のお相手になりませう』と云ひ顔に来月號の少女世界が来て居ます、其上亜米利加に居る友人から贈った『リツルフォークス』と云ふ可愛い同地の少年雑誌迄が僕を待ち受けて居るではありませんか。


『さうだこれ丈讀んだから好い楽しみが出来る、雨も降りさうだし、朝(はや)くから眠い目をこすって金澤まで行くには及ぶまい、先生は何れ富山へも来て下さるんだ』とも思ひましたが、然しまてまて何分一年も遇はぬ久留島先生がすぐお隣國の金澤までおいでになって、同地の少年少女諸君に盛んに面白いお噺をなさるのにどうしてジッとして居られやう、『行かう行かう』と決心して直ちに準備に取掛かりました。


二十九日の朝五時三十五分發の汽車がもうちょっとで飛び出すと云ふ危ない所を乗り込んで、忙がし相な田圃や、倶利伽羅峠の緑の處々に綺麗な躑躅(つつじ)が喜こびの色を見せて居るの等眺め(なが)ら八時何分かに金澤へ着きますと、珍らしや百万石のお城下は一月遅れのお節句が近付いたと云ふので到る處に五月幟の矢車の音が致します、僕は小躍りして汽車を飛び下り急いで先生の宿なる澤谷旅館へ俥を走らせました。


澤谷旅館の奥二階、野田山を一目に見る立派な室に通されると床には同地の少女諸君がお贈りになった忘れな草やパンジーの眼も醒めさうな花籃がありますが大切な先生の姿が見えぬ『ハテナ……』と躊躇する間も無く、廊下の障子にノッソリとした先生の影『オヽ君、おどかした()、僕は今やっと起きた(ばか)りですよ』と例のニコニコした顔でお迎え下さるのです。


一年以来積った罪の無いお談話を二時間許りも致しますと、やがて同地の美以(メソジスト)教會から使ひの人が當日開かれる花の會にお招きに見えました、僕もお伴として行きますと、それは(さなが)ら花で出来たかとばかりに美しく會堂を飾り、その中に之れも花や蕾の様な少年少女諸君が一ぱいに集まって面白い對話演奏がありました、先生はおしまへに出てカリフォルニヤポッピーと云ふ花に縁因のある面白いお噺がありました。實に楽しい會合でしたが唯一つ苦しかったのは司會者からお噺が面白くても拍手したり、笑ったりする事はならぬと注意があった為めに最初生々して歓びの色に満たされて居た少年少女が何時か窮屈さうな顔をして了ったのでした。


會堂を出ると先生は『公園に行って見やうか』と仰有(おっしゃ)るので早速公園の坂を上りますと、折柄葉桜の蔭から現はれた二人の少女がニコニコして先生にお辞儀をするのです、多分昨日始めて先生のお噺を聞いた少女だらうにと僕は幾度かその優しい後姿を見返へりました。


※『富山日報』明治43年5月31日3面

(下)


公園の瓢箪池の周囲を銅像の前の方へブラブラ二人で話し乍ら歩きますと、やがてお昼食時、久留島先生は『君何處かで飯を食べやうか』と仰有るから、最寄にあった遠く卯辰山を見張す事のできる寄観亭と云ふ茶屋の二階に通りました。


食事をし乍らいろいろお話を聞きます中に先生は巌谷先生の御消息に就いて()う仰有るのです。


『君、巌谷先生の様な方が此間僕に忙がしくて困る、どうかして修養の出来る身になりたいものだ、若し自分の名をソックリ引受けて呉れる者があったら今にも譲って仕舞ふがナ』と云はれた、僕も巌谷先生さへ此言葉があるかと感心したよ、全く名を成すと云ふ事は訳もないものだが、その名を長く継続する事が至難な事さ、何か自分の意見を立てて二三年調べると何時か世ではその道の学者の様に祭り上げられた後の修養は中々六ケ敷いものさ、君等はまだ年齢が若い、今の中にやりたまへ』


公園を出て元来た道を廣坂通りの市會議事堂に入り其處に開かれたお伽講演会で先生は『(なさけ)の力太郎の空中飛行船』と云ふ一時間許りの面白いお話を為さいました、聴いて居た七百計りの青少年諸君や奥様お嬢様達が最初からをしまひまでもう笑い通し、さぞや笑ってお腹の空いた事だらうと思ひました。


それから再び先生のお宿へ引返へしますと、同地の新聞社の方や県立高等女学校の少女諸君がお訪ねになったので、少女世界愛読者會と学校の先生の御意見などに就いていろいろお話を聞きましたが、同女学校では少女對話や活人画は毎月の少女會でなさると云ふ事でした。が少年會はどうも富山程の勢力はなささうです。


やがて五時の汽車に帰へると約束をして置いた車屋が迎へに来ましたので、僕は淋しい思ひで先生とお訣別を致しましたが、然し先生は帰へりがけにも『屹度(きつと)来月は富山へ行きます、少年少女諸君には宜しく伝えて呉れ給へ』と仰有います。


もう大丈夫、一月と經たぬ中に我が少年少女諸君と共にこの地で先生のお話を聞く事になったのですから、僕は欣びに充ち満ちて帰りました。


※『富山日報』明治43年6月1日3面


【解説】久留島武彦と大井冷光の初期の関係を考察するうえで、最も重要な資料である。明治43年5月末、久留島武彦は石川県金澤市で講演した。冷光はわざわざ面会に行き1年ぶりに再会した。


1年前の初対面の際は巌谷小波もいたので、もともと思慕していた巌谷の方にに冷光の関心は注がれていたに違いない。しかし、このときは久留島と一対一で話し、久留島の考えに直接接する機会を得ている。「書き手」でなく「語り手」として児童文化運動を進める久留島への、冷光の傾斜が始まったのはこのころであろう。久留島の口から巌谷の話題が出るなど、久留島と巌谷の親密さもうかがい知れる。


生田葵著『お話の久留島先生』(1939年)によると、久留島が明治43年に結成した話術研究会「回字會」は、大井冷光との出会いがきっかけだったとされているが、まさにこの文章が書かれたころとみられる。

大井冷光「お伽多根萬記」(1910年)

(一)冷光


◎久留島氏今回の本縣下のお伽講演は十五日間前後四十回で、聴いた少年少女の数は實に二万二千人有餘名、教師や家庭の人々も亦千名以上に達した。


◎其大部分は富山市内及縣下東半部各地で新川三郡のの主なる町は殆んど亘り尽して最後に婦負郡の四方町と東砺波郡の福野町に迄及んだ。

◎福野町丈は校舎が狭く恵比寿座と云ふ芝居小屋で講演會を開かれたが其他は悉く學校舎であった、されば始終久留島氏の此行に同行した僕は、行く先々の學校で見學した處も多かったから、其間に得た深い印象の二三を記して見たい。

◎之れは久留島氏も云はれたが事だが一般に學校衛生の進歩して居るのに驚いた、まだ十年前僕等が高等科に通ふて居る頃は尚ほ盛んに學校で鼻垂れを多く見たものだ、教室を入るとプンと子供の日向臭い匂ひが鼻を突いたものだが、今度は此臭気を感じた學校は甚だ尠なかった。


◎入善町から泊町迄俥で行った途中古黒部と云ふ村を通ると小さな尋常校があった、恰度教師が全校児童を一室に集めて居る處を俥上から見た久留島氏はヒョイと立ち寄って不容易な場所で少時間の講演をなさった。見ると二百名餘りの百姓家の子供さん達許り、ずいぶんみじめな姿の児もあったが、然し例の臭気は甚だ薄い、其上鼻の下の汚れて居る児の尠ないのに感心した。


◎次には児童が標準語を巧みにあやつる事だ、『です』だの『であります』だの云ふ言葉を聴衆の前に立って如何にも無雑作に操って、名詞や動詞に方言を交へぬ處は記者等の小學時代を顧みて舌を巻かざるを得なかった唯残って居るのは母音教育の不備で、イとエ、ヒとヘの混用では児童は勿論教師でさへ多くは平気でやられるのは、記者が今自分で苦しんで居るせいか殊に著しく耳障りに感じた。


(二)冷光


◎待ちに待ったお伽講演會は愈よ開かれる、講堂に集まった幾百千の少年少女は、新来の久留島氏の姿を思ひ思ひに想像し、評し合って待ち構えて居る、やがて校長の案内で久留島氏が着席する、此時オルガンの音がブーと鳴って一同起立、又ブーと鳴って敬禮をする、もう其三度目のブーを聞かなくても宜しい、其學校の規律は承知した、少年少女諸君の訓練を拝見する事が出来た。


◎或る學校では講堂の板の間にヒシヒシ押し合って座って居たが、意外にも三節の敬禮が一糸乱れずに行はれた、又或る學校では一人一人立派な椅子に腰を掛けて居たが、ブーとなるとゴトゴーゴト、ガヤガヤガヤで終ったのもあった。


◎同時に又唱歌教育の主意を伝閑にされて居る學校であるか否かを知るに尼る、唱歌は発聲機や耳の発達を計るもの、音楽の観念をつけたらよいもの位に思って居る學校では必ず三節の敬禮に統一がない、規律の厳正が保たれない、あれで官祭祝日の式がどうして出来様かと感じられた位だ。


◎久留島氏は講演の前に唱歌を所望された。それは熱い間に待ち疲れて居る少年少女に発聲させて倦怠を慰する為であったらしい、……又同時に一方唱歌教育の重く見て居られる原因もあったらうが後で其れに就いての意見を聞く筈のをツイ聞き損ねたのは遺憾であった。


◎處がこの唱歌教育に就いては同氏先づ驚かれ、僕も亦尠からず意外に思ったのは一校の生徒が一度に合唱の出来る唱歌の無い學校の多かった事だ(君ケ代は勿論出来やうが)又三四年前迄は産に行はれた壮快な戦争唱歌の俄かに廃った事だ、或る高等科併置の學校で陸海軍に因んだどんな唱歌でも宜しいから聞きたいと所望すると、その級にもそんな唱歌の教へては居ないと云ふ返辞を受けた處さへあった。


(三)冷光


◎校訓校歌のある學校は魂の据った學校で、之れを有たない學校は一般にまだ訓育上の方針の纏まりの付かぬ學校のやうな感じがした、と同時に其學校の統一の有無を看取出来るやうでもあった、而し之れは僕丈の即断であるかも知れぬ。


◎統一と云へば、講演會や學芸會を見た中で随分この統一の出来ぬザワザワした會合があった、唱歌をやるにも講話をやるにも斡旋役・校長と弾奏者と講演者とがてんでに慌ててばかり居て立派に貼り出された順序書も一度毎にごたつく、果ては閉會際になると閉會の辞を云ふのか、唱歌をやるのかそれともオルガンで敬禮をするのか訳が解らずに終ったのもあった。


◎これは最初會を司る者、即ち開會中は絶対の権威を有する者を設けなかったからだ、其司會者は必ずしも校長でなくても宜しい、寧ろ少年にやらせるのがお伽講演會にふさはしからふ、又有益でもあらふ兎に角一旦之れを司會者とした以上は開會の辞から閉會迄すべての番組の進行は悉く司會者に一任せねばならぬ、教師は僅かに非常の場合の相談にのみ応ずる事にせねばならぬ。


◎此點で一番整って居たのは四方町校のお伽講演會であった一司會者は校長席の脇に構えた高等二年級の一少年であったが、談話、独唱、対話、合唱と十数番のプログラムと一度も滞りなく搬んだのには久留島氏も珍しく感服して居られた、尤も同校の唱歌教育は著しく進歩して居た。


◎其上此四方校で僕に取っては忘れられぬ記念を得た、他でもない尋常一年級の対話だ、題は『長者屋敷』大変に姿勢の正しい幼年の酉松が呉羽山の長者屋敷へ寶を掘りに行くと兎の旗を持った幼女の兎さんが出る、狼の旗を持った幼年の狼さんが出る。


◎最後に出たのは房々した糞の處にリボンの蝶々を結んで蝶々を結んで友仙メレンスの筒袖の上に雪白の前垂をした幼女、唯それ丈の姿で自然に出来上った可愛らしい神様、それが鈴を振る様な聲で『これ酉松』と呼ぶと今迄直立不動の姿勢の酉松が俄かに敬禮の姿勢を取ると云ふ出来栄え、嗚呼僕は片田舎と思って居た四方町で斯くまで整った対話を見せられるとは思はなかった、同時に世の対話に弊害を気遣ふ教育者には是非一度之を見せたいとも思った。それにしても拙作をあゝまで完全になさった諸先生の苦心を感謝したい。


(四)冷光


◎東水橋校はひどく老朽した校舎であったが、校長は十三年の勤続者と聞いて床しく、横綱梅ケ谷が其學校で育てられたと聞いて更に愉快に感られた、嗚呼唯の角力取り梅ケ谷、それが如何ばかりの教訓を同校児童に與て居るだらうか…此學校には校歌があった


◎滑川町高等校の応接室に入ると學校舎創立の際の功労者の大肖像が五六枚掲げられてあった、何れも同町の地位名望者らしい顔の中にタッタ一人十一二の花の如き少女の肖像が雑って居た、不審に思って訊ねると深井ハツエと、尋常四年級在學中病死した少女であったが、死際に豫て貯蓄して居た何円かの金を全部學校建築費の方へ寄附して呉れと遺言したものだと云ふ、活きた教訓は貴いと思った。


◎泊町校には広い學校園があった、分類が緻密で其上培養上の意匠も甘い、随分種類が沢山あったが僕は唯主任結城訓導の案内中、お辞儀草を指して「此草は生徒が家に持って帰って『お母さん、この草は云ふ事を聞きます』などゝ冗談の種にするさうで沢山持って帰ります」と云はれたのにが嬉しかった


◎『お母さん御覧、此草は私の云ふ事を聞きます、それお辞儀をするでせう』と子供が云ふと『なる程これは妙な草だねえ』と母が答へる『これは魔法の草ですよ』と云ふと『さうかい、魔法の草でもお前の吩咐けをすぐに聞くのが感心だねい』と答へる、そこで子供も成程これからお母さんの云ふ事も此のお辞儀草の如くにならねばならぬと意識する、此に至って正に教訓お伽噺の領分となる。


(五)冷光


◎上市校は立派な校舎であった、集まった少年少女は千六百餘名、このお伽講演會が同校同窓會上市部會の兄さん達の発起で開かれ、會の準備万端又兄さん達の尽力になったのだ。


◎影に廻っては万端卒業生の兄さん達が世話を焼き乍ら、開會中に在校の弟さん達が司會者と為って凡てを処理する、今日丈は學校の教師諸君もお客様だ、傍の見る目も心地よかった。


◎入善町の講演會又同町の三徳會と云ふ卒業生の兄さん達の発起で、會長米沢元健氏初め大角、田原等幹事諸君の斡旋は申分ない位、尤も此校では在校の少年少女は凡て教師と一所にお客様だったが、然し聞けば開會の辞を陳べられた老校長は實に前記三徳會員諸氏を薫陶した人ださうな。


◎東岩瀬は二回目の婦人會は珍らしい盛會であった、何んでも集った母姉諸君實に五百名、殊にも杖に縋った寺参詣さへ六ケ敷さうなお婆さんが中々に尠くなかった、そして講師の話が大変に解る、笑ふ、泣く、首肯く。


◎どうしてこんなに進歩したものかと學校の教師に尋ねたら、學校の學芸會を開く時分に出席を奨励した結果、今では會毎に児童数の八分以上は出席するとの事、如何な富山市の諸學校でも此の真似は出来まい。


◎富山で沢山の講演があった中で學校と家庭とが會し合っての集會は五番町のはなし會と南田町校の講和會前者は家庭側の主催、後者は學校の発起で校下の援助、双方共、唯のお伽噺を聴く丈の會に終わらなかったのは愉快だった。


(六)冷光


◎久留島氏のお伽講演は必ず何等かの暗示を含んで居た『だから悪いことは出来ない』とか『此點が教訓になるぞ』など云ふ説明こそ無かったが聴いた後で興味以外に必ず何か頭脳に残された。


◎その残り様が如何にも穏やかでほんのりと来る、入浴後のボッとした心地となる、校長から命令的の紹介を固たな々眼を角にして迎えた児でも同氏の講演の五分と進まぬ中にもう、講師に釣り込まれて仕舞って居る、講師に同化して居る、講師又児童に同化されてしまって居る。


◎或る校長が云はれた、富山市の児童の乱酔状態にある者、郡部の児童の半睡状態にある者、何れも骨の折れるが半睡状態の方は幾分か御〓易いとの事久留島氏東京の中央の小學児童と田舎の小學児童とを比較して殊に其感が深いと云はれた。


◎然し僕の實験した處では富山市内の初年級がお伽噺を聞いたのと、古黒部の小學児童が之を聞いたのと彼等が感興に何等相異の點が無いと思った、ト同時に乱酔も半睡も教師が之を感ずると否とに於て児童の幸と不幸のわかれ目になると思った。


◎嗚呼學校と家庭との連鎖の事業、國民性涵養の最好手段、我がお伽講演上の唯一の要點は、児童と同化するの外ないと知った。(完)


※『富山日報』明治43年7月26日~31日1面、6回連載。


【解説】富山お伽倶楽部の発会式が明治43年7月3日に開かれた。式に招かれた東京のお伽倶楽部の主宰者、久留島武彦はこれに合わせて約2週間、富山県内各地を巡回講演した。その同行記が「お伽多根萬記」である。これによると、久留島の講演は計40回、のべ22000人の少年少女が集まったという。1日に2-3回の講演で1回平均で550人ということになる。


同行記は、久留島の行動を記したものではなく、冷光自らが取材を通して感じたことを綴っている。主な関心は、子供をめぐって学校と家庭がどうあるべきかであった。久留島と会話をかわすなかで、唱歌教育や校歌校訓の意義などについて思索を深めたことがうかがえる。


最後の一文で、お伽倶楽部の事業目的を「學校と家庭との連鎖」と記している。当然のことながら、久留島のお伽倶楽部で謳われていた「児童のため家庭および学校の補助機関となって清新の趣味と知識を与える」という趣旨と符合する。そして、久留島の講演に同行した成果として、子供を前にして講演するとき最も重要なポイントは「児童と同化する」ことだと自分に言い聞かせている。冷光はこのときたどり着いた児童本位の考え方を終生貫くことになる。


吉田博立山関連絵画批評(1909年)

玉太郎をモデルにしたる精華

公設展覧会に於ける吉田画伯出品の其一

在東都俊英の青年画家野口安太郎の私信の一節なりとて高田浩雲君より寄せられたるものなり

||吉田博氏の事は御通知に依て初めて知り申候、『精華』は御存じの如く場中有数の大作に候、最初この絵を見し時は、兎に角図様(丁度サロンの中にでも有りそうな)の珍らしと云ふ感念に心を奪はれ候。其次は一種の興味を持って見申候、背影の巌石が立山のものにして、あの美人が八清楼の玉太郎と聞き故國に対する懐かしみが画面につき纏ひ申候。然しそは単に即興のインスピレーションなれば之を遮断して吾人の眼に映したる直感を述べ候。

題から考ふれば、文明が野蛮を征服したると云ふ意味を具象したものならん。然らば彼の女性は美であると共に智を包蔵したる威を示し居るもの也。垂髪裸身、巌角に正居してして伸せる右手や屹として結べる唇辺には其気持がよく顕はれ居候。然も凝視せる曲線やは円満なる女性美を表現して又遺憾なし。

前に伏せる三頭の獅子は尾を垂れ頭を挙げ心より畏服して懐かしげなる状態もよく感ぜらる、要するに気持に於て充分に巧を成したるものと云って差閊無之候。獅子三頭に対する処女、それを助くる巌石の配置等、コンポジションに於ても亦欠点とすべき處之れなき様見受けられ候。唯其色彩の調子は什麼か?と存せられ候。甚だ漠然たるが如きも、ローランス(佛國の画家)に私叔せる不折、孟郎氏等が好んで用ゐる赭黄色と暗灰色の調和が何となく画題にそぐわず、暗といふ程でもなく一種沈鬱の気に打たるる如き感を起させ候。つまり西洋婦人の如く白身にあらず(黄色人種のモデルの勢で)一体が黄勝なる上に、獅子三頭共褐黄色にして地面及前面の巌石は稍々藍を加味したる淡灰色、上部の左方に當る洞窟は殆んど漆黒にして、多くの快感を與ふる赤色や緑色の非らざるやにも存ぜられ候。緑色及び紅色は明るく且軽き色なれば、余り多くては荘重を欠くと雖も、此絵にては色彩の配合上、内容に伴ふ荘重の気が磅?(ぼうはく)する様な事になりしならんと存ぜられ候。亦局部としては、獅子は毛描の足らざる勢が、何處となく、ペロリとして面部なども、壮獅子は肥え過ぎたる如く、洞窟の暗黒に過ぎたるが、説明が足りん様で。且つ画面に陰気を醸す何よりの原因かと存ぜられ候然し前方の巌や、少女のデッサとは實に慥なるものにて丸みの工合など、何とも云へぬ程よく出来居り候。女も一体に痩姿で容貌も其の通りとすれば、實に批難のなき好モデルと存ぜられ候。

西洋画科などで使って居るのを見ると、四股の工合あれ程に円満に曲線美を為せるは殆んど之れ無く候。唯顔面の髪の生え際に艶(意気)なところを見受け候が、モデルとして使用する以上は、つゑ拘束はその邊まで無意識のうちに及ぶものと存じ候。顔の引締まって居るのは何よりあの絵に品を持たせ居り候。本人は富山での第一流といふもにや。ーーあの絵は配色に於て三分の失敗なるべきも、兎に角非常の大作にして中々観客に吸い居り候。

※『富山日報』明治42年11月6日3面。

雲表及千古の雪

公設展覧会に於ける吉田画伯出品の其二

これも在東京青年画家野口安太郎の私信の一節なりとて浩雲君より寄せられたるもの

猶ほ同氏の『雲表』及び『千古の雪』は共に立山に於ての寫生との事、『千古の雪』は構図から云ひは殆んど批難なき好き作品と存ぜられ候、彼の飛びゆく雲の如きは實に入神の技と思はるゝ程軽く出来居候、只巓の紫が少々勝過ぎるが如く思はるゝが然しそれとても登山に経験なき事なれば實際見たら意得する事んらんが、遠山の紫は空気を距てる事なれば、かく思はれる事なるべく約拾余丁を離れて見たる場合にも果して然るか、其邊は小生の経験の貧弱に帰する所以なるべく候。

『雲表』にいたっては善くもあれだけに水彩にて描現されしものと感嘆する許りに候。近影抔は實に申分なき出来に候。雲海を距て遠く浮びたるは何山か、此の間の距離などは誠によくとれ居り候、中影なる谷谷が上より見下したとしては聊か近きに(鮮明に)過ぎる様にも思はれ候へども、兎に角見てゐては甚だ気持の善き画に候。

羽化登仙とまでは行かずとも、座して神韻〓〓の大気に浴する心地致候、あれは山中にて仕上げられしものか、将たスケッチから引延ばされしものか、其何れにしても立山を紹介して、あれ程迄成功せられしは、我等越中の産として充分其好意を謝すべくと存じ候。

世間にては『精華』よりは『雲表』が評判がよろしき様見受けられ候。(十月廿五日)

※『富山日報』明治42年11月7日3面。

 

 

 

剱岳初登頂記事と〔午山生〕

物語「点の記」と違う史実とは

明治40年夏、前人未到といわれた剱岳(標高2999m)に陸地測量部が挑んだ。地図を完成させるための三角点設置が目的である。一行は困難を乗り越えて山頂に達する。そこには行者のものとみられる錫杖頭と剣があった。新田次郎の小説『劒岳・点の記』は、2009年に映画化され、登山愛好家たちを今なお魅了し続けている。

この物語が紡ぎ出された発端は、初登頂をいち早く報じた1本の新聞記事である。「劍山攀登冒険譚」(つるぎざんはんとぼうけんものがたり)という。書いたのは『富山日報』の記者〔午山生〕だ。記事は誤まりが含まれるとしてさまざまな謎や疑問を生む原因になった。が、一方でこの記事がなければ剱岳測量の偉業は歴史に埋もれていたかもしれないと言われている。

剱岳測量をめぐるさまざまな文章をひと通り読んで気になって仕方がないことがあった。新田次郎を含め多くの研究者がこれまでフルネームを表記してこなかった記者〔午山生〕とはいったい何者かである。

富山日報記者でのちに児童雑誌編集者となる大井冷光(おおい・れいこう、1885-1921 )を調べながら、『富山日報』の明治40年前後の紙面に目を通してきた。〔午山生〕という署名は剱岳の記事以外にわずか4件が見つかったのみである。これまでのところ「藤田午山」(ふじた・ござん)がそうではないかと推定されるが、いまだ結論を下すには至っていない。富山日報の紙面は膨大であり、このままでは結論がいつ出るのか分からないので、ここで中間報告をしておく。以下は、剱岳測量という近代日本登山史で最も注目を集めた話題を、新聞記者の視点からとらえ直す試みでもある。

演出のための脇役牛山記者

〔午山生〕といってもピンと来ない人もいるだろう。小説や映画でどのように描かれたか振り返っておこう。

1977年(昭和52年)の小説「劒岳・点の記」では、富山日報の牛山記者として登場する。牛山記者は明治40年4月、富山県庁を挨拶に訪れた柴崎芳太郎(しばざき・よしたろう、1876-1938)を帰りぎわに呼び止め、山岳会との剱岳登山競争をどう思うか質問する。そして新聞は公平だけれど個人的には柴崎に勝ってほしいと話す。そして物語の終盤、初登頂を終えて立山温泉に下山した柴崎をたずね、30分ほど取材して、翌朝帰る。記事の内容は小説では触れられていない。小説では抑制がきいた人物として描かれている。

映画になると牛山記者には「牛山明」というフルネームが与えられ、柴崎の内に潜む競争心を煽るような質問をする場面が描かれる。そして登頂後の富山日報は、「初登頂ではなかった測量隊」「四等三角点では記録は残らず」と報じたことになっている。


『富山日報』明治40年8月5日3面

『富山日報』明治40年8月5日3面

陸地測量部と山岳会の競争という設定は、新田次郎によるあくまでも創作である。これを演出するための少し嫌味な脇役が牛山記者なのである。映画では、富山日報の記事があたかも本物のように映し出される。それは全くのフィクションで、その記事の内容は柴崎と参謀本部の意識の違いを鮮明にするため都合のいいように綴られている。

史実の〔午山生〕は、立山温泉で取材した点を除いて、牛山記者とは大きくかけ離れている。錫杖頭が見つかったからと言って、測量隊登頂の価値が下がるようなマイナスイメージの記事は書いていないし、四等三角点が記録に残らないという否定的な見方は一切書いていない。

映画の最終盤、土砂降りの中で作業をしている柴崎と、傘を差しのべた牛山明記者との間にこんな会話がある。

「もうすぐ測量も終わりですね……。剱岳に登頂されたことは柴崎さんにとって意味があったんでしょうか」
「何がいいたいんだ」
「結果的には初登頂ではなかった……そうですね」

相手の声が聞きとりにくいほどの激しい雨。そんななかで機微に触れるようなインタビューをする記者が本当にいたとしたら、その配慮のなさには呆れるしかない。〔午山生〕の記事を読むかぎり、錫杖頭が見つかったことに対する測量隊の驚きや、いわゆる冷遇問題に対する柴崎の心情を、〔午山生〕は十分に理解していた。配慮に欠ける牛山明記者という架空の人物と、〔午山生〕の人物像は似ても似つかぬと言ってよかろう。しかし、小説と映画にあまりにもリアリティがあるため、研究者の間でさえ〔午山生〕を「牛山記者」と混同している例も見受けられる。

昭和41年に松村寿という研究者は、〔午山生〕の記事が聞き書きなので柴崎による正確な登山記ではないと指摘した上でこう記している。「だが、この地方紙の記事がもしなかったとしたならば、明治四十年の剣岳登攀の事蹟は今日もまだ人目につかず埋もれていたかもしれない。まことにこの記事は人跡未踏とされた剣岳の登攀の模様をはじめて明らかにした点で記念さるべき文献といえよう」。[1]陸地測量部に残る公文書だけでは剱岳初登頂の歴史は埋もれたままになっていた、〔午山生〕記事があったからこそ剱岳初登頂の様子を記録できたのだと言っているのである。

〔午山生〕が記者をしていたころの富山には、井上江花(いのうえ・こうか、1871-1927)という新聞記者がいた。彼は大正7年、米騒動の記事を全国に発信した。それは2006年のテレビ放送で紹介されてあらためて光が当たった。それに比べて〔午山生〕はどうか。歴史的な記事を書いた記者の名が正確に記されないまま百年もたつ。

〔午山生〕が書いた記事「劍山攀登冒険譚」は、『富山日報』明治40年8月5日3面と翌6日3面に掲載された。5日も6日も(上)となっていて誤植と見られるが、中身を読むと(上)(下)に分けるのは実は不自然である。2日間に分けて掲載したのはなぜか。後述するが、それは錫杖頭と鉄剣のスケッチがスペースを取ったためやむなしの判断であったように思われる。

(上)(下)を合わせて約3000字の文章は、前文と本文と追記の3つで構成されている。前文(約300字)はその末尾に(午山生)と署名があり、取材の経緯が書かれている。本文(約2450字)は柴崎からの聞き書きで柴崎を主語にして綴られている。そして追記(約250字)は「午山生云ふ」の書き出しで、取材後の感想が記されている。前文と本文は明らかに〔午山生〕が書いていると思われるが、追記は別のデスクのような記者が〔午山生〕から聞いて書いた可能性もある。というのは、自分の書く文章に「午山生云ふ」などとはふつう書かないからだ。

「越中劍岳先登記」の曖昧な転載

「劍山攀登冒険譚」は転載が繰り返された。その不完全さは、問題の本質からはすこし離れるが、きちんと認識しておく必要がある。

インターネットで「越中劍岳先登記」と検索すると、青空文庫で「劍山攀登冒険譚」の本文部分のみをすぐに読むことができる。著者が柴崎芳太郎であるかのようになっているが、それは誤りである。正確には(K、K、)の署名がある最初の段落を山岳会(明治42年6月から日本山岳会)の小島烏水が記し、それに続く文章は〔午山生〕が柴崎から聞いて書いた文だ。だから「談」を付して柴崎芳太郎談とするのが正しい。柴崎本人の文章ならもっと難解になっていただろう。「劍山攀登冒険譚」にあった前文と追記は省略されている。前文で柴崎を「沈着な人なり」と紹介し、追記で「死を賭して深山嶮岳を跋渉しつゝある人々」と書いた〔午山生〕の深い思いは、消されてしまったのである。原本の転載を2次史料とすると、青空文庫版「越中劍岳先登記」は、転載の転載の転載すなわち4次史料に相当する。

3次史料、2次史料と順に遡って、転載の正確さをみていこう。

まず3次史料。1983年の山崎安治編『日本登山記録大成7』では、「越中劍岳先登記」と題して転載され、著者は〔午山生〕と正確に記されている。〔午山生〕記事の前文・本文・追記の3点セットがきちん入っている。解説では(K、K、)の署名は小島烏水(久太)と言及されている。そこまでは正確なのだが、前文中「沈着な人なり」のあとに(午山生)と署名を入れなければならないのに省いてしまった。これではどこからどこまでが〔午山生〕の文章か判別が難しい。「立山の高さは不明」や「双眼鏡、旗、鍋」という2次史料段階での間違いをいくつか訂正できたが、「母指」や「四尺五尺」という間違いはそのまま引き継いでしまった。

2003年の近藤信行編『山の旅 明治・大正篇』は青空文庫の底本となった3次史料である。2次史料のうち前文と追記を省略して、あたかも柴崎芳太郎の文章として取り上げている。読めばそれが談話形式で分かるからそうしたのかもしれないが、こうした転載はやはり紛らわしい。繰り返しになるが「越中劍岳先登記」は小島烏水と〔午山生〕の2人の文章が合体したものであって、柴崎の文章ではない。その出典を『山岳』第5年第1号としているのは明らかな間違いで第3年第3号が正しい。そして、2次史料段階での間違いをほとんどそのまま引き継いだためもはや救いようのない状況になってしまった。

次に、原文の転載すなわち2次史料となった「越中劍岳先登記」についてみていこう。

『山岳』小島烏水の転記ミス

「劍山攀登冒険譚」が山岳会機関紙『山岳』に「越中劍岳先登記」と表題を改めて転載されたのは、新聞掲載から1年2か月余りの後である。明治41年10月25日発行の『山岳』第3年第3号の雑録のなかの2本目の話題であった。ちなみに1本目は「劍ケ峰の最初登山者」で高頭式が担当しているが、これも『風俗画報』第350号から転載して剱岳の話題を取り上げている。2本目の「越中劍岳先登記」は小島烏水が担当したらしく、脱字と漢字表記の違い、ルビの有無を除き、一見ほぼ完全に転載されているように見える。錫丈頭の実物大の線画も、手書きで書き写されている。

山岳会の創立時の中心メンバーだった小島烏水が、1年2か月余り後とやや遅かったが、〔午山生〕の記事に「登山史上特筆する価値」を見いだし、全文転載までしたのは見識だったといえよう。しかし、この転載にはお粗末なミスがいくつもあった。まず、小島による注釈記事をそのまま引用しよう。

越中の劍岳は、古来全く人跡未到の劍山として信ぜられ、今や足跡殆んど遍かられんとする日本アルプスにも、この山ばかりは、何人も手を著け得ざるものとして(事實然らざりしは前項を見るべし)愛山家の間に功名の目標となれるが如き感ありしに、會員田部隆次氏は、『劍山登攀冒険談』なる、昨四十年七月末『富山日報』に出てたる切抜を郵送せられ、且つ『先日山岳會第一大會に列席して諸先輩の講演、殊に志村氏の日本アルプスの話など、承はり、頗る面白く感動仕候、その中に、劍山登り不可能の話有之候に就きて、思ひ出し候間、御参考迄に別紙切抜き送り候、……猶小生の其後、富山縣廰の社寺課長より聞く所に據れば、芦峅寺にては、劍山の道案内を知れる者有之候へ共秘傳として、漫に人に傳へず、極めて高価の案内料を貪りて、稀に道案内をなせしことあるのみなりしが、今回の事にて、全く其株を奪はれたる事になりしとか申候、此記事が動機となりて、今年より多くの登山者を出すを得ば、幸之に過ぎずと存候、と言へる書翰を附して編輯者まで送付せられたり、(其後辻本満丸氏も、この記事の謄寫を、他より獲て送付せられたり)聞く所によれば、『富山日報』のみならず、同縣下の新聞にも大概出でたる由にて、劍岳を劍山と、新聞屋の無法書きは、白峯を白根、八ヶ岳を八ヶ峯などゝいふ筆法と同じく、可笑しく感ぜらるれど、ともかくも登山史上特筆する價値あれば、左に全文を掲ぐ(K、K、)

※『山岳』第3年第3号(明治41年10月25日発行)p113~118

 

 


『富山日報』明治40年8月6日3面

『富山日報』明治40年8月6日3面

 

「攀登」「登攀」と「譚」「談」の違いは些細だが、問題は田部隆次(田部重治の兄)から送られてきた記事が7月末『富山日報』掲載という記述だ。〔午山生〕の記事に柴崎に取材した日が7月31日と書かれているのだから、どうみても7月末掲載はありえない。無頓着なミスである。田部の書簡の部分を示す閉じ括弧も脱落している。もう1つの問題は、劍山という表記は新聞屋の無法書きでおかしいという指摘である。「劍山攀登冒険譚」を「越中劍岳先登記」と改めたのは、劍山という表記がおかしいと思ったのであろう。表記の問題はこの時点で山好きの単なるこだわりにすぎない。当時の富山県内では、「劍嶽」「劍峰」「劍山」が併用されていて、一般に「劍山」がよく使われていたらしい。新聞や富山県統計書などでも「劍山」と表記されている。測量官である柴崎芳太郎も「劔山」「劍嶽」を併用している。のちに小島は富山日報の記者と手紙のやり取りをする関係になったらしく、『富山日報』明治43年8月15日1面に手紙をそのまま短信にした記事があるくらいだが、この明治40年の時点ではまだ富山県内での一般的な山名表記を知らなかったのであろう。

この小島の注釈記事で面白い話題は、富山県庁の社寺課長が剱岳への案内は秘伝で料金も高いという話を、田部に対して話したことである。当時の社寺課長は石坂豊一で、2年後の明治42年に立山奉幣使を務める人物であり、山案内人である仲語に対してかなり厳しい発言をしている。これは大井冷光の「天界通信」に詳しい。

以下に原文と転載の違いを記す。表題「劍山攀登冒険譚(上)(参謀本部陸地測量官の談)」が省略されていることのほか、些細なものが多いが、看過できないミスもある。「母指との間」では意味が通じず、「綱」と「鍋」では笑いを誘うほどの違いである。そして「劍山」と書くべきところを「立山」と転記ミスしたことで、文章の意味が通じなくなった。当時の立山には雄山頂上直下の五の越に一等三角点が既にあったので、立山の標高はおおむね分かっていた。立山の高さを不明だと柴崎が言うはずがない。ここまでミスを連発したのでは、プロの編集者の仕事としては認められないといったら言い過ぎか。転載の転載をしているインターネットの記事は、少なくとも初歩的ミスについて注釈をつけて転載するべきである。 [2]

〔午山生〕記事の原文と転載
「劍山攀登冒険譚」(原文)
『富山日報』明治40年8月5・6日
「越中劍岳先登記」(転載)
『山岳』第3年第3号(明治41年10月25日)
劍山攀登冒険譚 劍山登攀冒険談
危險な山ですから 危險山ですから
同山に三角測量標を建設せざるべからざる 同山に三角測點を設けざるべからざる
登山を試みました 登攀を試みました
渡れ無いだらうと 渡れ無いだらと
其の雪道を通過すると 其の雪を通過すると
母指と食指の間の様な 母指との間の様な
双眼鏡、旗、綱の外は一切携帯せず 双眼鏡、旗、鍋の外は一切携帯せず
むかし何年の時代か四尺四方位の建物でもありましたものか むかし何時の時代か四尺五尺位の建物でもありましたものか
劍を植てたるが如く 劍を立てたるが如く
劍山の高さは不明であります、立山に居りて見れは劍山の方が高く見えますけれど 立山の高さは不明であります、立山に居りて見れば劍山の方が高く見えますけれど
他に転じて帰来らざるには困居れりとなり 他に転じて帰らざるには困り居れりとなり
劍山の頂上で発見せし槍身 劍山の頂下で発見せし槍身

陸地測量部内で起きた波紋

〔午山生〕の記事を『山岳』より早く転載した雑誌がある。陸地測量部の部内誌『三五會會報』第17号である。発行日は、記事掲載から2か月後の明治40年10月22日である。「雑録」として転載していて、表題はなく、冒頭には「富山縣下へ出張の某測量手より同縣下に於て發行する新聞紙より秡萃して送られたれば参考の爲め左に之を記載す(参謀本部陸地測量官の談)」とある。以下は本文で、ひらがなでなくカタカナ交じりで転載されている。

〔午山生〕記事の原文と転載
「劍山攀登冒険譚」(原文)
『富山日報』明治40年8月5・6日
『三五會會報』第17号雑録(転載)
明治40年10月22日
技術上是非劍山に二等測量標の建設を必要 技術上是非劍山ニ三等測量標ノ建設ヲ必要
其爲めに今日では同地方の地図は全く空虚になって居る 其爲メニ今日デハ同地方ノ配點ハ全ク空虚ニナッテ居ル
空氣の乾燥せる山頂にありし爲めか左程深錆とも見え無い 空氣ノ乾燥セル山頂セル山頂ニアリシガ左程深錆トモ見無エイ
二等三角点を設けんとせしも 三等三角點を設ケントセシモ

こちらの転載はほぼ完全のように見えるが、柴崎が所属した専門部署の部内誌というだけあって、明らかに誤りという部分を修正して転載している。剱岳の三角点は2等でなく3等を目指していたので、これは〔午山生〕の記事が間違っていた。「地図は全く空虚」という記述が「配點ハ全ク空虚」と変更されている。単なるミスか作為的なのかは、専門家の判断をまちたい。『三五會會報』の転載はおおむね正確であるといえよう。しかし、この雑誌はあくまでも部内にとどまるものであったから、一般の山岳愛好家の目に触れることはなかったと思われる。だからこそ、1年2か月を経て小島烏水が『山岳』に転載したのである。

『三五會會報』の転載で注目されるのは、それが部内で思わぬ波紋を広げたらしいことである。
柴崎芳太郎が剱岳西面・西大谷の観測を終えたのが10月12日、いつ帰京したかは不明だが、寄り道をしなければおそらく帰京してから『三五會會報』が発行されたことになる。部内で起きた波紋とは、

(1)新聞記事になったことの報告の遅れ
(2)〔午山生〕記事の誤り
(3)立山温泉の冷遇問題への対応

という3点の論議に要約される。冷遇問題というのは、柴崎たちが立山温泉に戻った7月30日、宿泊が満員で狭い部屋に押し込められ、県庁の役人が使っている部屋の一部を使わせてほしいと頼みに行ったところ断られた一件をいうが、ここでは深入りしない。

波紋があったとする根拠は、翌明治41年3月に発行された『三五會會報』第21号の柴崎『出張地ニ於ケル見聞ニ就テ』という文章である。これは明治41年1月15日に開かれた三五會会合で、柴崎が行った報告の採録だ。この文章は、測量業務そのものは簡潔な内容で、大半は〔午山生〕記事についての弁明に割かれている。〔午山生〕に関して重要な部分のみを引用する。

偖テ剱山ニ登山セシ事ガ其地方ノ風評トナリ為メニ新聞記者三名ノ来訪ヲ受ケ其当時ノ事ヲ御話致シマシタ所其レガ富山日報ヤ高岡新聞等ノ記事ニ載リ又其記事ガ我三五會々報ニマデ転載ニナリタル事ハ私ノ最モ光栄且ツ赤面ノ至リデアリマス、就キマシテハ其当時ノ事ヲ何カ話スル様ニトノ御仰デアリマスケレドモ己ニ其当時ノ記事ニ於テ委細申述ベアルガ故ニ其レ以上ノ事ハ私ノ力ヲ以テハ御話申上ル事ハ出来マセン
然シナガラ是非申上度事ガ二ツアリ舛
其ノ一ハ即チ如斯好時機ヲ利用シテ我々測量掛ハ如何ニ艱苦欠乏ニ堪ヘ献身的国家事業ニ従事シテ居ルカヲ一般地方人ニ知ラシメタイト思ヒマシタガ奈何セン私ハ未ダ経験モナク又自分ノ意思ヲ充分ニ発表スル事ノ出来ヌ愚者ナルガ為ニ遺憾ナガラ自分ノ十分一モ新聞紙上ニ書キ載セル事ノ出来ナカッタノハ實ニ残念デアリマシタ

※『三五會會報』第21号(明治41年3月) [3]※偖テ さて

この記述の後は、立山温泉での冷遇問題の弁明が延々と続く。それは記事全体の約半分を占め、〔午山生〕記事をめぐって起きた内部論議の根深さを物語るものである。前述の研究家松村寿は、柴崎にとって新聞記者の来訪は全くの意表外のことで、職務上剱岳に登ったことがニュースになることは思いもよらないことだった、と読み解く。マスコミ対応に不慣れだったということらしい。また、柴崎の長男である柴崎芳博によると、「立山温泉における冷遇問題の経緯を詳しく記者に説明したところ是非委細を新聞紙上に掲載して彼等(県庁の役人)を戒めざるべからずと云われたが、かかることを自分から発言するのも当り障りがあるとして自分から記者に依頼して第三者の立場から書いて貰ってあのような記事になった」と柴崎は書いているという。[4]

それから半年後、明治41年9月20日発行の『三五會會報』第25号には、もう一つの物議を醸す記事が出ている。ずばり「疑問」と題した短い記事で、富山日報の大井冷光が編集した『立山案内』(明治41年7月10日発行)の内容にかかわる指摘である。「陸地測量部の報告によれば」と書いて未公表であるはずの立山・剱岳・白山の標高が書いてある、つまり情報漏えいしたというのである。「疑問」を提起した「記者」は編集者の川北朝鄰(かわきた・ともちか、1840-1919)と見られている。立山・剣岳の測量は、柴崎が明治40年に取り組んだ仕事であったから、当然柴崎に疑念の目が向けられたことだろう。[5]大井冷光は、明治41年7月ごろに高岡新報から富山日報に移籍したばかりで、〔午山生〕と同僚だったことになる。

少し気になるのは、そもそも〔午山生〕の記事の抜粋を送った某測量手は誰かである。これを判断する材料は全くないが、柴崎本人であると考えることもできないわけではない。

〔午山生〕の記事の誤りは明治40年と41年の時点では陸地測量部内の議論にとどまっていたが、明治42年7月に民間人グループが剱岳を登頂を果たし、その後、発表された登山記によって情勢は大きく変わる。明治43年3月に発行された『山岳』第5年第1号の吉田孫四郎「越中劒岳」がそれである。

吉田は「越中劍岳先登記」を読み、明治42年春に山岳会に入会したすぐあと、東京で開かれた山岳会大会に参加しおそらく錫杖頭の実物を見た。そして7月24日、7人の一行でついに剱岳登頂(第2登)を果たす。吉田の登山記はその8か月後、『山岳』に掲載された。

茲に稍依頼すべき唯一の記録は「山岳」第三年第二号所載の「劍岳先登記」である、即ち参謀本部陸地測量部員が去る四十年夏、非常なる危難を冒し、職務に殉するの覚悟を以て登攀して、遂に目的を果し、尚ほ幾世の昔何人の所持したるものとも知られざる、鎗身一片と錫杖の頭部とを、頂上に於て発見したりとの談片の概要である、されど筆者の不熟練なりし為めか此記事を仔細に熟読するに随ひ、多くの疑問生じ来りて、只一縷一の望みは之に掲げたれたる、功労ある人夫の一名なりとも、傭ひ得ばやと云にが繋れた、登山準備の主力は先づ此方面に向けらる

※吉田孫四郎「越中劒岳」『山岳』第5年第1号(明治43年3月)


Tsurugidake1909sokuryouhyo

剱岳山頂に建てられた測量標
明治42年7月24日、石崎光瑤撮影(部分)
左から河合良成・吉田孫四郎・野村義重
『山岳』第5年第1号
※明治40年陸地測量部初登頂と間違えないよう注意
『目で見る日本山岳史』(2005年)参照。杉本誠氏収集写真

吉田の詳細な登山記は〔午山生〕の記事を質量ともはるかに上回り読みごたえがあるが、ここでは触れない。関係者が驚いたのはおそらく登山記の末尾に加えられた「余記 柴崎測量員登山の真偽」であった。これは、〔午山生〕記事に書かれた測量標と、実際に登って目にした測量標の形状が違っていたことと、柴崎と一緒に登ったはずの人夫が食い違う証言をしたことなどを指摘して、柴崎の登頂そのものを疑う内容であった。この記事は、若気の至りで書いたような表現が随所に見られる。柴崎としては無視することもできたであろうが、『山岳』の影響力を考えてなのだろうか、柴崎は1年余り後の『山岳』で反論と弁解の記事を寄稿した。

則ち第二回に測夫木山を率ひて、自ら登山し、以て四號三角點の建標を建設することに決定したり、登山の事實は、夫れ只此くの如きのみ、然るに登山の事、忽ち俚耳を聳破し、方隅其の噂を以て喧傳せられ、遂には二三新聞社の聞知する所となり、同地新聞社の一記者は、余が所在を探踏して、立山温泉宿に其の来訪を見たり、(中略)業を海嶽の険に遣るの却て與みし易くして、内業を民舎裡に展するの際なりき、此の際記者の来訪を見るも、詳細を悉くして、登山の実情を縷述するの余裕、之れあるなし、業間草茫として、其の一汎を陳述せしのみ、固と記者の来訪たるや、全く余が意料の外に存し、事の而かくの珍なるに一驚せり、超えて数日、新紙は余の所言と、従属人夫等の陳言、乃至途説を束て之を採録せり、載するところの数節、事実に相異するものありしも、之が正誤を加ふるの要なきを以て、其儘不問に措けり例へば其の登るに際し、鋼を亘して攀ぢたりとか建標にあたり、数本の木片を繋ぎ合せりと云ふが如き、誤傳の主たるものとす

※『山岳』第6年第1号(明治44年5月) 

〔午山生〕記事にはいくつか間違いあるけれども、それを指摘するには及ばない、というのである。「鋼」は「綱」の誤植とみられる。柴崎の弁明は曖昧というか難解であり、さらに疑念を増幅することになる。ここではいちいち解説しないが、この文章を一読して理解できる人はなかなかいまい。とにかく柴崎という人は簡単なことを難しく書いてしまう。『山岳』に書いた反論は4ページにわたってこの調子だったから問題をより複雑にしてしまったような感がある。立山温泉でもこの調子で取材に応じていたとしたら、取材するほうも大変だったのでないか。ただ、不器用でも一生懸命に説明を尽くそうとする姿勢は伝わってくる、それが柴崎という人物の持ち味なのであろう。

結局、〔午山生〕記事の明らかな誤りというのは、

(1)測量標の形状が実際と違っていた
(2)2等三角点と3等三角点の取り違いまたは誤植
(3)1回目の登頂に柴崎が加わっていたかのように書いた
(4)宇治長次郎を氏名不詳で落伍したと書いた

の4点に要約されるであろう。(1)(2)には聞き違えや思い込みがあったかもしれず、記者が責を負うであろう。(3)も思い込みによる錯誤であろうが、記者が勘違いしていることに柴崎は気付かなかったのであろうか。それにしても重大な錯誤である。(4)は記者が勝手に創作して書ける内容でなく、取材に応じた柴崎たちの何か意図が反映したものと考えられる。

剱岳登頂の風評はあったか

「劍山攀登冒険譚」の前文から、〔午山生〕の取材がどのように行われたのか振り返っておこう。

〔午山生〕は明治40年7月30日午前4時、立山室堂(標高2450m)を出発し、浄土山・雄山(標高3003m)・別山を縦走した。別山の頂上で双眼鏡を取り出し、遠方の山々を見渡した。富士山・浅間山・白山、そして剱岳に双眼鏡を向けたところ、前人未到といわれた頂上に何かが立っている。その時点ですぐに三角測量標という専門用語が思い浮かんだどうかはやや疑わしいが、「思わず快哉を連呼」した。どんな勇者が登ったのか、その冒険談を聞いてみたい。そう思いつつ下山した。そして翌31日、立山温泉で柴崎に面会するのである。

小説では、陸地測量部と山岳会の剣岳登頂競争を知っている前提で牛山記者が立山温泉に取材にやってくるのだが、実際の〔午山生〕は別山の頂上で双眼鏡を覗いてニュースをつかみ、立山温泉まで下山したところ柴崎に出会ったのである。当時は、室堂と立山温泉が登山拠点であるから、室堂まで降りた時、先に(7月30日)下山した柴崎たちの話がすでに話題になっていたかもしれない。柴崎たちは3日間立山温泉で休んだらしく8月2日から真川方面に造標の作業に出ているから、〔午山生〕の行動がもし2日ずれていたら歴史的な記事は生まれなかったはずである。

〔午山生〕は棒が立っているのを双眼鏡で見てこれはニュースだと直感した。ニュース感覚に優れた記者だったと見てよい。というのは、新聞記者が当時それほど高山に上がって取材する機会は少なかったし、山岳測量に関する情報をふつうの記者が基礎知識として知っていたとは思えない。それは、大井冷光という1年目の記者が同じときに立山に登りながら測量に関して全く言及していないことと比較して言えることだ。

立山では、毎年7月25日の山開きに県知事か知事代理が奉幣使として山頂の社まで登山する決まりがあった。明治36年には36歳の李家隆介知事が登るというので、3つの新聞社の記者が同行して競って記事を書いたことがあった。明治40年は知事代理として山村事務官らが登ったが、明治36年のときの丁寧な報道とは違って、詳細な記事がでることはなかった。

明治40年の立山における大きな話題に、高岡新報の立山探検隊があった。これには高岡新報富山支局の記者井上江花や大井冷光が参加している。探検隊といってもそれは60人余りの単なる団体登山なのだが、新聞社が主催する初めての大規模な団体登山である。大井冷光の日記などによれば、7月28日に富山を出発し30日に登頂、8月2日に富山に戻った。奇しくも〔午山生〕と登頂日は同じだ。詳細は明らかでないが、冷光が書き残した文章では、2時20分に室堂を出発しているので、〔午山生〕とは1時間40分の時間差がある。高岡新報の立山探検隊は、いくつかの班に分かれていたこと、井上江花は他紙の記者とも広く交友関係があったことからすれば、〔午山生〕が立山探検隊のメンバーだったのではないかという推測も成り立つが、今後さらに調査が必要である。

高岡新報の立山探検隊は雄山山頂でご来光を拝み、富士の折立と真砂岳の間の小走りを下った。冷光たちが立山温泉に宿泊したかどうかは分かっていないが、当時の立山登拝の帰路は、出発地の芦峅寺へ直接下らずに、立山温泉に下山して汗を流すのが一般的だったといわれる。とすれば、大井冷光を含む高岡新報の立山探検隊も、富山日報の〔午山生〕と同様、30日夕方か31日には立山温泉にいた可能性がある。

測量官の柴崎たちは、立山温泉が混雑していたため、狭い場所に押し込められる羽目になる。それがいわゆる冷遇問題につながるのだが、もしかしたら、その原因の一つに高岡新報の団体登山客による混雑があったのかもしれない。

柴崎は『三五會會報』第21号で「剱山ニ登山セシ事ガ其地方ノ風評トナリ為メニ新聞記者三名ノ来訪ヲ受ケ」と書いた。記者3名とは誰か。1人は富山日報の〔午山生〕、もう1人は高岡新報の記者。そしてもう1人は大阪朝日新聞の記者。これは、明治41年1月15日に開かれた三五會会合のために事前に柴崎が用意した手書き原稿から推測される。[7]氏名は記されておらず、高岡新報の記者が大井冷光なのか井上江花なのかそれとも別の記者なのかは分からない。

富山県内には当時、富山日報・北陸政報・高岡新報の3大日刊紙と、新川新報、伏木新報、薬業時報などがあった。これらのマスコミが柴崎らの剱岳初登頂をめぐって取材競争をしていたとしたら、紙面にそれが残っているはずである。しかし、記事は富山日報の〔午山生〕記事のみで、北陸政報には記事が全く載っていない。また高岡新報は原紙が図書館に存在しないため確認できないが、井上江花や大井冷光の日記にはそれがうかがわれる記事は全くない。

そもそも柴崎が言う「剱岳登山の風評」はあったのだろうか。弘法大師が草鞋千足を費やしても登り得なかったと言われる剱岳に誰かが登るぞという噂が巷に広がっていたのだろうか。少なくとも明治40年7月と8月の富山日報の紙面には、剱岳関係の記事は「劍山攀登冒険譚」以外に見つからない。2か月間の山岳関係記事といえば、7月21日に立山奉幣使の予定、8月20日に大津市から立山登山隊(50人以上)が来るという短信、8月22日に300人以上の人夫を投入して行われている常願寺川上流の砂防工事の進捗という短信、さらに8月25日に砂防工事で人夫が負傷という記事がある。そして唯一ともいえる山岳趣味の記事として、1面で7月28日から19回連載された吉沢庄作「高山旅行」があるが、これも山岳の自然や僧ヶ岳紀行などを扱ったもので、測量には全く触れられていない。「劍山攀登冒険譚」を載せた『富山日報』にしても、それ以降の続報記事がなく、北陸政報にも追いかけ記事は見つからない。柴崎は、3人の新聞記者に囲まれたとき世間の注目を感じた。それが風評という表現になったのでないか。仮に風評があったとしても、それは室堂にいた神官や仲語たち山岳関係者の狭い範囲だったのではなかろうか。

陸地測量部と山岳会の登頂競争はむろん新田次郎による創作である。陸地測量部はそもそも陸軍参謀本部の外局であるため、目立つ性格の役所ではなかった。試みに当時の全国紙の記事を「陸地測量部」で検索しても、せいぜい職員募集の広告ぐらいしかヒットしない。柴崎は誇り高い男であったから、剱岳初登頂という機会を利用して、厳しい山岳測量によって地図を完成させるという国家的プロジェクトを社会にアピールしたかったのでないだろうか。

錫杖頭の実寸スケッチは柴崎筆

〔午山生〕の記事は紙面でどう扱われたのか。当時の『富山日報』は4ページで、1面が総合・小説、2面が国内県内雑報、3面が社会、4面が広告という紙面構成になっていて、特ダネであるならば1面ないし3面のトップ記事に扱われるのがふつうである。〔午山生〕の記事は3面7段組みの5段目という低い位置に割り付けられた。ボリュームのある話題記事としてはやや異例の低い扱いといえるであろう。

当日3面のトップは主筆匹田鋭吉の「清韓旅行観察の一班」だった。編集責任者である匹田は、清韓の取材旅行を終えて帰国したばかりで8月3日からその連載を開始していた。匹田は明治36年の立山奉幣使の同行取材を命じるなど少しは山に関心があったが、山岳趣味に目覚めるのは明治42年夏に大井冷光とともに夏山臨時支局の大型企画を実施してからである。最初から3面トップ記事が匹田の連載と決まっていて、〔午山生〕の記事は歴史的な意義のある特ダネだったにもかかわらず3面中段に掲載されたのであろう。

富山県内の各紙で写真掲載が一般化するのは明治43年のことで、明治40年の時点で図版は線画のスケッチを掲載していた。剱岳初登頂のニュースの核心は、前人未到と信じられていた山頂から錫杖頭(高さ13.4cm幅10.9cm)と鉄剣(長さ22.6cm茎長2.0cm)が見つかったという事実である。〔午山生〕はもちろん、現場でスケッチの重要性を認識していて、2つのスケッチを手に入れた。そして紙面には、鉄剣は2分の1の縮図、錫杖頭は実物大、と注釈をつけて掲載している。

Photo 鉄剣のスケッチは縦横比がでたらめで評価に値しない。だが、錫杖頭は左下の出っ張りの位置だけが不正確である以外はほぼ正確である。蕨手と呼ばれる優美なカーブや厚み丸みが線画で巧みに表現されている。おそらく現物を紙の上に置いて周囲をなぞり写し取ったのであろう。頂点部がやや細くなっていなければならないところがやや太い。右上部2時の方向に欠けた部分があるが、そこも判別できる。

Photo_2錫杖頭と鉄剣のスケッチは、前述した『山岳』『三五會會報』でも模写して転載されている。比べれば一目瞭然だが、2つの模写はディテールが失われ、いかにも雑である。右上の欠けた部分は判別できなくなっている。そして鉄剣の縦横比のミスや、錫杖頭の左下の出っ張りの位置のミスは訂正されることなく継承されている。また鉄剣の注釈は、原文が「劍山の頂上で発見せし槍身」となっているのに対し、『山岳』は「劍山の頂下で発見せし槍身」となっていて、ここでも転載時のミスの多さを露呈している。

これは〔午山生〕が書いたのだろうか。柴崎芳博は、「実物大」という文字の筆跡から柴崎芳太郎が書いたものとしている。そして、このスケッチを渡すことと交換に、〔午山生〕記事の追記に冷遇問題を取り上げてもらったのではないかと大胆な推測をしている。[8]見返りにスケッチを渡したといえるのかどうかはもう少し強い根拠がなければ判断できないが、柴崎本人が〔午山生〕記事の錫杖頭のスケッチを描いたとなると、『三五會會報』に転載された錫杖頭のスケッチは誰が書いたのかという疑問も出てくる。『三五會會報』のスケッチは点描が多く用いられ別人が書いたようにも思われる。それに、3人の記者がいて〔午山生〕にだけ提供したのだろうか。

藤田午山はだれなのか

歴史的な記事を書いた〔午山生〕とはいかなる記者か。いよいよこの稿の本題である。午山というのはむろん号であって本名ではなかろう。『富山日報』に午山生の署名記事は、明治41年8月21日1面に「井波彫刻を観る」、同年8月23日3面に「国産会社の油槽を観る」、明治41年10月24日から26日までの3面に「尚美展覧会を観る」(3回連載)、10月31日から11月2日までの3面に「農学校の品評会」(3回連載)、11月9日から16日までの2面などに「西砺品評会雑観」(7回連載)、明治42年10月3日から6日までの1面に「御巡幸當時の回顧」(3回連載)が確認されている。いずれも細かく丁寧な文章だ。これだけでは〔午山生〕が誰なのかはわからないが、7月上旬頃に富山日報に移籍した大井冷光と少なくとも同僚だった時期があったことが分かる。冷光は、明治41年7月10日発行の『立山案内』を編纂し、その際〔午山生〕の記事を部分転載したので、山の話題で会話も交わしたことだろう。ただ冷光は錫杖頭のスケッチを転載しないなど、〔午山生〕記事のもつ歴史的な意義をどこまで真剣に考えて編纂したのか疑問だ。

Img062

もうひとつ、『富山日報』明治41年4月15日1面に「眞言古刹 芹谷山千光寺(三十三年目の開張)」という記事がある。この末尾の署名が「藤田午山生」と読むことができる。しかし、「午」「山」のいずれも中央の縦線部分の印刷が抜けていて「牛」「口」と読めたりもする。現時点で「藤田午山生」と断定まではできない。そのころの富山日報社員名簿などに藤田という人物は3人確認できる。

(1)藤田久信
(2)藤田理茂
(3)藤田義農

久信は号を矢乾と名乗り、明治36年の立山奉幣使に同行して「登嶽前記・登嶽の記」という登山記を書いた記者である。この登山記は、井上江花「黒部山探検」明治42年、大井冷光「天界通信」明治42年と並んで、明治後期の山岳記事として記録に残る力作である。物語としての面白さやスケッチの豊富さでは、他の二作品より上の評価を与えてもいいように思う。久信が〔午山生〕であるとしたら、山岳取材の経験やスケッチのうまさから納得はいくが、その可能性は低い。久信は奉幣使同行取材後に富山日報を辞め、富山県会議員となっている。[9]

残るのは理茂と義農の2人だが、年始広告の社員名簿を見ると、理茂は明治40・41年の2年間、義農は明治40年から43年まで4年間掲載されている。明治42年3月30日に富山県内の記者懇談会、明治42年11月3日には富山日報社員運動会があったが、そこには両名とも名がない。

〔午山生〕は『富山日報』明治42年10月3日の「御巡幸當時の回顧(一)」を最後に、それ以降は見つかっていない。一体いつまで富山日報で記者を続けたのであろうか。藤田理茂か藤田義農のどちらかが藤田午山を名乗っていたものと推定するが、確定するにはもう少し材料が必要である。[10]

それにしても〔午山生〕は報われぬ記者である。歴史的記事を書いていながら、誤りが含まれているとされたためか、メディア側の記憶には氏名が残されていない。富山日報の後継紙は現在の北日本新聞である。北日本新聞の社史に相当する出版物には、剱岳初登頂の記事が柴崎芳太郎と宇治長次郎の名とともに記されているが、〔午山生〕の名は出てこない。[11]誤報を許容せよというわけではないが、〔午山生〕とその記事は再評価してよいのでなかろうか。そのためにも〔午山生〕のフルネームを突き止めなければならない。

〔午山生〕の同僚記者であった大井冷光は明治42年夏、富山日報の夏山臨時支局を担当し、室堂に1か月間滞在して「天界通信」を書いて送った。そこで民間人の剱岳初登頂(第2登)を取材したのをはじめ、山岳通で知られる洋画家の吉田博と山案内人の宇治長次郎とともに黒部谷(平ノ小屋)の猟師・漁師、遠山品右衛門を訪ねる取材もしている。冷光はその後、明治42年9月に日本山岳会に入会し、明治45年7月には少年を含む4人と案内役とともに針ノ木峠越えを敢行した。〔午山生〕の山の取材にかけた情熱は、大井冷光に引き継がれたようにも思える。

[2017/12/31追記] 午山生は、藤田義農記者である可能性がかなり高まった。明治42年9月、皇太子の北陸行啓をめぐる取材で、義農が福井に派遣(9月18日2面)されていて、金沢発の〔午山生〕記事(9月27日2面)が見つかったためである。一方、藤田理茂の名前が明治34年1月1日の『富山日報』に見つかっている。

〔午山生〕記事をめぐる動き
1907(明治40)年 7/13・28 陸地測量部が剱岳登頂(宇治長次郎案内)
1907(明治40)年 7月31日 〔午山生〕が立山温泉で柴崎らに取材、柴崎は先日温泉に戻っていた
1907(明治40)年 8月5日6日 『富山日報』に〔午山生〕の「劍山攀登冒険譚(上)」(※以下日報記事と略)
1907(明治40)年 10月22日 『三五會會報』第17号の雑録に日報記事全文転載、修正箇所あり
1908(明治41)年 3月 『三五會會報』第21号に柴崎芳太郎「出張地ニ於ケル見聞ニ就テ」。新聞取材に応じた件と立山温泉冷遇問題に対する内部批判に弁解。※この小論には、手書き原稿が存在し、活字になっていない記述が含まれている。
1908(明治41)年 7月10日 大井冷光編『立山案内』に日報記事部分転載。
1908(明治41)年 9月20日 『三五會會報』第25号に「疑問」の記事。大井冷光編『立山案内』に立山・剣岳・白山の標高データ漏えいを疑問視
1908(明治41)年 10月25日 『山岳』第3年第3号に日報記事全文転載、小島烏水が注釈記事、細かい誤記多数。
1909(明治42)年 7月24日 吉田孫四郎・河合良成・野村義重・石崎光瑤ら民間人が剱岳登頂(宇治長次郎案内)
1909(明治42)年 7月29日 『富山日報』に大井冷光「劔山登攀談」(天の一方より3)。
1910(明治43)年 3月31日 『山岳』第5年第1号に吉田孫四郎「越中劒岳」、石崎光瑤「巻頭画 富士の折立より見たる劍岳」「写真 劍岳頂上の南望」「写真 劍岳の絶巓(遠景は白馬連峰)」ほか写真3点。吉田は末尾に「余記 柴崎測量員の真偽」を記す。
1911(明治44)年 5月5日 『山岳』第6年第1号に柴崎芳太郎「本誌五年の第一号所載劍嶽登山の記事に就て」。柴崎が吉田の指摘に反論、日報記事にいくつかの誤報はあるが不問にしたと書く。

[1]松村寿「剣岳先踏前後2―陸地測量部員の登攀―」『山書研究』第7号(昭和41年12月)p30。

[2]"「越中劍岳先登記」を転載してそのままミスを犯した例もある。富山県郷土史会編『立山と黒部』(1962年)は「初めて剣岳を極む 柴崎芳太郎」と勝手に表題をつけた上で「鍋のミス」以外はほとんどミスを踏襲した。そして、「親指ほとの間の様な処」「立山の高さは不明であります、立山において見れば剣山の方が高く見えますけれど…」という文章を転載した。読めば明らかに意味が通じないのに疑問に感じなかったのだろうか。原記事は本文が上下合わせて2977字になるjが、その正確な転載は難しい。極めて慎重に全文転載された五十嶋一晃『山案内人宇治長次郎』2009年であっても、以下の6か所の誤転記がある。×立山温泉○立山温泉場、×三角点○三角測量点、×十分な測量か○十分な測量が、×其の雪を通過すると○其の雪道を通過すると、×カンジキヲ穿いて○カンジキを穿いて、×勇をこし皷し○勇を皷し。これらは本論には全く影響がない些細なものだが、転載時の校閲作業の難しさを感じさせる。

[3]山田明『剱岳に三角点を!』2007年、p53-56に全文転載されている。

[4]柴崎芳博「劔岳登頂をめぐって―ある疑問点について―」『山岳』第75年号(昭和55年12月)p168。

[5]柴崎芳博によると、この標高データは柴崎芳太郎が『立山案内』に「発表した」ものだという。前掲書p180。陸地測量部内での一連の情勢については、山岡光治『地図をつくった男たち』2012年に詳しい考察がある。

[6]この手書き原稿は、『三五會會報』第21号の「出張地ニ於ケル見聞ニ就テ」とほぼ同じだが、それにはない記述があり、大阪朝日新聞の記者が冷遇問題に同情して第三者的な立場で攻撃的記事を連載しようと話した、と記されている。手書き原稿の複製は、富山県立図書館に『剱岳初登頂についての体験談:講演要旨』(1979年)として所蔵されている。その表紙部分には「明治41年日本山岳会のための講演」 と注釈があるがこれは誤りで明治41年1月15日の三五會会合が正しい。柴崎が日本山岳会で講演したのは明治44年5月7日の第4回大会である。

[7]柴崎の反論内容は、五十嶋一晃『山案内人 宇治長次郎』2009年、p109-110に詳しい。

[8]柴崎前掲書p176。

[9]藤田は明治43年12月に発覚した大沢野開墾地涜職事件で拘引され、明治44年3月、収賄罪で懲役10か月の判決を受けた。藤田ら収賄側はこの地裁判決を不服として控訴したが同年10月に確定している。匹田も仲介したとして罰金50円の判決。藤田はその後、大正4年に政界復帰し、翌年県会議長をつとめている。

[10]『富山日報』明治40年3月6日1面に「高岡工業品評会瞥見録」義農生という記事が出ている。

[11]『北日本新聞社85周年史』昭和44年では、明治40年7月13日に「大山村宇治長次郎の案内で未踏の剣岳に登頂した陸地測量部柴崎芳太郎は、下山のとき初めて降りた谷を長次郎谷と名付く」という記述がある。長次郎谷の命名は明治42年の民間人による第2登のときである。同社の100年史、120年史でもそのお粗末な誤記は引き継がれている。〔午山生〕の名はない。現在の同社刊『富山大百科事典』では長次郎谷命名の記述は正確である。(2013/06/16 10:25、2017/04/20、2017/12/31追加)

 

 

劍山攀登冒険譚 (つるぎざんはんとぼうけんものがたり)

劍山攀登冐險譚(上)
(參謀本部陸地測量官の談)


生は去三十日我國三山の一なる立山に攀躋せんと、午前四時室堂を發し、白雲を蹈破して先づ浄土山、權現堂を難無く超え續いて別山の絶頂に到り、双眼鏡を取り富士、淺間、白山、其他飛信の諸山を望み、次て古來人跡の入らざるてふ劍山の絶巓を望むに不思議や三角測量標の建設しあるを見る、思はず快哉を連呼したり、むかし弘法大師が草鞋千足を費してさへ登り得ざりしと傳ふる彼の險峻に登りしは如何なる勇士か、冐險奇譚こそ聞かまほしけれなどと思ひつつ下山せしに三十一日立山温泉塲にて端なく參謀本部陸地測量官柴崎芳太郎君に遇ひ、當時の實況を聞くを得たり、左に其要を掲ぐ、柴崎測量官は山形縣北村山郡大石田町の出身にして三十一歳、沈着の人なり(午山生)





『富山日報』明治40年8月5日3面

『富山日報』明治40年8月5日3面

余は三十六年頃より三角点測量に従事して居ますが、去四月二十四日東京を發して當縣に來る事となりました、劍山に登らんと企てましたのは七月の二日で、先づ芦峅村に赴き人夫を雇はふと致しましたが、古來誰あつて登つたと云ふ事の無い危險な山ですから、如何に高い給料を出して遣るからと云つても、生命あつての物種、給料には易へられぬと云つて應ずる者がありません併し是非とも同山に三角測量点を建設せざるべからざる必要があると云ふのは、今日既に立山には一等測量標を、大日山と大窓山とには二等測量標を建設してありますけれども、是だけでは十分な測量が出來ませんからで、技術上是非劍山に二等測量標の建設を必要とするのであります、前年來屡次登山を試みましたが毎時登る事が出來ず失敗に歸しましたが、其爲めに今日では同地方の地圖は全く空虚になつて居る次第であります、是れは我々の職務として遺憾に堪えぬ次第で、國家の爲め死を賭しても目的を達せねばならぬ譯であります、其處で七月十二日私は最も勇氣ある


測夫 静岡縣榛原郡上川根村  生田  信(二二)
人夫 上新川郡大山村     山口久右衛門(三四)
人夫 同郡同村         宮本 金作(三五)
人夫 同郡福澤村       南川吉次郎(二四)
人夫             氏名 不詳


の四名を引率して登山の途に就き、同日は室堂より別山を超え、別山の北麓で溪を距る一里半許りの劍澤と稱する處で幕營し、翌十三日午前四時同地を出發しましたが、此處は別山と劍山との中間地で黒部の上流へ落合う渓流が幅三米突許り深さ六七尺もありました、尚其地方は落葉松等の周圍一丈許りもある巨樹、鬱蒼として居ますが幸に雪があつたから渡たれたものの、雪が無かつたら危險地で迚も渡れ無いだらうと思ひます、其れより半里許り東南の谷間を下り、其れから登山しましたが、積雪の消え無い非常な急坂がありまして、一里許りの雪道を約五時間も費やしました、其の雪道を通過すると劍山の支脈で黒部川の方向に走れる母指と食指との間の樣な處に出ました、尤も此積雪の上を徒渉するのに什麼(どう)しても滑りますから鐵製の爪あるカンジキを穿いて登るのであります。


劍山攀登冐險譚(上)
(參謀本部陸地測量官の談、午山生記)


此積雪地よりは草木を見ず、立山の權現堂より峰傳えに別山に赴く山路の如く一面に花崗片麻岩にてガサガサ岩の斷崖絶壁削るが如く一歩も進む能はず、引卒せる人夫四名の中氏名不詳とせし男は此處より進む能はずとて落伍しました、殘りの一行は更に勇を皷し一層身輕にし双眼鏡、旗、綱の外は一切携帯せずに進むこととなりましたが、其苦しい事は口にも述べられぬ程です、上の方に攀登るのに綱を頭上の巖にヒヨイと投げかけ、其れを足代に登りかけると上の巖が壊れて崩れかゝると云ふ仕抹で、其危險も一通りや二通りでは有りません、斯んな處が六十間もありましたが、其處を登りますと人間の稍休息するに足る塲所がありましたからホツと一休みしました、また其處よりは立山の權現堂からフジと云ふ處を經て別山に赴く程の嶮路で花崗片麻岩のガサ岩ばかりであります、斯くて漸く絶頂に達しましたのは、午前十一時頃でありました此絶頂は圓形のダラダラ坂で約四五坪もありましよう、むかし何年の時代か四尺四方位の建物でもありましたものか、丁度其位の平地が三ケ處ばかりありました、しかし木材の破片などは一切見當りません、一行が此絶頂に於て非常に驚いたのは古來未だ曾て人間の入りし事の無いてふ此山の巓きに多年風雨に曝され何とも云へぬ古色を帯びた錫杖の頭と長さ八寸一分、幅六分、厚三分の(やじり)(昨紙に掲げしもの之れなり)とを發見したことである、鏃は空氣の稀薄なる爲めか、空氣の乾燥せる山頂にありしが爲か左程深錆とも見え無いが、錫杖の頭(本紙に圖する物之れなり)は非常に奇麗な緑青色になつて居ります、此二品は一尺五寸ばかり隔ててありましたが、何年の時代、如何なる人が遺して去りしものか、槍の持主と錫杖の持主とは同一の人か、若し違つて居るとすれば同時代に登りしものか別時代に登りしものか、是等は頗る趣味ある問題で、若し更に進んで何故に是等の品物を遺留し去りしか、別に遺留し去つたので無く、風雨の變に逢うて死んだものとすれば遺骸、少くも骨の一片位はなくてはならぬ筈だが、品物は其儘其處に身體は何處か溪間へでも吹飛されたものか、此秘密は恐くは誰れも解くものはあるまい、尚不審に堪えざるは其遺留品ばかりでは無い、此絶頂の西南大山の方面に當り二三間下の方に奥行六尺、幅四尺位で人の一二人は露宿し得る樣な岩窟がある、此窟の中で何年か焚火した事があるものと見え、蘚苔に封せられた木炭の破片を發見した事である、此外には這松の枯れて石の樣になりたる物二三本と兎の糞二三塊ありしのみである(午山生云く兎糞は別山の頂きに於ても之を見たり)、此劍山の七合目までは常願寺川等にある樣な滑澤の大きな一枚岩であるが、上部は立山の噴火せし際、降り積りしと思はるゝ岩石のみである、東南の早月川方面の方は赤褐色を帯べる岩で、北方は非常の絶壁で其支峰も孰れも劍を植てたるが如く到底攀づる事が出來ない、斯くて一行は當日午後一時に下山し始め同四時に前夜の宿營地に無事引上げ茲に第一回の登山を終つた、第二回には三角点測量標を建設せんものをと


測夫 鳥取縣東白郡市勢村 木山竹吉(三十六)
人夫 中新川郡大岩村   岩木鶴次郎(二十四)


其他を率ゐたが、二等三角点を設けんとせしも、名にし負ふ嶮山とて機械及材料を運上ぐる事能はず、止むを得ず四等三角点を建設する事とした、其れも四本を接合せて漸く六尺位になる柱一本を樹てたに過ぎ無い、此接合せる樣にしたのは無論運搬が困難であるからであります、劍山の高さは不明であります、立山に居りて見れは劍山の方が高く見えますけれど劍山では立山の方が高く見えます、大抵同樣の高さかと思はる、立山の高さですか、其れは二千五百米突以上と云ふ事になつて居ます云々





『富山日報』明治40年8月6日3面

『富山日報』明治40年8月6日3面

午山生云ふ 此測量は危險地でも霊地で處嫌はず跋渉せざるべからず、人夫は熟練を要するものなるに、迷信深き人夫共は兎角同業に従事するを嫌ひ少しく馴れし時分に他に転じて歸來らざるには困居れりとなり、又測量官の一行は目下立山温泉塲を根據とし、多くは露營若しく小屋住居をなし居れるに、偶温泉に歸る事あるも至極不待遇にて余の訪問せし時の如きは押入の如き處に押込められ居りしには見るも同情の感に堪えざりき、職務とは云ひ、死を賭して深山嶮岳を跋渉しつゝある人々なれば、何とか相當の便宜を與ふる事にしては如何


【引用者注】出典 『富山日報』明治40年8月5日3面、6日3面。図版2枚あり=(上)劍山の頂上にて發見せし槍身(原型二分の一縮寫)、(下)劍山の絶頂にて發見せし錫杖の頭(實物大) ※「劍山に二等測量標の建設を必要」は間違い、正しくは「劍山に三等測量標の建設を必要」(2013/06/20 22:21)


より詳しい解説記事→剱岳初登頂記事と〔午山生〕


2013年5月10日 (金)

明治36年立山奉幣使同行取材記事

登嶽前記(一) 矢乾


時は七月の廿三日、農家の大厄日といふべき土用三郎の當日、予は李家知事の一行に加はり立山行きの途に上る事となった


其翌々廿五日は越中ばかりでは無い日本中でも富士山に次での高山、海抜九千九百尺の立嶽絶頂に神止まります雄神々社の祭神多力雄尊及諸冊二尊の例祭といふのであるが此例祭に知事自ら奉幣使として登嶽したのは國重正文氏以来今回の李家知事が始めてゞある流石は青年知事の名あるだけに元気盛んなものである
立山と云へばいみじくも苟も越中の地に臍の緒を切りし男子の必ず一度は踏むべき霊地であるのに機会が無かったとは言ふものゝ四十面下げて初の立山詣、果して其の任務を完ふする事が出来るや否や疑問の中の疑問であるしかし兎に角主筆の命令、是非果さなければならぬ次第であるから実は廿一日の午前に予が愈々此の任に当るべく定まってよりは多少の準備をもしたかったのである、然るに社の方は例の六十傑の投票募集而も締切期日になって居たので非常の繁忙、廿二日の如き全く筆を執る事も出来なんだやうな事である、こんな工合だから、同行すべき諸君とも何一ツ打ち合わせする事も出来ず困って居た、處へ高岡新報の清水古城君が来て井上紅花に代ったと云ふ咄し、夫れ幸ひどうか県庁で萬端の手筈を打合せて聞かせて呉れ玉へと云ったのが廿二日の午前中であった、處が清水君は打合わせをして午後から社を訪ひ下宿を訪ひ予の出先をも訪はれたさうだが行違って逢ふことが出来ぬ其の内廿二日の午後十時になった、マゝよ此方の思ふ通り遣付けベイと決心し不十分乍ら一と通り準備を整へたといふやうな始末である尤準備品及行程は予め県庁から知らして呉れたから大マゴツキも無かったのである


其の儘寝に就いたと思ふと例の寝坊、目を醒して見るとハヤ午前六時、コはしなしたりと直ちに旅髪を整へ朝餉も早々に車夫を促し知事邸に駈附けたのが午前七時五分、知事邸に至て見れば既に田中参事官、松本五課長、荒井一課長を始め佐藤政論等一行の大体は揃って居る暫くして清水高岡新報が来たので全く揃った、が天候は余り宜く無い、前夜来の雨が尚降り続いて居る小山官房主事は今伏木測候所に向け天候を問合せたからと云ふ八時に至□□返電が無い、モウ出懸けやうと云ふ時李家知事は応接所に出て来て一行を呼んだ入って見ると鈴木書記官並川前警部長が来て居た、卓子の上にはビールが盛られてある、知事自ら各自に一杯宛を配り、先ケ警部長の出立を送る事が出来ぬから告別の挨拶を為しお互の健議を祈るとて互に杯を傾け、一行は団体行動を執る事にせやうと発議し夫れに極めて出立したのは午前八時である一行は左の十二名であった。


李家隆介(知事)田中正太郎(参事官)荒井克一(一課長)松本於菟(五課長)小山綱太郎(官房主事)佐伯有胤(属)浅村榮(技手)石井謙治(以上県庁側) 佐藤青衿(政論)清水古城(高岡)藤田矢乾(日報)中林写真師(以上民間)


(廿三日午前十一時十分岩峅認)


※『富山日報』明治36年7月26日3面

登嶽前記(二) 矢乾


斯くて一行は腕車を急がせて出立したが、知事等は千石町の並川警部長宅に至り別離の情を述べ、一同が同行した、此の時から雨は愈降り頻り富山市を離れた頃は篠突く計りの大雨迚も立山に登る事は覚束なからうと思はれた、此の時予の大に感じたのは車夫である、予の車夫は幸に合羽を着て来たが他の多くは法被一枚ズブ濡れで尚ほ勢宜く車を挽く車上のものも人間、アゝ無惨是非とも人力車廃止を主張せねばならぬと思った、其の内上瀧を通り過ぎて彼の常願寺川の縁に出ると雨中に佇んで居る洋服に脚絆草鞋懸けの人々何人かと見れば石坂上新川郡長の一行である、今朝よりの出水に常西用水取入口に出張し必死と防禦して居るとの話実にお役目御苦労と云はざるを得ん、更に車を駈る事数分岩峅村佐伯有久氏方即ち一行の昼飯所に充てられてある家に着いた、此時午前十一時五分、茲處に先着して待合わせて居たのが

松山顧武(中新川郡長)西田友次郎(中新川郡書記)早見治清(五百石分署長)巡査一名

の四名で是れで一行十六人の大勢、夫れに芦峅村からの出迎等一行二十人となった、此處で昼飯を済し、扨是れからが愈よ徒歩と云ふのだから笠の用意茣蓙の準備各身軽の装束をした、所へ芦峅村からの迎の為乗馬五頭を寄越したといふので奉幣使の李家知事と田中参事官は先づ乗馬と決した、が、先づ乗馬と決した、跡は誰の望みものがと云ふので予にも勧められたが、先づ明日の足試めしに三里位ゐは徒歩した方が宜いと云ふので笠と茣蓙で辿る事にした、乗馬の連中も笠着て茣蓙着ての乗馬余り誉めた姿でもない、岩峅を出発したのが午後一時で半道斗り行くと雨も小降になり遂には全く晴上った是からは全く常願寺川の右岸に沿ふて川一つ彼方の右には上新川郡大山村を望みつゝ進むのである、處が夜来の降雨で水量を増したる常願寺の本湍激流、恰で泥土を流したらん如く滔々と音して押流さるゝ大石の打合ふ響物凄く幾度か歩を止めて富山県の名物を嘆ぜしめた、前面を見渡せば空に聳ゆる山々各所に布を晒したらん如き瀑布、壮観言はん方なく併も絶壁より落下する水は皆一滴の濁りも無い皆こんな工合なら決して砂石を流して川床を高くする憂が無いと行くこと数丁、川向ふの行手には一面の禿山、聞けば大山村大字小見村の石灰製造地である、蓋しこんな處に砂防工事が無いから甚しき土石を流し些との水にもドス黒い水を流し川床を高め県債を増す原因となるのだと語り乍ら行く中千垣村と云ふに着して馬隊の一行が同村青山チヨ方に小憩して居るに出逢った予等も同じく一休すると渋茶に葛団子の御馳走甘露々々と舌鼓を打ちつゝ午後二時三十分、モウ芦峅へは二十丁余と聞いて勇ましく行進を始めた三途川橋を通って是れから冥途の旅抔と悪洒落を云って午後三時十分と云ふに芦峅村に着した、李家知事以下は奉幣使御旅館と云ふ看板を出した佐伯有胤氏方に入り予と佐藤、清水の両氏とは佐伯十百作(立山村助役)氏方に松山中新川郡長は佐伯榮丸氏方、早見五百石署長は佐伯某方に旅装を解き一泊することゝなった。(午後八時十分芦峅村にて認む)


※『富山日報』明治36年7月27日3面


登嶽前記(三) 矢乾


旅宿と定められた佐伯十百作氏方に着して暫らく駄法螺を吹いて一喫して居ると、知事からの回章あり、伏木測候所から県庁に来た電報で『尚ほ降り続く模様十時に再報する』とあり困ったと云って居ると天候は段々快晴の模様マゝ日光を〓すやうになったので電報一向當てにならぬと云て居ると今度は『明朝四時に出発する雨天ならば更に衆議に謀る』と云ふ意味宜し出発々々と云ふ時松山郡長、松本、荒井、小山の諸氏来訪明日の天候を気支って分れたが暫くすると李家氏等は芦峅村の祈願處(岩峅村の前立社壇と並び称す)に参詣すると云ふので同行した拝殿に入ると金色燦爛たる立派の輿二台剱梅鉢の紋所あるので前田候の寄進と云ふ事が分る聞けば、嘉永年中の作で廿五の例祭には一輿には祭神の主神多力雄神、一輿には諾冊二尊を安置して村内百三十余戸を渡御するのであるさうな、其れから雄神神社の摂社と云ふが三社ある、一は立山開山佐伯有頼公自作の像と云ふを祠り一は諾冊二尊を佐伯有若左衛門公を祠り、一は多力雄神と佐伯家の祖先を祠ったとのことで奥の二社は維新後加賀藩と云ふ金庫が無い為め拝殿は朽腐して今は礎のみ跡を止めて居る、只驚くのは此の境内の廣きと其の立木の杉の立派な事で一丈以上の立山杉が数限り無く一大林を為して居て昼尚ほ暗く只何となく寂びて思はれる、佐伯有頼公の自作の像と云ふ祭神になって居るのは其の寛容にして堅忍不抜の気風自ら備はれるを畏く拝した、此の時幾種かの宝物を拝観した中有頼公□持った矢の根と云ふものもあった、此より先電報を見たかとの間未だしと云へば今更に電報が到達して『朝鮮近海より低気圧襲来降続く見込確かなり』との事一行各落胆したものゝ頭上は益快晴の色見えたので今は測候所の予報の誤らんことを願ふは是れ亦情ならん斯くて御宿晩餐を喫□此の稿をなぐりつけて寝就いたは午後九時廿分であった、今此の前記を終るに當り一寸書添えねばならぬのは此の芦峅村と云ふのは富山より七里の山奥モウ立山の麓の一番奥の村落でありながら戸数は百三十余家建立派にして人品野卑ならず実に以前の社僧時代を想像せしめる事である、今後尚ほ能く此の状態を保持する事を得るか否やは疑問である、地方活眼の士果たして能く前途に處する見込あるのであらうか、オッと夫處ではない果して明日登山し得るのであらうかどうか心もと無い次第である、此時雨の降る音を耳にす(廿三日午後九時芦峅にて認む)


※『富山日報』明治36年7月28日3面


登嶽の記(一) 矢乾


▲廿四日 芦峅より藤橋


前紀抔と廻らぬ筆にツマらぬ事をのたくり廻す事は大概にして芦峅から送ったので止めて置くが茲に一寸補遺でも有るまいが岩峅から芦峅まで膝毛を遣った時の雨中馬隊の光景を想像すると今も噴飯に堪えぬのである、中にも李家君の洋服に茣蓙、中折帽に蝙蝠傘といふ出立、又田中君が頭起止めに大の真鍮鋲を打った陣笠やうの檜木笠に陣羽織とも見るべき茣蓙を着流がしたる處小山官房主事が例の駅夫抔の着て居る様な護謨引の合羽に檜木笠で馬に跨り意気揚々たる處など実に無い図であった、此日は奉幣使の参拝と云ふので此の奇異なる威容を見んと村民の来り集ふもの随分多かったが馬隊の跡から或は檜笠或は菅笠を冠ぶり茣蓙に洋服若くはシャツ一枚に股引脚絆などいふ予等の一隊がゾロゾロと歩いて行くのであるから見物に来た村民は何と感じたか定めて堂々たる威容に驚いたであらうと思ふ、斯くて芦峅に就いて泊ったが、予と佐藤政論、清水高岡の三名同宿し十百作氏夫人の御酌で思はず一杯を過ごし寝に就いたが天候が気支はれるのでどうもオチオチ寝られない、佐藤青衿子が宵の口から腹痛を催して暴潟すること二三回オマケに吐まで遣って、ウンウンを初めたといふ一件である医者と云っても此の村には居らぬと云ふ噺し、準備の清心丹や宝丹で気安めを遣って見たがどうも止まぬ、其の内十百作氏が種々信切に介抱して呉れて、熊丹が宜からうと夫れを飲ませると腹痛も吐潟も止んで睡に就いた様子予等二人も先づ安心して夢を結んだが気が立って居たのでか有名な睡坊も午前三時に目が醒めて終ったそこで古城子と予は蚊帳をすべり辷り出で旅装を整へ佐藤君は実に気の毒だが茲處まで来て登山出来ぬといふのは残念だらうと云って居ると蚊帳の中からナニ己れも行くのだ、モウスッカリ癒ったといひつゝ佐藤君は刎ね起きて来た、夫れは結構と云ふ内予も便通を催したので厠に上って見ると矢張腹が鳴って暴潟するされど茲處でグズグズは出来ぬ辛抱の出来る丈け辛抱すべしと決心した尤も跡から聞いて見ると一行十六人中下痢模様のないものは僅か二三人のみであった、是れは定めて何か食物が障ったのだらうと云ふ事であった、□□□□□云ふから洋燈□□□□□を平□佐藤青衿子は此の時も僅か半椀しか食はなんだ、主人の好意で贈られた一位の杖を貰ひ其の数に依って草鞋の履替とすべきもの一足を乳と乳を結合せて尻皮を當てたやうに何處でも腰懸ける時の敷物代とするやうに腰に結ひ付け三時五十分といふに宿所を出た奉幣使の宿所に行って見ると正四時の出発といふのに此處はまだ朝飯最中であった、此の時岩峅村の神職佐伯有久氏は一行と同行すべく既に来合せて居る、旅装は一行と同様の身軽なり、其の内玄関に腰懸けた儘で薄茶一杯馳走になり、中宮(案内兼荷物を担ぐものにて多く合力と称するもの)七名にて一行の荷物を取り揃ひ分担せしめた、予等の宿主十百作氏等が送って此處に来り種々の注意と便宜を與へられたのは特に茲處に謝意を表して置く。


午前五時一行の準備終り佐伯信忠氏を先導として班に残る星を戴いて登山の途に着いた、此日よりは李家知事も愈よ菅笠に茣蓙の扮装緬縮の洋服に脚胖草鞋は前日の如く、曾て富士登山の紀念なる富士山と烙印のある六角に削った檜の金剛杖県官連中は一同に青竹の杖一際目立つは図躰の大きい田中参事官と同業の清水高岡此の中に独り流石にお商売柄と思はせたのは早見五百石等の警官が官帽を戴くことゝ洋傘で台湾帽の浅村森林とであった斯くて行くこと里余此の間溪間山腹等に大豆、粟等の植付けられるを見たが水田は至極僅で聞けば芦峅百三十余戸の食料は其の三分一を支ふるに足らず他は皆他に仰ぐとのことである、行くと一里半(立山の里程は無論実測したものにあらず、ホンの予測であるから銘々に違ふので特に五十丁一里といふ奴があるから一向當てにならぬ、だから今後は一日の終りに彼地で称する所謂戦国時代其兵何万と号する的の行程を書きそ添ゆる丈けにして多くの場合は時間 書くことにするから其の時間で其の里数を想像して貰ふことにする)常願寺川の水源たる称名川に架しある藤橋と云ふに着いたのは午後六時四十分、此の藤橋と云ふのは例の吊り橋である、初めて出逢った先生の内には随分渡り悪くかった連中もあったやうだ、渡り終って向岸の河原で先づ一喫した、此の間に中林写真師は折角器械を取り出いて藤橋の景を撮影した、一行は悉く此の図中の人となれる積りで目を据へ息を呑み大に済まし込んで威儀を繕ったが跡から聞けば藤橋の景は人が多くては面白味が無いから人物は余り写らぬやうにしたとの事マンマと中林写真師に一抔喫はされたものは誰か写真が出来上ったら一行の笑種ができるだらう、小憩十五分にして『出発用意』の号令(前記に書いた通り十六名の一行は総て団体行動□取るのだから此の号令は李家君に依って号令されるのであるから以下はさう思って読んで貰ひたい)で一同は是れからが愈よ峻阪を攀るのである、此處で予の感じた一節を書き添へて置くが夫れは常願寺川の水源たる真川と称名川を合する處を見ると真川の方は非常の泥水で称名川の碧潭に比すれば実に一見して大違ひのあるといふ一事である、どうか今度は其の土砂崩壊の現状を見たいものであると思った(此の真川の泥水に就いては廿六日の行程中に予が見聞した一班を書く積りである)


(図版2枚(「李家知事と田中参事官乗馬〓官先導の図」「一行の膝栗毛と小山官房乗馬の図」)


※『富山日報』明治36年7月29日3面


登嶽の記(二) 矢乾


廿四日(つゞき) 藤橋より山毛欅峠


▲六根清浄 さて一番に来たのは小金坂で茲に始めて杖の必要を感じた、次は草生坂でモー是からは平生健脚自慢の先生方も喘ぎが激しくなって来た、一人がドッコイショとやると一同之は応じてドコッヨイショと遣る然るに或人がドコッイショではない六根清浄が本当だといふのでソリヤ面白いと言ふ事になり大笑を遣って夫れから登り坂に向ふと六根清浄と遣ったが遂には略してロクコンショと遣るようになった何時も此の音頭を取るのが浅村森林と西坂中新川であって坂になると六根清浄の懸声で勇ましく登った


▲佐藤氏と材木坂 其の内フト跡を見ると今迄一行の殿に居った佐藤青衿氏と早見分署長及び巡査の姿が見えぬこは変だ、佐藤君はどうしたらうと一行は暫く歩を止めると、軈て佐藤君はどうしても登れぬと云ふので山から戻って来た人夫を〓ふて負はれる事にしたとの咄し、夫なら一安心と云ふので又行を続けて今度は材木坂にかゝった種々の石材が積み重ねられてある、特にモウ其の絶頂と云ふ處には実に無数の角石材が累々と積み上げられてあるのは一奇観である


▲熊野権現堂の小憩と模範林 材木坂を登りて熊野権現堂と云ふ處で一喫した、芦峅から立山に登る途には一番から三十三番の観音を安置してあって此處にも何番かの観音が安置してあった互に汗を拭ふて巌石に腰を下すと中林写真師は早速小刀を取出して側の欅の目廻り一丈余と云ふに『明治三十六年七月富山県知事李家隆介一行登山』と彫刻するとオイ巌頭の感は御免蒙ると云ふあれば其の形は児島高徳の俤があるが蓑で無いのが不足よとヘラズ口を叩くもあった處へ早見五百石は巡査と共に駈付けて佐藤君は体の工合が悪いと云ふので人夫に負はせる事にしましたと長官に報告した、マア夫れで一先安心したが佐藤君一人ボッチでは予が危むとイヤ社司の栂野君は初めから負はれているので矢張跡だから大丈夫との事、立山の社司先生すら負はれて登ると云ふのだから身体の工合の悪い青衿子の負はれたるのは無論だと云ふ内浅村森林は川一ツ隔てた対岸の禿山を指さしあれば上新川郡大山村領の模範森林なりと案内するに李家氏先づ望遠鏡で凝視し予も望遠鏡拝借と出懸けたが、禿山に何か苗木やうなものが植って居たやうである


▲美女杉と禿杉 夫れから美女坂、断切坂を過ぎたが此の間は泥濘脛を没する計り定めて前日来の降雨の賜物であらう、実に面倒な賜ものあったものである、途中立木の多くは有名の立山杉の目廻り一二丈もあらんかと思はれるものも林立し、處々に一二丈程上って切った古株が澤山ある、是れは旧藩時代或る盗賊が雪中加賀公の御用木と称し伐出したものゝ古株であるげな、處が此の古木は皮は腐朽して眞のみが残って居るのであるから非常に立派な用材になるのである、されば林区署でも之れ払下げる事になったさうで中には立った儘で挽割て取ったのも澤山見受けた、其の木目の良い事、好者に見せたら振ひ付く程のものも多かった、夫れから龍宮に通じで居ると云ふ穴『シカリバリ』と云ふを過ぎて禿杉の前へ出た此の杉は目廻りは二丈もあらうか丈は僅々二間計り禿の様な形に枝か捌けてあって名に背むかぬ珍らしいものである、此處で小休して中林写真師が撮影にかゝった、根方には小山君、其の横には先導の佐伯信忠氏熊の手の革で製した煙草入を手にして写って居る、此熊の革に就いて面白い事がある、それは最初まだ名を聞かぬ内には李家君が此の嚮導先生を呼ぶにオイ熊の先生と言った事である、其の後は多くの場合熊の先生で通った、撮影終ってから此の熊先生禿杉の裂け目を示し雪の為に斯ふ裂けた時に二枚の小切れがあったからそれを取って一枚は某君に送ったが、一枚は知事に献上したいから額面にと云ふて居た


▲山毛欅平の清水と山毛欅峠の美人 山毛欅の多いので名のあるのか山毛欅平と云ふのに小憩した、此處には行手の右に入る三十間程にして非常に良い清水がある、夫れに喉を濕して宿で分捕って来た乾餅を喫し辿り着いたのは山毛欅峠である時に午前十時七分此處には山毛欅の立木を柱にし板で屋根を葺いた小屋があって兵隊上りらしい亭主に只ものとは見えぬ廿四五の美人とが茶屋を初めて居る前日漸く来たとの事で鍋も釜も無いから口の附いた鉢で湯を沸して一行に飲ませやうとして居る、尤前雪も此の鉢で米を炊いたとの事、竹の柱に笹の屋根仮令野の末山の奥……と云ふのを実地に演じて見やうといふ理想家と見える聞けば此婦人は富山生れとの噺し但是は佐藤政論が跡で聞いて来たのである、一行は此處にて間食と極まって居るのだから、腰にした握り飯を取出してパリつくので中には荷物を解かせて葛捏きを遣って舌鼓を打つのもあり、四角な箱に入れた水を請ふて飲むもあり各自腹を肥やしてイザ出立と云ふ時佐藤政論が負はれて来た、マア機関車が付いて居るから大丈夫佐藤君萬歳ヤワヤワ遣って来玉へと其儘出発した。


※図版2枚「禿杉(中林写真師撮影縮図)」と「山毛欅峠の茶屋」※中林喜三郎(富山市荒町)


※『富山日報』明治36年8月30日3面


登嶽の記(三) 矢乾


廿四日(つゞき) 称名の瀧より弥陀ヶ原


▲稱名の瀧と雷雨 是からカリヤス坂を登るのであるが是れは有名な称名の瀧を見てから登るから軽り易く登ると云ふ意味だとは嚮導先生の講釈マア此處で一おうく遣らうと中林写真師折角撮影器を持出し断崖絶壁危険千万の岩角に器機を据えて撮影した、夫れからカリヤス坂を登ったが中々カリヤスくない六根清浄の声が頻りに起った、行々桑ヶ谷と云ふに下ると、今迄快晴なりし天遽に掻き曇り山の半腹に當って雷鳴する、それ雨がと云ふ内豆のやうな奴がポツリポツリ、雨具を中宮に預けた連中は遽に困る谷間の清水に渇を醫し暫く待合せて雨具に身を固め篠突く雨を冒して行進する其の困難今思ふも疎然とするのである、時に午前十一時二十分、さて是迄は谷間を渡る鶯の聲や、耳を劈く杜鵑の聲さては大木抔に心耳を慰めたか、モウ海抜五十尺もあらうかと云ふ處に来ては高山の本音を吹きかゝるので植物も趣を変し漸く偃松の一種及びカンバと云ふ木、名を知れぬ草抔を見るばかり、杉も漸く影を没し鶯も杜鵑も鳴かぬ處へ雨の道中と来ては誉めたもので無い、夫から前坂後坂を上り稱名伏拝原と云ふに出た頃は雨も漸く小降になり、雲霧も去って稱名の瀧は忽ち対岸の峻嶺より布を酒したらん如く落下するを見出された、其の絶景云はん方なきに加へて雨後の山色何とも云へぬのである、抜目なき中林氏はスグ撮影した。


▲ドン 時辰儀を検すると正に正午富山ならば午砲の鳴る頃と李家氏の発議で一二三の合図で衆口一斉ドンと遣る其の聲谿谺に響く蓋し雄山の神霊も此の勇壮なる一行に満足を表されたことであらう、是れも亦山行中の一興であった。


▲松本氏の斎戒沐浴 是より先の事であった六根清浄の出た時、松本五課が『一行の内尤も清浄なるものは我だらう我は出立の前夜鹽湯を以て身体を浄め斎戒沐浴して出立した』と言ったので一行中の悪口屋は直に君の斎戒沐浴したのは前宵だらうすると其の晩は又水盃で妻海沐浴したらう、デは清浄とは云はれぬと夫から談話は花が咲いて終には李家君までが斎戒先生どうしたと云ふやうになった


▲彌陀ケ原雨中の晝食 行くこと里余彌陀ケ原に出た、三里余もあると云ふと山上の平原、平原と云っても行手は爪先上りで此富山辺りから望むと前山と前山の間に平行して見えるのが夫れである、一行は此の平原の地蔵堂と云ふので晝飯をする事に極まって居る、否立山に登るものは大底さうする行程であるげな、此處は一方は佐渡を望む事が出来又一方は能登半島珠州の岬や加賀の河北潟をとも瞰下ろし其の先までも見える程で富山、神通川、馳越川、常願寺川、黒部川、早月川、庄川などは殆脚下に見へる處である、一同は〓近を指呼しつゝ岩間の清水に渇を凌ぎ握飯を噛った、此所には別に建物と云ふものも無かったが唯地蔵堂でもあったらしい、旧跡に古材の散點するを見た尤も本年を追って建築するのだとのこと植物と云って偃松の一種と種々の雑草、熊笹のみ、此處で人夫を待合せて鑵詰を開いた人もあったが小雨尚歇まず笠茣蓙其儘で雨中立すくみの晝食、一行の多くは髯武者迚も普通では見られぬ奇観であった、午食を終って地蔵堂を出発したのが午後二時、一刻も早く室所に着きたいとの一念で行手を急いだ。


▲彌陀ケ原の晝寝と突貫 一里程行く中雨は名残り無く霽上り一天清空日光は一行の前途を照して輝やいて居る前を望めば峨々たる峻嶺左手には大日山の雪の日光を映して居るのを見る又首を廻らせば北陸諸州の山川双眸の中に入て實に何とも言へぬ景色である、此時五分休憩の聲は先発の李家君の口を衝いて出た小高き丘に居を占め茣蓙を褥に一吹すれば嚮導先生川原のやうになって見える富山の市街を指し『神通川に股になって見えるのは馳越であらう、併も其の川幅が非常に広いのどうも変である』との話予は首をひねって『あれは井田川の合流する處に違ひない』と云へば直に望遠鏡の厄介になってオウ見える見えるアレは井田川だ、だが神通も余程増水して居ると見えて馳越にも水がある』との田中君の咄し、ヤア松本あれ見給へ君の妻君が立山の方面に向って手を合せて拝んで居るはと云ふは一行中の悪口屋、こんな事を云合って居る中、今迄雨に濡れた衣類も日光に出逢って追々乾くので實に気持が宜い、李家君、田中君、荒井君等は腹を日光に温める為め仰向になったが、暫くするとグーグーとの鼾聲立山の中央で白川夜舟でも有まいと云へば、松山君はモウ出発せやうでは無いかと一聲高いのに各目を醒し直に出発したが、雨後の芝生に茣蓙と例の草鞋の尻當てゞ休んだのだからかお互に尻の辺りはズブ濡れだ、特に睡った連中は肩の辺りまで濡らして居る、行手を望むと、小山氏と中林氏人夫は一里も向ふに休むで居る、何時の間にか先に出たのであらう、オウイオウイと熊谷直實擬の聲をかけて行く中、李家君は突貫せやうとの発議、宜しと一同ウワア……宙を飛ぶ元気忽ちにして先発隊と一集になった、是からいよいよ姨の懐の段。


※図版2枚「稱名ケ滝(中林寫眞師撮影縮図)」と「彌陀ケ原突貫の図」


※『富山日報』明治36年7月31日3面


登嶽の記(四) 矢


廿四日(つゞき) 姨ケ懐より室所


▲姨ケ懐 〓勢総て一行となり、時々時々オウと聲を合せて彌陀ケ原を過ぎ一の谷へは廻らぬことにして姨ケ懐に向ふた、両方ともカンバの木及笹の丈余なるが生ひ繁り晝尚暗き渓間を辿るのであって、今迄の雨に所々より落合った水と雪溶との水とは脛を没する計り、モウ今朝から歩行続けて疲労して居る上に此の陰気な道中堪まるものでは無い眉を顰めて一歩々々縫って行くと谷の真中に二間に九尺もあらうかと云ふ大石を見出した、近付いと見ると是れが所謂姨石と云ふ陰門石で真中には観音様が安置してある、一行は思はず噴き出し、女気の無い山中のことゝて暫くは此の咄で持切った、兎に角姨ケ懐とは誰が名付けたのであらうか、随分好者が命名したものと見える、〓を出てから谷間で一服してこれから前人の踵は後人の鼻に接する峻坂碁石坂を攀じ暫く行くと小松坂である更らに山又山谷又谷を越えて進んだが日が漸く没せんとする頃ともなったから、七時には是非室所迄と只一言もなく行手を急いだ


▲初めて雪を踏み鏡石の前に出づ 斯くて行く中冷気愈よ加はり山気肌に徹するやうになって来た、夫れも其の筈是より〓雪を踏むのである初めて雪に出遭ったので直ぐ雪を取ってボリボリとやった警官は李家君の為にサーベルを以て雪を採った、砂糖がと云ふ聲に応じて誰かゞ砂糖を出して一同に分配した其内鏡石と云ふ處へ出た、成程鏡のやうに丸く平ったい直径二間もあらうと云ふ石がある、中林君撮影してはと云ったがモウ天気は悪し、肝腎の器械を持った人夫が居らぬので、五分間休憩して直ぐ出発した。


▲室所よりの迎 夫れから阪又阪を越えて稍平になった腰掛るのに都合よき處に着くと親子と覚しき人夫室所から迎に来て居た、嚮導先生飯を持って来たかと云ふに握飯を満載した飯櫃を出す、人頭大の握飯を予と荒井君と二人で半分宛を平げ其他も室所の飯を云ふに海抜九千尺以上で炊いた飯どんなものかとの好奇心で各幾千づゝを喫し、アゝ是で人心地が付いた室所へは何里かと問ふと一里と答へた、例の五十丁一里だらうさう思って行けば大丈夫と迎の人夫中一人は跡へ残こし一人は予等と同行せしめた、かくて一同出発したがやがて遙に室所の見えた時の嬉しさ……。


▲室所 と云ふは立山に登るものゝ必ず一泊する處で不断住人のあるで無く、山開きの日から番人が出来て参詣人に便宜を與ふるのである、又奉幣使参向の時も麓から登れぬ時は芦峅の祈願所、室所迄来て、本社迄登れぬ時は茲處で祭典を行ふのである、建物はニ棟を接続して東西に長く建てられてあって一棟は五間に五間、一棟は五間に六間の長屋で加賀藩の二代目前田利長公が建築されたもので其の後幾回か修繕を加へたものとのこと柱は尺二位ゐの角で壱間毎に建られ四方とも三尺に五六寸位ゐの木を差し非常に頑丈に造られ屋根は柿葺イヤ舒葺と云ふものであるが板は非常に厚い、こんな事にして置かねば迚も持てる筈のもので無い南に千仭の谿があって石垣が造られてある一行の茲處に安着したのは午後の七時五分、今朝五時芦峅を出発してから時を費やす十四時間強行程九里半とはどうしても眞ものとは思はれぬ、無論此の中には例の五十丁一里と云ふのが二三ケ所含まれて居るのである。


▲明朝が気支はし 此處に来て前面を望むと右手の前面には浄土山、左手に別山中央に立嶽雲霧深く垂れ〓めて絶頂は見ることが出来ぬ、只屏風を立たらん如き断崖絶壁草も木も無い石〓本社迄は一里八丁と云ふ、成程是れでは室所丈けで戻る連中のあると云ふのも無理の無い事と思った、それはさうと明朝の天気が気支はしい、麓で佐伯十百作に聞いたのでは靄が深くかゝりて行手の人が見えぬ位ゐの時は必ず翌日は天気と云ふ事であったのに今日は未だそんな事に會はぬ、コはどうだらうと云って居ると一行中の佐伯属は流石芦峅人立山通丈けに峯の雲霧の工合では明日は必ず天気案じる事は無いと云ふ、跡で栂野社司が来たから雄山の神に祈り玉へと云ふと社司は早速神籤を下して天気大丈夫といふ流石はお商売柄


▲室所に入る 一行は室所の南側の入口に向ふと一番に目に入ったのが『妄りに入るべからず止むを得ず入るものは火の用慎肝要』との札御尤千萬、此の建物が焼けては再建は些と覚束なからうと首肯き草鞋を解いて室所に入り一夜を茲處に明かすことになった。


※図版1枚「室所より峯本社を望む(中林寫眞師撮影縮図)」


※『富山日報』明治36年8月1日1面


登嶽の記(五) 矢乾


廿四日の夜 室所


▲一行の居所 草鞋を解いて足を洗ふに切れる程の冷たさ、漸く這はん許りにして室所に入ると奉幣使の一行の為には東部の一棟の半を割いて雄山神社の定紋鷹の羽違の紋打ったる幔幕を張り廻し裏付き縁取茣蓙を敷詰めてあったが一行の人数が多いので遂に一棟全体に幕を拡げる事になった尤も東の方二間は〓厨所に當てられ板囲いをしてあり入り口の一間は通路になってい居るから幔幕を張廻した一行の座所は三間に四間である、其の東の隅には六尺四方の〓囲炉裏があって李家、田中の二君が前面の正坐で暖を取って居る、其内おひおひ茲處に集って来て暖を取るあり、旅装を解くもあった、予も暫く〓囲炉裏で暖を取って一服したが、焚られた炭、薪共に空気の希薄な故か一向に焚えぬ只煙るのみで、ヤアこれやたまらぬ人間の燻肉が出来ると叫ぶあり、煙はいよいよ室中に充ち満ちて目も鼻も明かぬ、暫くすると非常に冷気を感ずるので早速、綿入衣と毛布を取出いて着たが、腹かと云ふので準備の麦麺や缶詰を開くもあった


▲室所の風呂 湯が沸いたからとの事に、李家君と田中君が相次いで浴し予も一浴を試みたが浴場は東北の岩窟に竈を設け厚一寸板で四角の浴槽を据え優に二人一同に入浴することが出来る、立山颪しが非常に寒いので莚を張って風除をし上も莚を〓ふてある、湯に入ると首を出す事も出来ぬ程の寒さ、是れが土用四郎の日驚かざるを得ぬでは無いか


▲使ひ水 室所東手の浄土山続きの方向から谷川が積雪の下を潜って流れて来る其の谷川にはズツっと七五三縄が張れてあって何となく越中第一の霊場との感を深ふする、其の水の冷たさは又格別口を嗽ぎ顔を洗ふも全身に沁み渡る、迚も手拭など絞られたもので無い、此の水で只煙るのみの薪で風呂を沸す随分骨の折れた事であらう、此の谷川が瀧のやうになって南の谷へ落る岩角に小さな小屋が川を跨いで建られてある是が便所で折々黄金の瀧が出来るのである


▲佐藤政論と栂野社司 一行がお湯を済して到着より約一時間午後八時と云ふに表てから大超声に『藤田君々々居るか何處だ』との声慥に佐藤政論である『オウ着いたのか寒かったらう一ツ暖り玉へ』下界は土用の四郎で暑い暑いと云って居るのにこは又流石に海抜九千尺の高地である、元気はどうかと云へばモウスッカリ快癒明日からは大丈夫、一行各それは至極目出度いと相槌打つ、今迄噂さをしつゝ案じて居た李家君もマア安心したとの事、二三十分経つと栂野社司も安着したとの報らせ。


▲夕餉 日が暮れると蝋燭は點せられ、夕餉の準備が出来たとて膳を運ぶ、二人に折敷一枚是れも能くマア持って来たものである、勧めらるゝ儘に酒を飲んだが實に甘味い迚も富山辺りにない是れは空気の希薄な為水気が蒸発するからで、峯の本社で飲むと一層宜いとの咄、下物と云って皆麓から運ばれたのである、されば互に準備の下物を取出すもあった、暫くして立山名物薊汁をとのことに遣って見ると此の味噌汁中々美味薊と云っても非常に太ったものらしい、生来初めての馳走に預った


▲年越の蚤 佐伯属は神官や氏子総代等と共に始終斡旋の労を取りモウ就寝と云ふ時佐伯氏に依って毛布一枚宛を宛行はれた、李家君と田中君は爐の北側、佐藤政論は西側、小山君と中林君と東側、荒井一課、清水古城と予の三人は三人懐を遣らうと云ふので田中君の西側に毛布一枚を敷き一枚を折って枕とし三枚を着て寝たが疲労れて居るので宵の口はグッスリ寝込んだが〓〓目が醒るとどうも蚤が〓へて寝られぬ、予一人かと思ふと皆ムクムク動いて口説くこれや失策った、毛布で体を巻くが宜いと今度は〓合を解いて別々になって毛布で体を巻いたので稍蚤を防ぐことが出来たが至って小さい蚤で併も其の〓すことの激しさ〓嗤にならぬ、跡で聞けば年越の蚤だとの咄自今登山して室所に泊る人は注意するが宜い。


▲晨起 三時頃から目が醒めて巻煙草を吸って居ると、李家知事も目が醒めた様子蚤の事など咄して居る内おひおひに頭を擡げる内東がほのぼのと白んで天気の様子愈々登山が出来る事と勇気百倍直ぐ例の谷川で手水を使ひてそろそろ旅装の仕度にかゝる中朝餉を済まし、例の笠茣蓙に身を固め神官、氏子総代中宮と共に室所を出発したのは午前六時二十分であった。


※図版1枚「室堂にて一行入浴の図」


※『富山日報』明治36年8月2日1面


登嶽の記(六) 矢乾


廿五日 本社の例祭


▲本社参向 此の日は李家知事が奉幣使として雄山神社に参向さるゝ事とて用意の禮服や幣物は人夫に擔はせ氏は外套に中折帽、脚絆、草鞋前日の如く田中参事官以下はフロックコートの上に笠茣蓙金剛杖の扮装、予等は別に用意無ければ前日の儘にて午前七時と云ふに室所を出發した、出ると直ぐ雪を踏む事半里余、最早雪も無ければ草木も無い、巌石累々たる峻阪にかゝった、同行の田中、清水両君、予は先ツ一服してから跡から来る一行を待ち受けて居ると登る途が異って、知事等は向ふの小丘やうの處に小憩して居られる、然らばヤワヤワ登らうといふて三人で一の越まで登った、此處に来た頃は他の人々は皆な後れて予等の一行三人のみとなった、見上ぐれば断崖屏風の如く、瞰下せば千刃の谿〓加ふるに霧が深くして咫尺も弁ぜず、先行の田中君時々オウオウと聲を懸け此方も之に應ぜるが暫くすると雲に隠れて更に姿が見えぬ予は此の〓戸の神に拝禮して二の越に向ひ突兀たる巌石の間を喘ぎ喘ぎ縫って登った此辺りの険峻は名状すべからずである三の越に登った頃は笠の裏にバリバリと音がして霧を吹き付け時々雨と思わせる位ゐ漸く辿り着いた時清水君は水筒を出して苦味チンキを加へて飲む予も一杯乞ふて喉を湿ほして居ると前日予等一行と前後して登って来た廣島県人と云ふ二人の禮者、共に金剛杖のチャリンチャリンと云ふ〓つき鳴らし、白衣に『一切衆生』『悉有佛性』『如来常住』『無有変易』抔とあったかどうだか異様の文字を書き丸に金の字を書いた札を頸に懸けて遣って来た、處が此の二人は日本国中の霊山霊場を廻る連中足は早く無いが中々頑健で何時の間にか我々二人を追ひ越した、マアユックリ登るまいかと吊り下げてある鎖に縋って登って行く中人の通った事の無いやうな處へ来た見上げると雲霧漸く薄らぎ微かに日光をも見る様になったので、五の越にある三角が見える彼を當てに登るべしと尚ほ勇を皷して三角に着いて見ると三角の西側は毀たれて木片が其處此處に散乱して居る、多分昨年の山仕舞後雷に打たれたものだらうとの事此處に来てオウと聲を懸けると絶頂本堂の椽側に腰凭けて居た田中君オウと答へた、二人は直ぐ本社に登った、田中君の本社に着いたのは七時四十分、例の二人の禮者が着いたのが七時五十分、予と清水君の着いたのが八時五分で兎に角一行中の先登第一が田中君、第二が清水高岡と予である、暫くして新潟県人と云ふのが五六名来た中に一人の女性も居た我々の巌角に隠れて嵐を防いで居る内李家知事の一行が着いた、この時八時廿五分である、斯くて一行五ノ越に集まり一服して居る内雲霧漸く〓〓拭ふ〓如き快晴となった、其時第一に目に入ったものは南面に断崖絶壁で是れは又予等が登って来た路とは大違の険阻茲處が即黒部川の水源になる處である、おひおひ晴れるに随って信越濃飛の山川が見えて来る左手には浅間山が噴火の光景手に取る如く指呼の間にあり、右手には富士山を望み得る筈であるが此日はそれが全く雲に遮られて見えなんだのは残念である、此時中林写真師が折角器械を取出して五ノ越から本社の社殿を撮影した、此の間各神職連は社殿の装飾をなし神饌を〓度して居た〓、やがてモウ宜しと云ふに、李家君は禮装に改め、神官諸氏亦禮装をなす一行は悉く草鞋を解いた、是れは本社に草鞋の儘を禁ずるとの事であるからである


祭典 一行用意を終ると五ノ越の絶頂に併列し先づ祓主進んで祓詞を奏し大麻行事あり次に奉幣使初め一同峯本社に進み洗水の式あり(此間峯社前にて越天楽を奏す)次に着座次に開扉(此間阿地米神楽)次に献供、次に属官(松本属)奉幣を神前の脇に置く、次に斎主奉幣を神前に奉る、次に斎主左の祝詞を奏す


祝 詞
天進里進里立都高支立山乃此乃大峯爾鎮座須縣社雄山神社乃大前爾社司栂野安輝謹美敬比恐美恐美母白久年毎乃例祭依利天皇乃大御詔乎以百是乃縣乃縣知事李家隆介〓大御使登天之大幣献良令米玉布故禮種々乃多米津物乎取添此神祭奉仕乎平久聞食天朝廷乃大御代乎常磐爾垣磐爾巌志足長乃大御代登奉護里坐志大百官人等乎母活志八桑林乃〓久令立榮玉比敷坐須此乃立山乃三峯八谷乃谷々與利佐久那多利爾〓禮出留川々乃水乃荒禮溢留事牙久和支水乃足水止田畑豊加爾受左天勢奥津御年乎八束垂穂爾實良令米三栗乃越乃國内乃人々乎始米遠支國郡與利此大峯乃宇都乃大前爾忝集化恩頼乎奉仰利奉拝禮留人々波言牟母更奈利天下万民乎愛美大神乃神姓乃随狂神乃為牟悪事乃男女我身爾寄利障留事〓久追避介坐天知良受悪支神爾誘波禮悪道爾階牟上為留輩乎忽知爾救比揚介明支正支道爾入良令米天生出留日本男子乃雄々志支猛支日本心乃豪胆久直支正支國民止〓左令米玉比世乃中乃人倫乃曇留事旡久月爾年爾日乃本乃此大御國乎令〓榮守里玉比大神乃大稜威守令輝伊豆乃霊乎幸比玉辺止奉仕爾依利洩禮落過津事乃有牟婆乎神直昆大直昆爾見直志聞直志坐天安久聞食世止恐美恐美奉〓言竟久止白須


次に奉幣使李家知事献玉串拝禮、次に斎主栂野安輝献玉串拝禮、次に属官一同拝禮、次に祭官坐禮、次に神楽、次に撤供、次に直會、次に閉扉、次に退出


立山本社及一行撮影


「立山本社及一行撮影」(中林写真師撮影縮図)
『富山日報』明治36年8月3日1面


▲直會の景況 祭典終って土器盃で神酒を戴く下物はするめを生で噛るのである、初めの中こそ行儀も作法もあったものなれ遂には一同の舞禮講海抜九千九百尺の絶頂で此の大酒宴下戸を上戸も甘露々々と舌鼓一行中の上戸田中君を始め李家、浅村、清水の諸氏各敢て大盃を辞せざる側だ、下戸の松山君は神酒徳利を持って斡旋して居る、神官諸氏又頻りと勧める、臍の緒切って初めてこんな愉快な酒を飲んだと云ふあり、笑ひ興ずる聲天にや届かん、聞く去る十六年國重知事奉幣使として登山の節は洗水桶を冠って五ノ越で踊った事があるげな、今度は流石に踊った連中も無かったが愉快は愉快に相違ないのである、軈て一般の参詣人にも神酒を戴かせた直會終って一行は積上げられてある本社の石垣の上下に居を占めて撮影した、但し神官も栂野社司始め各此の図中の人となった


▲峯本社と開山の由来 立山の略縁起として社務所より配付するもの其の他各地にて散見せしもの多ければ事の序に其の大畧を記して置く

人皇四十二代文武天皇大宝元年辛丑二月佐伯有頼卿越の郡主として文武天皇の勅を蒙る峯本宮、中宮(芦峅寺中宮寺云々と云ふ事縁起に見ゆ蓋し合力を中宮と称する之に濫觴せしものか)初宮を造営す佐伯は景行天皇第四王子稲脊入彦命の苗裔止四位大納言佐伯有若左衛門有基越の中国に上り布施院犬山城に居り同四年礪波郡三歩市城に隠居すと是より先嫡男有頼卿(後入道して慈興と云ふ)白鷹を放て野に猟して空中に飛翔するを追ふて立山峯に至り霊夢を蒙り 天皇に奏聞し 勅願宮として建立せりと蓋し有若、有頼二卿の山を開きし際は社殿建設なかりしと云ふもの實なる如し其の後文治元平大内冠者〓義 総追捕使源頼朝公の命に依って社殿を建立す、今現在する處の峯社殿は屡修繕を加へたりと雖も扉の如き尚ほ頼朝公時代の者ならんと云ふ、一説には天正四年四月中地山城主河上兵蔵忠勝と越後刺史長尾謙信合戦の節或は養和年中木曽義仲當國發向の時兵火に罹りたりとも傳ふ、其の後


明応三年十月足利将軍社殿修繕神領寄附天正年間佐々成政、慶長七年前田利長社殿修繕其の後加賀藩に於いて歴代崇敬浅からず其の寄進になれるもの多し、されば現今岩峅及び芦峅にて佐伯を姓とするものは有頼公が入道の時近習侍にて廿四人〓芦峅に廿四人は岩峅にて出家し岩峅初宮寺、芦峅中宮寺と称したりしが維新前迄は六十二坊の社僧東西に別れて〓仕し随って立山権現と称せしが明治三年三月神仏混淆と禁せられてより雄山神社を復称し神職を置くに至る


佐伯氏の嫡流は現に県参事會員たる佐伯有台氏の家にて氏の蔵する家譜に依れば四條大納言有若越中の國司となってより有頼入道慈興嫡男有頼片貝布施の郷を領し嘉暦年中片貝川の奥敷千丈山抜けの際卿村原野となり命を免れて萩の天神山に退き遂に吉野の里に移り松倉の城主椎名滅亡以来所領を失ひ佐々成政に至り領地を得て佐伯新左衛門と名乗り今の斎木村(往古佐伯に作る)に居る子孫連綿今の有台氏に至って四十九代なりと云ふ、蓋し本縣に於ける旧族なるべし、今立山紀行を綴るに際し立山開山の後を明にせん為め序ながら茲に記す


▲祭式の終了と帰途 峯本社にて祭式の始まりしは午前九時十五分にて九時三十分終了、十時廿五分帰途に就いた、此間佐藤政論、清水高岡及予等は五の越南側の岩間にある草や木を掘って持って来たが今尚ほ生々して居る、かくて愈よ下り阪に向ふと又格別登りから見ると早い、されど足は幾分か弱って居るのに岩角を飛下るのだから又一通りの困難で無い、此の時から神官の佐伯有久氏、同貢氏等が一行を嚮導し夫々説明をもして呉れたので意外に便利を得た事もあった


※図版1枚「立山本社及び一行撮影(中林寫眞師撮影縮図)」


※『富山日報』明治36年8月3日3面


登嶽の記(七) 矢乾


廿五日(つづき) 帰途、地獄谷から彌陀ヶ原




氷辷りの図i

氷辷りの図
『富山日報』明治36年8月4日1面

▲氷辷り 帰途一ノ越を過ぎると佐伯有久氏は佐々成政のザラザラ越と云ふ所が二ケ所あって一は直ぐ向ふで下りには却って都合が宜いとの事なに其處に行くと成程砂地で石片のみだから余程楽な、これを下ると直ぐ雪があって一面波状を為して居る其の傾斜の工合恰度氷辷りに宜い田中君と予が直ぐ茣蓙を敷きて辷り落る一行もこれに倣った 西坂君が中途で辷り止って居ると松山君が辷りて来て折重って辷り落だなと随分奇観であった斯くて次の阪も又氷辷りを遣り、地獄谷を廻るには此處から□近道と云ふ處には余程急斜面で幾十丈の谷間に下る處がある、地獄への近道余り碌でないがと云へつゝ氷辷りの愉快と代へ難く又辷り下りた小山君が護謨合羽の儘辷ってこれを破り予が途中に突出して居る巌石に衝突しやうとして足で蹴った為めに体□横になって其儘辷り落た抔は一の滑稽戯である、暫くするとミドリが池と云ふ右手に見賽の河原と云ふを通り積重ねられていある石を見てミクリが池と云ふ深サ幾十尋とも知れぬ碧水潭々たる谷間の池の横に出た


▲地獄谷廻り ミクリが池には主があって若し石でも投げ込むものがあれば直ぐに降って来ると言ひ伝ふとは佐伯貢氏の講釈 厚さ三四尺もあらうかと云ふ残んの雪が筏になって浮かんで居る、周囲には残雪がまだまだ澤山ある、茲處で地獄谷に行くと硫黄気が甚だしい為に黒の上衣や銀の類に変色の恐れがあるとの事に、フロックコートの上衣を脱ぐもあり、銀側時計を幾重かで包むもあった 地獄谷と云ふのは一面に噴火して居て彼地にも此地にも湯玉が沸え上りカチカチコチコチゴウゴウグチャグチャと云って居る 硫黄は此の谷一面で其臭気鼻を掩ふも及ばぬ、試みに流れ出で居る口に足を浸すと中々温い、其の湯玉の上って居る處は指も入れられぬ熱さ 暫く佇立して居ると足に熱さを覚える處が多い、杖を以て土中を刺すと其の口から直ぐ煙りが上って湯が沸き出るこんな處が芦峅辺りにあったら本当に金が沸き出るのだとは一行の評 此處には皆名があって鍛冶屋地獄と云ふのか一番強烈なやうだ下は小丘のやうな形になり煙を噴き出して居る、此處に上って見ると又頻りに噴火して湯が沸き上る處があって周囲は一面に硫黄だ傍に槌が棄てある 何の為かと云へば金沢人とかゞ来て此の硫黄を採るのだとのこと、其の他紺屋地獄、団子屋地獄、百姓地獄等種々の名があるとのこと、我々が此處を廻って居る内も、中林氏は頻りと写真機械を肩に彼地此地を撮影して居る一行が煙りの中に佇立して居る處も慥かに撮影された筈である。




地獄谷の図

地獄谷の図
『富山日報』明治36年8月4日1面

▲雷鳥 一行が地獄谷を廻って室所に戻らうとすると坂の上に雷鳥俗に寒子鳥の雌が雛を連れて遊んで居る、立山では此の雷鳥を捕るのを禁じてあるとの事で敢て人を恐れぬ特に雛を連れて居るから子の可愛さは禽鳥も同様と見えて一行が近附くも遠く立去ることをせぬ、田中君はドレ撲殺しやうと一行に先立って之を追ひ最も近いて手にせる杖で撲ったが、鳥には當たらず、杖が二ツに折れて田中君は岩の上に辷った、余程命冥加な奴であったと見える、其の内浅村君は其の雛の一羽を手捕りにして一行に見せる、恰も鶏の雛例のバフコーチンと云ふ鶏の雛に違はぬ、嚮導先生、貢君口を揃えて其の儘放してとの事に無論と其處に放すと親鳥は直に舞ひ下った。


▲室所の昼食 地獄谷を廻って室所に急ぐと今一息と云ふ處で遂に雨が降り出いた室所に待合せて居た中宮は笠の用意無い人の為に蓑笠を持って迎ひに来た、アヽ午後から又雨の道中かとの嘆聲は誰れ云ふと無く一行の口より出た、斯くて室所に着いたのは午後一時三十分腹が減って動けぬと云ふ連中も多かった。


▲室所出発 一行室所に着し午餐を終り旅装を整ひ例の扮装で室所を跡に篠突く雨を冒して出発したのは午後二時三十五分神職佐伯貢氏一行を上瀧迄送るべく同行した今度は登りとは違って多くは爪下りであるから自然道も早いだから休憩も少ない、サレど下り坂の行路難又一通りで無い、登り坂の六根清浄の懸聲は今度は巌角を飛ぶ毎にヨイショヨイショとの聲に変した先つ鏡石の前で一服して夫れから小松坂碁石坂姥ケ懐の険一息に彌陀ケ原に出たのは午後五時であった。


※図版2枚「氷辷りの図」「地獄谷の図(中林写真師撮影縮図)」


※『富山日報』明治36年8月4日3面


登嶽の記(九) 矢乾


廿五日(つづき) 廿六日朝 温泉


▲立山温泉 此の鉱泉は游離硫化水素瓦斯含有水にして無臭、無色、透明、稍甘味を帯び摂氏百度の温を有し諸病に効験あり、浴槽は湯川の両側に設けられ客室は長屋建四棟、本屋壱棟、別に離れて一棟の浴客室あり、例に依って薬師如来を祀れるもの一棟あり、毎年六月五日に開湯し、十一月三日に閉湯すと、目下の浴客は百名内外なりとの事であった。


▲湯壺へ突貫 立山温泉主杉田八郎右衛門氏は一行の為に特に斡旋し、準備したものと見えて其の歓待至らざる無く特に新畳を敷きたらんと思はれる座敷三流即ち六間を一行の座所として一番上の口の間には熊の皮を敷いて李家氏を歓迎し、次は田中君、松山君、予等三人の為めに座所を設ける抔至れり尽くせりである、旅装を解いて小憩する間もなく李家、田中の両君は湯に行くとのこと松本、荒井、松山、予等も続いて湯に行く、行って見ると湯が熱くて入浴出来ぬとの咄、流石に強情の田中君顔を〓しかめて入って居る、李家君は垢を流させて居る、予等が行くと熱いとの咄、さらばと試みたがどうも熱い、今新湯を充たせたのだからとのこと、川一ツ彼方より管で取ったのが此熱さ余程熱いものであらう、田中君も辛抱が出来ぬとて上る、其處で裸体の六人、浴槽の上り框に〓〓んで居たが寒いからたまらない李家君の発議で一同突貫との咄し、それ宜しからうと李家君の号令一二三で浴槽中へ大突貫 余程の奇談デアル、彌陀ケ原の突貫と照応して二大突貫と云っても宜からう。


▲異論紛々 斯くて一行各浴を終り、杉田氏が特に心を用ひし夕餉の饗膳、岩魚の焼きもの、刺身に舌鼓を打ち思はず数杯を過ごした、此の間も雨はますます小やみなく降る明日は到底出発六ケしからうイヤ出来る、なんでも予定の行程を遅らかすべからず、イヤ道が危険だなどとの聲大に起り容易に決すべくも無い其の内田中参事官と佐藤政論とが囲碁を始めた足は疲ても手と口は矢張元気なものである。


▲愈よ出発に決す 新庄警察署の福山巡査部長此日此地に出迎たが若し此の儘雨降り続く時は迚も途は危険で通る事が出来ぬ、是よりの途は多く常願寺川の岸なる絶所を縫ふて通るのであるが、若し山抜けでもあるか、さなくとも始終岩の崩れて居る處は雨の為め何時山抜けをするかも知れぬ特に谷川や常願寺川原を歩行する處は水量増加の為め迚も通れぬとの事、早見五百石署長はこれを聞いて長官に出発延期を申出る、特に今一つの困難は真川に架けられてある、吊橋が二三日前の出水に流失して目下工事中との事、此頃より晝夜兼行で工事を急いで居るが二十六日にはまだどうかしらん、午後で無ければ渡橋六ケしからん若し橋を渡れんとすれば是非とも籠の渡しである、此の籠の渡と云ふは一人宛籠に乗って通るのだから一人十分間はかゝるとの事多少の〓直があるとして一人五分間と見ても一行の人員三十人とすれば百五十分間を要する訳だから到底今日の行程を終る事は出来ぬ、とすれば先づ此地に滞留するに如かじと論ずるものも多かった、中、早や晝の疲れに白川夜舟の高鼾き、フト目が覚めて見ると午前三時過ぎ起きてモヂモヂして居ると、松山君と浅村君が目を覚まして互に小言でK語らいながら、困ったまだ雨が止まぬようだナーと巻煙草を燻らしマア湯に行って来るべしと三人は暗を冒して湯に入りアヽ宜い心地と戻って床に入ると、李家君が頭を擡げて、荒井君を呼び頻りと今日の天候を氣支ひ行程を相談して居る、夫れ是れする内一同が眼を覚まして又々滞留論が始まる其の間に李家君湯に入って戻り昨日上瀧から来たと云ふ人に聞くと邪魔なし、出発せやうと云ふ其の内雨も稍小降りになる一行を送て来た神職佐伯貢氏が出て来て只今雄山の神に祈り御籤を抽いた處晴天請合である、處へ杉田温泉主から夜前より人夫を督励し一睡もせず工事を急いだ結果橋が竣工したとの報らせ、では愈よ出発、若し途中でどうしても進めぬと云ふなら其時戻る事にしやうと李家君は滞留論者を慰め出発することゝなり、朝餉も早々に立山温泉を出発したのは午前八時五分杉田八郎右衛門氏は一行を吊橋迄送るべく同行した、途中左右の山々を望めば何れも突〓なる巌石、皆崩れかゝってる 常願寺 川の土砂流出し、年々川床を高め、水害を蒙る當然の事である、此の土砂〓止を遣らねば到底治水の實を挙げる事は出来まい。


※図版2枚「浴槽へ突貫の図」「立山温泉浴槽を望む図(中林写真師撮影縮図)」


※『富山日報』明治36年8月6日1面


登嶽の記(十) 矢乾


廿六日(つづき) 温泉より吊橋=常願寺川の水源


▲温泉より吊橋 午前八時五分杉田氏に送られ立山温泉を出発した、一行の扮装前日の如く佐伯貢氏同信忠氏は尚ほ一行を送りて同行し福山新庄警察署巡査部長及大山村駐在巡査と共に嚮導するのである 早見五百石署長 松山郡長は此處まで来ればモウ管外でお役目は終ったと語る斯くて一行は水源抔の噺しをしつゝ進行する内貢君が神籤の通り愈晴上って快晴になって来た、途の両側は藪の如き虎杖 苧獨活 林を為して居る一行中には虎杖を取って二本杖になった連中もあった 松山中新川は前日来二本杖で余程助かったとの事に然らば我もと云ふ連中もあったらしい、斯くて九十九曲坂に来て例のヨイショヨイショが始まって間も無く真川に架けられた吊橋に来た、来て見ると今全体の板を渡した斗りとの處 前夜来の人夫は尚ほ工事を急いで居る、一行は橋まで来て其の袂に一服した蓋し水源の土砂崩壊等の現状をも視察する為めである、時に午前十時李家君は折角彼地此地を廻って種々視察したが少し下手の右岸なる尤も土砂の沢山崩れて居る一段小高き巌石の上に立ち左顧右眄予等を麾き川の中心が時に依って此の辺に変するのだとのこと どうだ 土砂杆止も面倒だ一ツ紀念の為我々一行此處に立ち土砂崩壊の有様と共に撮影をせやうとの事 中林氏は知事の命に依り先程から坂の中央に居て頻りと兀山を撮影して居たが又更に一行を撮影し 吊橋も前夜撮影したのは知事が人夫と共に撮影した特に人夫と撮影したのは知事が人夫の労を慰する一方案として命ぜられたのである


▲常願寺川の水源 安政年間の地震に山崩れを為し今日に至るも年々崩壊しつゝある、大鳶、小鳶の両岳は誰も知る、湯川の水源である、獨り此の大鳶小鳶のみならず湯川の過ぐる處は両側の兀山皆土砂を流出するのである、温泉場より下流一層甚しく崩壊して居る、温泉より九十九曲阪に至る間第一に渡る泥川實に名の通り水は墨を流したらん如く土砂を含み、次に渡る出枝原川又朱を流したらん計りの土砂、其他大小の渓流悉く赤岩を混して居る是れ等は皆湯川に合するもの九十九曲を過ぎて柳原を字する真川の吊橋に来て見上げると左右の山又山悉く崩壊の跡を顕し其の右手にある山の如き最早大半を崩壊しつくす盡して山の骨を顕はし、尚ほますます崩壊せやうとして居る、此の真川は承知の如く飛騨から流れて来る常願寺川真の水源で、常願寺川の水源中尤も深いものである、此の吊橋の辺は水赤濁りになって居るには相違ないがまだ左程でも無い、併し是から下流でいよいよ土砂を含むのである、湯川が、真川に合流してからは實に水が流れると云はんよりは寧ろ土砂が山を為して流出するかの観があり、吊橋に来た時李家君予等を呼んでどうだ此の水源の有様是れではどうも富山県の治水難思ひ遣られる、土砂〓止も中々面倒な事業と嘆じたのは無理も無い實に予等も同感であった、一行中の誰やらが、實に徳久知事の云った通り水は流れるに任せて置くか宜いかも知れぬと歎じたのもあった位ゐ、兎に角我々素人では解らぬが水を治めるには先つ此の土砂〓止の方法を確立し、水源林地の養成今日の最も急務である、局に當る人は一日も早く此處に留意し相當の方法を講すべし然ざれば富山県は遂に身代限りの厄を免れる事が出来ぬ 頃日京地各新聞に散見した富山県身代限りとの記事〓を為さる〓するは県当局者及び県民の一日も忽にすべからざる處である。


▲川原の晝飯 斯くて小憩の後前後して吊橋を越え真川の左岸に渡るのである 見上ぐれば屏風の如き赫山 脚下には矢を射る湍流石の流れて衝突する音凄まじ 一行は此處より原村に至る間其の赫山の中腹なる径路を辿るのである一足を踏辷らば直に命の瀬戸際万事休すべき切所、息を殺し岩に縋って通る護良親王の熊野落も斯くやと思ふ計り實に胆を冷やせるのである、斯くて十一時廿五分常願寺川原に出て川中の大石に腰を下し用意の握飯を喫り岩間の清水に渇を醫し例に依ってドンを遣って出発した。


※『富山日報』明治36年8月7日1面(2013/06/02 09:40)


連載「お伽ノート」(1910年)

『富山日報』明治43年6月23日~26日、30日1面連載

お伽ノート(一)

▲飯でも薬でもない

児童の娯楽に供する為めに作らるる一種の小説をお伽噺と云ふのだ、児童が小学校で教はる教科書が三度の米の飯であるならばお伽噺は少なくともお菜か食後の菓子であらねばならぬ、但お菜や菓子である以上は必ずしも滋養分があるとは限らぬ、直接米の代用は出来ぬが、それでも喰って消化の助けとなれば血液を肥やす為めにもなき如くお伽噺も教育の補益となる許りでなく一種の精神教育を施こす事にもなるのだが、さればとて最初から腹をふくらす為めや消化剤を取るのを目的で児童にお伽噺をあてがふ者がありとすればそれは飛んでもない慮見違ひと云ふべしだ、唯甘すぎたり、喰ひ過ぎたり、胃腸を損ねるやうな菓子に気を付けて適度に用ゐさするに越したことはない、即ちお伽噺の価値はその健全なるや否やにある…と解り切った事を説明して置く

▲乞食でもお父さん

そこで教育上のお伽噺の功用を強ひて取り立てて云はふならば情育の発達と、智育の涵養、想像力の養成、それから言語の練習より延ひて意志の発表と迄もなると云ふ得る、例へば浦島が亀の子の虐められる所を救ったとか桃太郎が黍団子を振まったとか云ふのが即ち感情の教育となるし、人真似をして馬鹿を見た隣の爺さんの話を聞けば自然道徳上の観念が付いて来る、又風船玉に乗って空中旅行をしたの、魚と一所に海中旅行をしたと云ふ話を聞く間に自然界の観察心が出来るし同時に児童の心理上に想像力の心理著しいものである、最後にお伽噺は乞食の児でも親を呼ぶのにお母さんお父さんと云ふのが普通だ、而してこの叮嚀な奇麗なそれから正しい言葉が児童の言語に及ぼす影響は実に大したものである、かかるが故に従来第一流の文学者であってさへお伽噺を書くのにまだ七八ツの少年の会話に『僕は感心した』とか『実に残念至極さ』などとコマシャクれた言葉を使はせるなどは甚だ以て其罪軽からずである

▲子供らしく嘘らしく

罪の軽くないのはまだまだある、それは近来稍発育しかけた児童の人気に投ぜんとて盛んに人情的なお伽噺を書く人だ、小学生が同志討ちをやるの、小僧が大賊を組み伏せたの位はまだしもだが、義妹を描き従妹を描いて異性に対する観念や人情上の繋累の紛れを描く事に努むる熱心な大人らしい事実らしいお伽噺の行はれるのは、雑誌を売る為めの所謂雑誌主義の然らしむる所とは云ひ大に注意すべき趨勢である、お伽噺は児童の讀物飽迄子供らしい噺、嘘らしい噺であるべき筈だ

お伽ノート(二)

▲お伽大家の事業

お伽噺を大別すると伝説口碑及び仮作談の三つとなる、その仮作談を更に分けると、桃太郎の冒険的、イソップ物語の喩訓的、鼠の嫁入の諷刺的、分福茶釜の座興的、中将姫や松山鏡の如き人情的、ロビンソン漂流記の科学的等に分類出来る、巌谷小波氏の如きは昔から之等の各種を一丸に鍛え上げて凡ての要素の含ました完全な創作に努めて居らるゝ、其試作こそ十六年以来未だ欠けた事のない少年世界の巻頭のお伽噺である、が惜しむ事には実際現時の文壇や教育界が此の巌谷氏の苦心に左程の注意を払はず却って同氏が第二の事業とも云ふべき日本昔噺や世界お伽噺に於ける各国の口碑伝説の紹介の方が遥かに歓迎されると云ふのは頗る味はふべき点であらう、尤も獨逸のお伽大家グリンム兄弟の名を成したのも矢張其創作ではなくて國中の口碑伝説を蒐め廻った功績にあると云ふ

▲骨董品が玩具にならぬ

成程口碑伝説の生命は永劫である、小説に時代物の尊重さるる以上にお伽噺中に此の國民性の発揮した國々の口碑伝説が尊重さるべき筈、然し子供の玩具は獨楽や紙鳶が安全だからとて新案の汽車や自動車のおもちゃを排斥する事が出来ない、却って従来の玩具を基礎として改善を加へ或は新たに考案を施こして盛んに完全な有益な、時代の進歩に伴ふた児童の娯楽品の製作に努めなければならぬ訳だ、それと共に旧来の玩具でも五月節句に嫁の尻を撲つ菖蒲の如き児童に持たして却って害になる様な品は速かに葬むり去るべきものであらう、不肖年来越中の口碑伝説の蒐集を心掛けて居る、が多くは此嫁の尻を撲つ玩具に等しきものばかり、老人に見せたら悦こびもしやうが、児童の玩具は骨董品では間に合はぬ、せめて麦藁の馬でもよろしいから是非郷土趣味を含み乍ら子供に持たして悪くない口碑を掘り当てたいと努めて居る

お伽ノート(三)

△西洋と日本の比較

従来の西洋のお伽噺と日本のお伽噺とを比較すると西洋のは概ね放胆的で積極主義を取って居る、日本のは概ね消極的で、勧善懲悪主義で、因果応報的で、殊にお爺さんお婆さんが主人公になり、子供が副となり従となって居るのが多い、此理由は西洋では早くから子供の世界を幸福ならしめようとて児童本位で出来たも通れものが多いに反し、日本では道徳の標準が忠孝本位で『だから悪いことはならぬ』とか『だから欲ばってはいけない』と云ふ所謂だから主義で出来たものが多い為めだと云ふことだ尤も以上の比較は何れも最早一國の口碑となった話の事だ、今日日本で盛んに作られる仮作談に至っては正に反対の趨勢で、却って忠孝本位の美点を蹂躙し破壊して迄も児童の好奇心に訴ふる作物の少なくないのは注目すべき現象である、

△子供を慰みにする作家

お伽噺は積極的で、向上的で、それから放胆的であるべく、又是非主人公は児童なるべし
など、料理の注文か何ぞの様に注文されては碌な作物の出来る筈もなからうが、さればとて『子供の慰みになるものなら此方でも慰み書きだ、眼先が変って大きな事をさへ仕組めば宜しい』などと頭から子供を軽視して書くものがあるとすれば、実以て聞き捨てならぬ事だ、保母や子守が寝転んで居て子供の伽をするのと同じ話だ、お伽噺をお道化噺を同様に心得て呉れる人が、子供を敬愛する國は栄え子供を軽視する國は滅ぶと云ふ事を知らぬ人だ、

△お伽噺の潮流

静かに観望したらば現今少年雑誌の為めに幾多の文士が不真面目に執筆されて居る仮作談と雖も何時か派が出来、流儀が出来て、又自ら変遷して行く潮流の研究すべき問題があるであらうのに、遺憾乍ら我が文壇は未だお伽噺に対して批評眼を開く雅量を有たない、近い話が昨年文壇を騒がした文章世界の『文壇鳥瞰図』に、お伽噺は小波の獨舞台、他に試みる者があったとしてもそれは何れも大人の読むお伽話を作るのみだと逃て居るなど余りにも酷い事だ

お伽ノート(四)

▲子供の悦こぶお伽噺

『継ツ子が一つ団扇の修理哉』『子は寝ても手の休まらぬ団扇哉』『居ない居ない、バァと笑はす団扇哉』以上は何れも名人の俳句である、何れも子供を詠み団扇を詠んでは居るが、然し三句各其の詠む人の立場の違う所に御眼止めを願ひたい現今お伽噺と名付けられて居る中にも『継ツ子』的なものと、『子は寝ても』的なものと『居ない居ない』的なものと三様あると思ふ『継ツ子』的を作る人は普通の文士や小説家で児童に同情のない人、即ち児童を第三者の位置から眺めて『あんな事をする、こうした可愛い遊をして居る』と感ずる位な人に依って書かれたお伽噺だ、この種の作は同じ立場の大人が見たら面白いに違ひないが御本人の子供に取っては団扇の修理をすると同様些とも面白くもおかしくも感じられない、……此頃何かで江見水蔭氏が云はれた子供に講話をする時分、劈頭先ず子供を笑わせ様と思つて『私は角力を取る事は得意ですが、お話をすることは全く下手です』と、洒落を試みた処が子供の方では笑ふ所か、却って成程さうですかと云はんばかりに感心して聴いて呉れたのには困ったと云ふ話、これが講話であったればこそ江見氏が困られたのだ、当てがはづれたのだ、作る方では講話と違ひ直ちに読者の手対へが知れない処から、勢ひ好い加減に作者の当推量で『これ位の処が子供は悦ぶだらう自分の幼い頃もやはりさうだった』位の処で筆を執????が、現今なかなか多いのだ、夫れから『子は寝ても』的のお伽噺はどうかと云ふに之れは此頃なまじっかな教訓お伽噺を作る人だ、こうしたものを子供に読まする必要がある、こう云ふ点は読ませてならぬ、と浅い 教育の杓子定規を標準にして作り上げ広いのびのびした子供の天地を強ひて狭めやうとする人の作物だ教室で読本の講釈をする口調でお伽噺を語って聞かさうと云ふ人だ、嗚呼是非ともお伽噺と云ふからには『居ない居ない』的でありたいものだ、自ら子供となり、子供の言葉を使ひ、子供と一所に楽しんでから筆を執る人の作物が欲しいものだ。

お伽ノート(五)

▲これからのお伽噺

将来のお伽噺は消極的なるべからず、因循姑息なるべからず、島國的精神を打破して飽迄大陸的精神の養成に努めざるべからざる、又例を俳句で行くとしやうか、『腕白や縛られ乍ら呼ぶ蛍』これだこれだ、お伽噺の主人公には宜しく此の腕白位な勇気を有たしむべきものだ、昨年聞いた例だが受売をしやう先づある処に雛鳶があった、外の兄弟は大きくなると五重塔に上らふ、山を超さうと望んでいるのに、此鳶は無暴にも天に上らふと考へた、巣立ちしてから早速天を目掛けて出掛けたが直ちに眼が眩んで落ちて了った、然し此奴はなかなか屈せぬ、三度も四度も失敗の結果、到頭おしまひに天に上ったと云ふのは近代の思想から生れたお伽噺これが若し従来の日本で出来たならば屹度『眼が眩んで落ちて死んでしまひました、だから無暴な欲は出来ません』と来る処だ、将来のお伽噺は是非雛鳶を天まで上すべきである

▲お伽講演の事

今迄陳べた無駄話は不肖が現今のお伽噺は斯くあるべきもの、お伽作家は宜しくこれ位の心得であらねばならぬと信じた侭を陳べたに過ぎぬ、が詮じ詰めれば、子供の教育は学校の先生や家庭の父兄許りに委すべきものではない殊に子供を度外視し、子供を玩具にするとは甚だ不心得千万である、早く大きくなれ、早く学問しろ、早く一人前の人になれと、子供の成人することのみを急いで強ひて子供の時代を短縮し、軽視ずる様では國本培養上実に嘆はしき次第だ、我が第二の國民は是非尊重してやらねばならぬ、優遇せねばならぬ、子供の天地は今少し大きく真面目に注意を払わねばならぬと云ふのだ、近日中にお伽講演に来県する久留島武彦氏の講演の主旨も亦此処にあれば、吾々同士の今度設けた富山お伽クラブの主旨も何れは之れに過ぎないのだ(完)

【解説】富山お伽倶楽部が明治43年7月3日に発足する直前に、大井冷光が『富山日報』に書いた評論記事(5回連載)。富山お伽倶楽部発足のすぐあとに書かれた久留島巡回講演同行記事「お伽多根萬記」(6回連載)とともに、上京前の富山時代の児童文化に対する冷光の考え方を知る上で重要な史料である。この時点で、お伽噺や児童文化への理解は相当高いレベルにあったことが分かる。特に、お伽噺をお菓子にたとえる「お伽噺=お菓子」論は、巌谷小波「嘘の価値」『「婦人と子ども』6巻8号(明治39年8月)に既に書かれているもので、冷光が巌谷の影響を強く受けたことを裏付ける。

「お伽噺=お菓子」論は、2か月あまり前の『富山日報』明治42年4月13日少年欄のコラム「スケッチ」でも分かりやすく子供向けに記している。「取れば取る程渉れば渉る程面白いものは雑誌である、雑誌は書斎に於ける好侶伴、教科書に倦んだ頭をチョイトそらして口絵を見るのも愉快なれば雨の日曜を冒険小説やお伽噺を読んで暮らすのは殊に好い、然し諸君雑誌はお菓子である、おいしいものには相違ないが飯の代りにはならぬものだ、されば諸君は三度の食事を止めてお菓子許りを食べる日の無い以上は雑誌ばかり読んで教科書を読まぬ否学課の復習をせぬ日はこしらえ給うな」(2013/10/06 23:37)

評論記事「理想の花賣児」(1910年)

理想の花賣児

冷光

◎子供に商賣気を躾け様とて朝の街を花賣りに出す富山に習慣は飽迄保存して置き度い、勿論僅かな弊害は有らうとも其年齢や、家庭に行き届いた取締りさへあれば毫も気遣ふに足らないのだ

◎而し現今の如く、賣る花の種類の甚だ単純で、仏壇に立てるお花しか持たないのは此習慣の今後衰微し行く原因だ、毎朝仏壇のお花を取り換へる様な家は幾程あるものか

◎そこで僕は思ふ、この美風を今後改善発達させるには第一賣品の花をモッツと豊富清新にする事、第二年齢十歳以上十五六歳迄の児童は少年のみとは云はず少女も亦花賣りとなす事、第三、花を呼び歩くに従来の泣言の如き呼び声を改めて持って居る花の名を明確に呼ばしむる事、尚ほ出来たら之を富山市独特の単純な曲譜を設けてそれによらしむる事だ

◎など書き立てると、架空な愚論と嗤ふものもあらう、然し之れが実行方法は毫も至難な業ではない、第一着手として貧民ん夜学校に、集まる児童に之れを試みさせ、其商品の供給は差詰県農事試験場より新しい西洋草花とか、此頃なら菊花とかを払い下げるのだ

◎尚ほ畢竟は夜学校で一定の花畑を設け、子供に花を作らせるのだ、斯うして一方自然物栽培の興味を感ぜしめ科学思想を涵養せしむるも宜からうし、一方之れを行商して市内の各家庭へ園芸趣味の促進の使者とするも悪くは無からう

◎若し朝疾い中から可愛い子供達が『ダリヤの花にコスモスの花、黄菊白菊雛菊の花は如何』などと節調宜しく呼ぶのを聞く様になったら富山の朝は如何に心地好い、所謂美的、詩的なものになるであらうぞ

◎子供に対する花の感化、朝起きの奨励、商賣気に躾け、それが更に大きく児童教育上に及ぼす価値の實に量り知られぬもにあらうと思ふ

『富山日報』明治43年10月23日1面

【解説】冷光の創作童話に「花賣少年」という短編がある。遺著『鳩のお家』(1921年)所収、WEBの近代デジタルライブラリーで自由に閲覧できる。郷里富山を舞台にした作品の中では「雲の子供」と並ぶ代表作の一つとしてよかろう。この創作のベースになったのが、明治時代に富山市で行われていた子供の花売りの風習である。この評論記事では、廃れつつある花売りの風習について意義を見直し具体的な改善案を記した。明治43年は地方紙記者4年目にあたる。冷光は子供に関する評論を新聞紙面にいくつも書いている。花に対する関心は、農学校卒業し上京して受験生だったころから続いていて、農学校の先輩で花き園芸に力を入れていた久田賢輝(読売新聞記者、明治40年死去)の影響とみられる。

花売りに関した小説としては、短編お伽噺「花売娘」とお伽小説「兄さんのお墓」という短編もある。「花売娘」は『富山日報』明治43年5月22日1面、「兄さんのお墓」はトヤマ新聞社が『トヤマ』第36号(明治44年10月11日発行)の附録「トヤマ少年」に掲載された。(2013/11/06 23:19)

2013年5月 7日 (火)

墨汁吟社の歩み

新派俳句結社「墨汁吟社」の歩み(明治38年~明治43年)
明治38年3月富山市で新派俳句の俳人が集まり、墨汁吟社を結成。舟木香洲・高木卯月・気賀蘇水・吉崎空水・五艘霞翠・亀坂占雷・笹川雷女・折橋霜葉など。会名は正岡子規『墨汁一滴』にちなむ。毎月1・3土曜の例会開催を決定。
明治39年1月21日二番町の旧石川屋支店楼上で例会。兼題は「梅五句」。雑誌『墨汁』2巻1号を一両日中に発行。
明治39年7月29日神江千歳舘で例会。兼題「夏休み」10句。
明治39年8月25日南田町の舟木香洲宅で例会。
明治39年11月10日※富山市総曲輪泉青葉洞で新派俳句の句会。舟木・五艘、其の他の諸氏集まる。高田浩雲も参加。
明治39年11月17日総曲輪の青山写真館で例会。兼題は「山眠る」五句。
明治40年1月5日『北陸政論』1月5日に名簿広告13人。泉青葉洞・蜷川酔眼光・亀坂立渓・金山孤月・高田稲光・瀧口甲児・武田一可・魚住渓花・舟木香洲・藤波自景・福井白井柿・五艘霞翠・廣島花渓楼。
明治40年3月29日総曲輪神田横町の青山写真館楼上で例会。兼題は「畑打」五句。
明治40年4月26日総曲輪神田横町の青山写真館楼上で例会。兼題は「木蓮」五句。
明治40年5月30日総曲輪神田横町の青山写真館楼上で例会。兼題は「木蓮」五句。
明治40年6月15日総曲輪神田横町の青山写真館楼上で例会。兼題は「蝙蝠(蚊喰鳥)」五句。
明治40年6月17日※富山市諏訪川原の五艘霞翠方で俳句会。幹事は五艘。
明治40年7月16日総曲輪の青山写真館で例会。
明治40年8月3日総曲輪の恵比壽庵で臨時例会。廣島花渓の送別句会。
明治40年10月23日※高田浩雲・舟木香洲・赤井蓼花氏が発起人となり、文芸同好会を結成。総曲輪の越川楼にて発会式。隔月1回開催へ。
明治40年11月18日青山写真館で例会。題は「紅葉」。
明治40年12月14日総曲輪の舟山旅館で五艘霞翠の送別会。
明治41年2月5日雑誌『墨汁』を再興することになり、15日までに舟木香洲へ原稿提出。
明治41年2月9日西四十物町の聞成寺で、故泉富喜氏の追悼俳句会。会員の以外に、井上江花・大井冷光・五艘三郎・高田浩雲が出席。
明治41年2月29日※総曲輪の高田範國方で稲光庵小集会。墨汁吟社同人が参加。
明治41年3月21日駅前の桜陽館で例会。
明治41年3月28日『墨汁』第1号発刊(西三番町墨汁発行所、8銭)。高田稲光「往診」、武田一可「耳の五分間」。野村嘉六、河北一郎。
明治41年4月19日呉羽山で観桜会・句会。武田巌作の送別会。
明治41年7月16日総曲輪の本多自転車店楼上に倶楽部。
明治41年11月3日八人町舟木香洲方で例会。
明治41年11月15日『北陸タイムス』に広告『香洲案 実用俳句手帳』(発行所・富山市八人町29墨汁吟社、15銭)
明治42年1月1日『北陸タイムス』新年の名簿広告に47人。久世柴の戸(秀治)、藍原疑汀(義定)、魚住渓花(渓花)、福井白柿(清三郎)、鶴見越山(立吉)、武田一可(巌作)、藤波自景(賢良)、舟木香洲(廣義)、内山緑雪(敬二)、瀧口甲兒(勝正)、高橋香寸樹(甲子郎)、牧野枕雪(巡幸)、大井冷光(信勝)、吉崎空水(淳成)、富川亀汀(芳太郎)、久世暁峰(新兵衛)、武内楓汀(晴一)、中田錦紗(為太郎)、赤井蓼花(時二)、井上江花(忠雄)、長澤潮庵(安太郎)、竹内水彩(正輔)、高田稲光(範國)、金山弧月(元之)、日俣愛松(八郎平)、河北一郎、吉武静夫、永守安太郎、白石桜魚(喜七)、深川兵之助、舟山滋二、田知本大夢(松次郎)、土生玄三、野村嘉六、重松嘉三郎、岩田荻浦(良太郎)、蜷川酔眼光(義正)、萩原椿川(椿川)、永井平助、田村無盡(武三)、横山秋鴻(四郎右衛門)、杉林豊次郎、利波文次郎、池内夜羽根(勝里)、旅家濤花(太四郎)、藤岡寒竹(繁雄)、若杉旅洲(亮吉)。
明治42年2月25日※富山文芸会が講話会。講話は文学上より川合牧師「ヨブ記」、吉武弁護士「日本文章論」、野村弁護士「文学と法律」、高田範國「改訂と文芸」。委員は野村・近藤・黒田・高田・竹内の5氏。
明治42年3月28日※富山ホテルで新聞雑誌記者懇談会。17人参加、慈善興行の文士劇計画を協議。
明治42年4月11日※富山市公会堂で富山文芸会発会式。
明治42年5月23日※富山市公会堂で富山文芸会講演会。博文館の巌谷小波と久留島武彦が講演。
明治42年7月16日楼街軟酔閣で例会。
明治42年7月17日桜木町1丁目の卜部南水方で例会。組織改編。会員16人。田村無尽・大井冷光・日比野正之・卜部南水・日俣愛松・萩原椿川・富川亀汀・高田稲光・福井白柿・蜷川酔眼光・水上不流・舟木香洲・竹内水彩・中田錦紗・赤江蓼花・黒田兎毛。「庵主よりそば、ビールの饗あり毛虫、夏瘦の二題を苦吟し蚊に攻められながら気焔を吐く更けて一時漸く散会」
明治42年8月2日河東碧梧桐の歓迎会。墨汁吟社発起。午後4時から島倉鉱泉で句会、舟木香洲、高田稲光、大内白月、中田錦沙、卜部南水、黒田兎毛、田村無盡、赤江読天、吉崎空水、蜷川酔眼光、久世柴の戸、萩原椿川。午後8時から花見橋畔八清楼で中村杉樹、竹内水彩、若杉旅洲、亀谷清輔らが加わった。11時過ぎまで。
明治42年8月14日県庁裏の越川楼で8月例会。題は「蜩」「花火」。出席は11人。高田寒水・高田稲光、月仙、蜷川酔眼光、暁峰・柴の戸・中田錦紗・空水・竹内水彩・舟木香洲・萩原椿川。高田寒水は帰省。志田素琴も出席予定だったが欠席。
明治42年11月12日大井冷光方で11月例会。題は「水鳥」「霜」。錦紗・冷光・柴の戸・香洲・稲光・蓼花・椿川・酔眼光・白柿・愛松・不流の11人参加。1時散会。
明治42年12月20日青山写真館で蕪村忌と忘年会。題は「蕪村忌」「年忘れ」。
明治43年1月9日秋山亭で新年句会。
明治43年2月19日西町の久世暁峯方で例会。題は「春の雪」。
明治43年3月30日総曲輪の高田範國方で初めての俳句研究会。
明治43年5月13日『舟木香洲句集』を刊行。
明治43年5月21日午後7時より富山市公会堂で富山文芸会講演会。野村嘉六が開会の辞、講演は黒田等「笑いの話」、高田庸将「色の話」。
明治43年6月20日長念寺で句会「梅雨」。
明治43年7月12日長念寺で句会。13人出席。可人、貧水、沖月邸、香芝楼など新顔。
明治43年8月13日総曲輪栂木下畏念で句会。題は「心太」。
明治43年12月18日富山公会堂で大井冷光送別会。富農倶楽部・富山お伽倶楽部の合同開催。弁護士、医師、新聞記者、軍人、農事家、実業家、俳人、画家など40人参加。

『富山日報』『北陸政報』『北陸タイムス』、スバル文化会編「富山芸術文化史」『スバル』(1939-1941年)による。※は関連事項。墨汁吟社の「吟」は正確には口ヘンに金が正しい。

2013年5月 6日 (月)

明治末期の中越文士・俳人人物記事



予の想像せる中越文士


          影法師

石割浩村 いつか蘆原有明が轉んで雪へ面形をおしたとき、北原白秋か悪戯に其上ヘマタ面形をおしたのにソツクリな顔の人で、常に観察の鋭い詩人の眼鏡をかけて歩く人だ。

池内夜羽根 正面から見ると立派な兵隊さんで、背後から見るとドウしても詩人とよりは見へず、右から見ると締りの無い滑稽家らしい顔で、左から見ると嚊にさへ兒を生し得ぬ程眞面目な顔の人。

小竹九米 キツト小波式の髯を何処かに生して居て、粂平内と久米仙人を等分したやうな顔で、決して五箇山で生捕った猿らしくない人。

大嶋絲柳 大人しい時は、眞山青果が活動写眞の婦人席へ藻繰込んで嬉しがる時のやうな顔で、怒った時は、川上眉山が今息を引取ると云ふ時のやうな顔。

吉岡介宇 近頃高田病院へ入院した患者で、病院から呉れる薬の独歩丸は喜んで呑むが、花袋散は一寸甜めて苦い顔をして捨てゝ仕舞ひ、ドクターに内證で藤村水を呑んで喜んで居ると云つたやうな顔。

高田浩雲 一寸坪内逍遥に似た顔で、健脳丸の大嫌ひな眼の馬鹿に大きい人だと思ふ。それで書斎に黒頭巾で巻いた鉢に藤村の藤を植え、鏡花の花を咲かせて眺めるのが好きだらうと思ふ。

根塚如風 お姫様がクシヤミをしたくなつたが、殿方ばかりの中へ座つて居たので、一寸戸迷ふたと云ふやうな顔の人。

舟木香洲 まるで銀のやうな髯が渦巻いて生へてるお翁さんで、朝か宵か知らぬが、兎に角明星か、昼日中ウツカリ飛び出したと云ふやうな顔の人。

日南田村人 雑誌や新聞に食傷したので、今ではスパルと萬が漸く咽喉を通ると云ふ病人だが、ウンと腹を減らして置いて時々大冊物で満腹するので、病気全快する時なく、ゲソゲソ云つて居ると云ふやうな人。

広井浩風 いつか武者修業に出た時、群馬縣あたりで一寸女を睨んだのが祟つて目が悪くなり、今では詩界の独眼竜と云つたような顔の人だと思ふ。


想像は即ち想像だ。一面識のない人を一面識のない者が想像したのだから當つても當らんでも、喜ぶべからず起こるべきだ。
※ここまで16日付


井上江花 随分振つた色男で、金沢女からチヤホヤされそうな顔の人だと思ふ、但しお尻が小さくてスラリとして居て、七圓八十銭のシルクハットを冠つたらモウ一段男ぶりが上るさうだ。

大井冷光 芝翫か宗十郎のやうな顔の人だと思ふ。しかし子供が好きださうだから世話女房が適役かも知れぬ。

大橋二水 光頭山から雪崩れて鼻下溪に積つた雪を胸を突出して眺めながら、何か云ひたさうな顔をして居るだと思ふ。

占部南水 利口さうでキビキビとした、まるでスリの親方のやうな顔をした人だ。

遠藤霜井 古い俳句の宗匠だと云ふから余程の老人で、只の座蒲団じや不可ぬから日本中の新聞を積んで其上に座り、寒いからと雑誌をウンと積んで風避けをつくり、古池や古池やと首を捻つて居るやうな顔の人だと思ふ。


【解説】

『高岡新報』明治43年1月16日3面、2月6日3面に掲載。明治末期に富山県内で活躍していた新聞記者や俳人の人物寸評である。『北日本新聞社八十五年史』(1969年)に転載されたが明治43年元日号と誤記されている。


執筆した「影法師」は、『高岡新報』主筆の井上江花か、記者の五艘霞翠である可能性がある。そのヒントは井上江花の評にある。もし江花が書いたとすれば、わざと自身を持ち上げているような評であり、読む人が読めば分かるようにユーモアで書かれていると見られるからだ。また、五艘霞翠が書いたとすれば、江花がかつて霞翠のシルクハット姿についておかしく書いたことへの意趣返しのようにも読み取れるからだ。ただ、五艘は明治42年12月末には北陸タイムスへ移籍しており、この記事を書いた可能性は小さい。「お尻が小さい」は、『江花叢書』第1集(明治43年1月15日)の「崑崙日記」明治41年に記述がある。いずれにしても、15人の多彩な人物の評をこれだけ書くには相当の観察眼と筆力が必要である。


気になるのは大井冷光に関する記述である。冷光は明治41年7月上旬頃に『高岡新報』から『富山日報』へ移籍した。「世話女房が適役(はまりやく)」というのは、恩師の井上江花から離れ、競合紙である『富山日報』主筆の匹田鋭吉に付いたことを皮肉ったようにも読み取れる。


見た人聞た人(四)

富山市 鹿島町 富山日報主筆 匹田 鋭吉

▲聞いた時……肩衣的ブル坊

▲見 た 時……ブラぬ華族様

匹鋭と言ふ文字が急迫性で名を聞くからに戦慄を余儀なくさする、雪堂も頭が凝る字である、演説会でも談話会にも乃至は青楼に遊んでも裃の皺を気にする側で、即処に数句の警語を操って一専威望に孜々たる人を思つて居たは見ね中の君処がホテルの懇話会に何ぞ計らん卓上花瓶の花よりも鮮かて、誰れとでも打解ける所、其座談中政治家の香が紛々して居る、黒髪の毛唐風に掻き分け有ると思って居た髭がなく美男子てある所は劇中の女形として申分がない


※『北陸タイムス』明治42年4月14日1面



見た人聞た人(五)

富山市 鹿島町 井上 忠雄

▲聞いた時……宗匠風老人

▲見 た 時……理想の教師

年の頃なら五十格恰位瘠形の小つくりな体格で、板垣式の白髪銀の如く、眼元には何となく愛嬌があって、其態度は飽く迄宗匠式で、風采などは殆ど木石の如うであって、其癖せ青年が大好きで、何時も小供を集めて面白い話をするが道楽で老いて益々壮なる様子は、恰もウイクフィールドの牧師然たる人だらうと思って居たが何ぞ計らん、逢って見れば意外にも眉目清秀、風采瀟洒たる好紳士で鷹揚なる態度裡に親しむべくして亦狎るべからざる所がある。而して其気取らないうちに、一種高尚な所があるから、矢張り平和な田園の理想的教師の面影がある


※『北陸タイムス』明治42年4月17日1面


【解説】

明治41年11月15日に創刊して5か月目の『北陸タイムス』が1面で連載した記事の一部。競合紙の主筆2人を取り上げるとはいかにも大胆だが、2人の主筆の性格や人となりがよく想像できる文章である。明治末期に富山県の新聞界をこの2人の主筆がリードしていたことも推測される。執筆者は、同紙編集長の卜部南水(卜部幾太郎)あたりか。卜部は明治43年9月29日時点で44歳。


この記事が掲載される約3週間前、3月28日に5紙の記者懇談会があり、卜部は匹田や井上と話す機会があった。また、この記事が出た後、別の事件をめぐって同紙の社員が検挙されるという事件があった。2紙とも報道の自由を揺るがす事態であると紙面で当局に抗議し、北陸タイムスを応援する側に回っている。当時は『北陸政報』が『富山日報』と厳しく対立していた。



※『北陸タイムス』明治42年7月15日1面


俳人の側面観(一) 杢阿弥


我輩杢阿弥眼鏡に映じた富山新派俳人の妄評を試みて見やう八卦と同じく当らぬでも


高田稲光
山高にフロックで車上裕に大道を駆ける時、彼れの白晳なる顔円なる頬は頗る振ったもので、マー威風堂々と形容してもよいが、偖て親しく話して見ると、彼れは極めて気軽な、極めて無邪気な、極めて同情のある男である、気軽だといっても彼れはお喋りではない、少し吃る様な口気で簡単に応答するだけである、そして話すときに片頬に極めて浅い靨が出る、白晳なる顔の豊円なる頬、その片頬の浅靨、この道具揃ひの彼れの容貌は一口にいへば愛くるしい顔である、彼れは又決して歯に衣を着せぬ性質で、何でも思った通りを云ってのける、であるから随分人に対して悪口罵詈となることも平気でいふ、併しそれが少しも悪口罵詈に聞こえぬ、彼れの愛嬌ある悪口では頗る珍談がある、先年霞翠が高岡新報の聘に応じて富山を辞するときの送別会にどうして来たのか東京の徂春とかいふ壮俳人が舞ひ込んで、其の奴が僕の事を一体諸君は何と見るかと一座を見回した時、誰れもクウイッションだといって居たが、彼れは左様さねマー太神宮の御札配り位だねと遣ったので一座哄笑、云はれた本人は大苦笑を遣った、彼れの直情はこんな風で、この時も決して滑稽ではなかった、彼れは確か適評と信じていったに違いない、けれどもそれが少しも悪口とも嘲弄とも聞こえなかった、丁度駄々をこねる坊チャンが母親を馬鹿と云った様に、云はれた方でも別段悪るくは思はなかったらしい、恁な風であるから僕は彼れを先天的小児科のドクトルであらうと思ふ、然り彼れは当さに其の性に率ふところの職業を選んだ、前途の発展庶幾ふべしだ、(次回は田村無尽)


※『北陸タイムス』明治42年7月16日1面


俳人の側面観(二) 杢阿弥


田村無尽
運座へ来て隅の方に小さくなって首を曲げて居るとき、或は飛白の羽織に紙撚りの紐で市中を歩くときの彼れを見ては、誰れでも連隊の副官とは思へない、併し彼れは連隊長として幕僚としては画策献替宜しきを得、軍人購買組合の世話役としては折衝斡旋甚だ勤めたものであるとのこと、彼れが軍隊に於て如何に勉めるかは知らぬが、カーキー色の軍服勇ましく馬を駆って帰宅するや、直ちに前垂掛と変じて組合事務所に出て算盤を弾いて居る、彼れは軍人として忠節なるのみならず、個人として人の為めに謀って忠なるものである、而して又忙中閑事として我が俳諧に趣味浅からずと来ては実に嬉しい、彼れは其の人格其の趣味上から、義士大高子葉に比すべき人物である

▲次は蜷川酔眼光


※『北陸タイムス』明治42年7月17日1面


俳人の側面観(三) 杢阿弥


蜷川酔眼光
句会へでも来ると、宛ながら象の歩行く様にノシッノシッと這入って来て、ヲーとか何とかいって行き成り大胡坐をかく、君遅かったじゃないかと云ふとウンと云ふ、何か楊でもあったのかと尋ねるとナームと云ったきり、其のナームが腹の底から響いて獣王の唸る様である、赭顔肥大の骨格逞ましいところい幕下のビリ位には踏める、顔はニキビ沢山だけれども自然主義者ではない、彼れの性質も亦体格の如く、磊落豪放で飾らず詐わらざる美徳があるであるから句作なども一向推敲をしない、出たまゝ吐いたままで時々一茶式のが出来る、先年北海道へ渡って、精米業とかを遣ったそうなが、失敗(?)して宅に帰って居る、彼れの体力、彼れの担力、彼れの精力は社会の土俵で思ふ存分角闘し得る値ひがある、屈せず撓わまず猛進して、早く十両になれ早く幕の内に入れ


中田錦紗
宛然たる白雨の美少年、錦紗とは頗る其体を表し得た号である、彼れは又行儀の正しい男で、胡坐をかく者、匍匐ふ者、横になる者の雑然たる運坐の席で、独り端然として終始膝崩さぬのは家庭のしつけの程も思い遣られて奥床しい、勿論彼れは常に角帯キチンと結んで居る、同人が寄って墨汁発行の協議をした時に、一ケ月四十部の販売は是非共錦紗の店で引受けて貰わねばならぬと誰れかゞ押し付けた時に彼れは頗る逡巡して、僕は承諾だけれども家の者に相談しなければと苦しい返事をした、これも大書店のボンチでありながら其の部屋住みたることを忘れぬ小心翼々たるところに彼れの慎しみが現れて居る


※『北陸タイムス』明治42年7月21日1面


俳人の側面観(四) 杢阿弥


日俣愛松
今中学の五年とやらだが、一体中学時代の如き特に頭脳を科学的に傾けなければならぬものが、超世間的で黙想に耽り易い、俳句などを遣るのは僕の取らぬところであるから初めて彼れを見た時は、マー喫煙禁止法違反位のナマクラ者だろうと、早呑込みをして居たが、ドウしてドウして、成績優良であると聞いて僕も安心した、併し葉書や短冊などへ、南瓜の蒂で造った様な判を捺す事は頗る月臭があるから廃めるがよからく


五艘霞翆
剃り付けた揉み上げ左り別けの髪、而してダブルカラーといふ扮装、元は県庁第二部の役人、今は高岡新報の花形記者、頗る気軽な、頗る口まめな、頗る愛嬌に富んだ男頻りに洒落、頻りに地句る、それで足りなくて手真似や顔付きで滑稽的表情を補ふ、キザな様でも厭味がない、マー社交には好適であろう、近来蓄髯して、余程尤もらしい容貌になったか、三年程前の富山女学校の運動会、来賓競走のプログラムが来たとき、女教師の一人に「五艘ハンアンタが出テオクンナハレ」と手をトッ捉まったが、嬉しい様な、迷惑な様な笑い方をしながら頭を抱えて逃げるときに椅子をひっくりかやした光景は頗る滑稽であった


※『北陸タイムス』明治42年7月23日1面


俳人の側面観(五) 杢阿弥


福井白柿
彼れは富山電燈会社の何役かをして居ったそれが為といふのでもなかろうが、彼面貌は電燈の球そのまゝに額が細くて下に向く程太くなって居る輪郭は寺内式だけれどあんなに釣り目ではない、気軽な尻の軽い男で、同人の為めには万事周旋の労を厭はない、会やなぞの時は何時でも幹事として必要欠くべからざる道具があるので、同人間にも大いに愛される、中学時代には校長(?)排斥か何かを遣って三年位で退学させられたとか聞く、俳句は随分熱心で或る時自景庵で故鼬仙の追弔の時、電燈会社から急に用が出来て宅に呼びに来たとかで母親らしい人が二度まで迎ひに来て果ては戸外で声高に罵って居たが遂に行かなかったなどは随分振って居た彼れは又俳修業の為め東京に行ったが今は帰って居る在京中は千鳥吟社鵯吟社などで大分振たとのことである


気賀蘇水
容貌言語態度共に俳優じゃないかと思われる眼の涼しいところ鼻筋の通ったところ唇の朱いところなそ最う少し面長であったら伊井蓉峯といった様なスタイルだ旅籠町の旧と旅籠屋の叔男とやら一時俳句を盛んに遣った時にはホトゝギスの地方俳句界に蘇水宅小集の句を毎号に見たもんだこれは小集でもなんでもなく彼れ一人でこしらひたものとのこと彼れは健気にも筆で世に立つ覚悟で蹴然上京して今は国民新聞に這入ったそうな


※『北陸タイムス』明治42年7月27日1面


俳人の側面観(六) 杢阿弥


武田一可
元は警察部の課長で、丈の高い炎天の鬼瓦宜しくといふ顔付き、アレなら罪人にしらべなどには睨みも利くであろうが、余り女には好かれまい、頗る謹厳な男であったが酒を呑むと時々愛嬌を遣る、或る時井波の宿屋で雪隠の中から雷の如き鼾声を放って、新聞に素破抜かれたことがあった、井上江花はこれを「春の宵奈良屋の便所借りにけり」と句に作った、それが運座の席で宛ても席題が春の宵であったので、彼れも頗る苦笑を禁ぜえなかった模様だった、世間では彼れを敏腕家と評した成程さうであった惜い事には知事更迭と殆ど同時に東京へ去らざるを得ぬに至って仕舞った


廣島花渓楼
頗る真面目な青年で、元は高岡銀行富山出張店の行員であったが、今は本店へ還った、近来非常な多作家となって全国の新聞雑誌で苟しくも俳句を載せるものには、彼れの句を見ざるなきの勢ひである、或る人は「アンナに多作しては銀行で算盤が間違うだろう」と評したと聞いたが、彼れに限ってそんなことはない、俳句は遣っても遣らないでも勤めるところは屹度勤めるであろう東京の松濱などは口を極めて彼れを賞賛して居ると聞いたが、最もな事である


※『北陸タイムス』明治42年8月4日1面


俳人の側面観(七) 杢阿弥


舟木香洲
異常に後方に発達した金槌天窻が特徴として印象を惹く外は、茫乎として淡如としてうら淋しい顔付きであるが、全体の何処やらに言い知れぬ温か味が籠もって居る、僕は彼れを懐ふ毎に、何んだか遠い遠い山の半腹に、秋の霞を認め得た様な、淋しい様な床しい様な感じがして、それが夢の様に消えるのが常である、彼れが卵形の艶のない顔を、四十五度位の角度に仰向けて、気倦るい様な眩しい様な眼で友の顔を見ながら、口辺りに自然的な笑を浮かべて「ハゝーン、ソーケ」と云った時には、彼れの恬憺無凝の性情が遺憾なく発揮される、彼れは自然に対しても人に対しても総てがこの行き方である、彼れは友を作っても刎頸の交りはせぬが、呉越の怨みも買はぬ、自然に接しても深刻な憤慨は起さぬが、冷々に観過はしない、彼れはドーしても先天的の詩人である、俳人である、多分彼れの母は、夕風にフラフラする棚の糸瓜を取って丸呑みにすると夢みて、彼れを妊んだのでがなあろう、彼れの恬憺無凝に就ては面白い話がある一昨年越中史編纂の一員として県庁に勤めた、時々無断欠勤をする、主任の者は切りに気を揉んだが矢張り効がない、とうとう主事を通じて知事から頗る大なる目玉を食った、けれども彼れは例の「ハゝーン、ソーケ」と云ったきり相変らず時々不意に休んだ、心中何か不満な事でもあったのかも知れぬが、併しこれが其頃の彼れの挙動の全体の一班であった、何処までも秋露式四十五度式ハーンソーケ式である、閑話休題彼れは富山に於ける新派俳人中の最も先覚者で、其の造詣も決して浅くない、確かに富山俳人のリーダーである、僕は彼の句集の早く世に公にせられん事を希望して止まぬ


【解説】

明治38年に富山市で結成された新派俳句結社「墨汁吟社」のメンバー11人を紹介した『北陸タイムス』記事。「側面観」は、明治末期の文士の間でよく使われたらしく、人物や物事を正面からでなく側面から観察して書いた記事をいう。「側面観察」という言い方もある。柔らかい筆致の記事が多い。


筆者は「杢阿弥」であるが、同紙編集部の編集長だった卜部南水か、あるいは竹内水彩か。第2回以降に「漫録」という冠がつくように、意図的に笑いを誘うように書いているが、墨汁吟社に深くかかわり相応の観察眼をもった人物でないと書けない内容である。


大井冷光は登場しない。しかし、冷光は、明治42年7月に名義会員を除外した墨汁吟社の組織改編でも引き続きメンバーとして名を連ね、同年11月には自宅で例会を開いている。注目されるのは井上江花で、江花は組織改編では名がなくなるが、この連載記事では「春の宵」という題の句会に参加していたことがうかがえる。


この「俳人の側面観」とともに、当時の俳人を知る重要記事がある。『北陸政報』に連載された「富山俳人漫評」明治43年7月~8月である。萩原椿川、福井白柿、久世暁峯、田村無尽、日俣愛松、水上不流、五艘霞翠が取り上げられている。筆者は仁王山人であるが、明治43年に5月に『北陸タイムス』から移籍した竹内水彩である可能性がある。


※白晳 はくてつ

※偖て さて

※靨 えくぼ

※恁な こんな

※匍匐ふ はらばう

※鼬仙 泉鼬仙(元富山日報記者)

※屹度 きっと

※天窻 あたま

※茫乎 ぼんやり

※恬憺 ていたん

※刎頸 ふんけい

2013年5月 5日 (日)

六根清浄(立山登山の栞)

※『富山日報』明治41年7月23日~28日3面 6回連載



●六根清浄(一)

(立山登山の栞)

▲立山の山開き は愈々来二十五日である今朝県庁から中野警察部長一行が雄山神社奉幣使として出発した筈だ、これから随分登山者が来る事だろう、アノ青田の彼方から『雄山神社』の赤い吹流しを押し樹てゝ通る処は亦越中の一名物といはねばならぬ今では登山者が

▲白帷子よりシャツ や背広を着た連中が多くなった、随って登山の目的も権現様に参詣する事さへ出来れば願が叶って一人前の男に成れるなど思って帰る人よりは、却って恐ろしい地獄谷で鬼でも生捕りにして来やうといふ手合ひが多くなり、随って権現様の有難味を損するやうに、又立山の霊区を俗化させるやうになる傾きのあるのは誠に嘆ずべきだ

▲昔の立山参詣 となると随分賑やかなものであった、殊に立山の麓近い村々から立山参詣が出たとすると、それはそれは出征軍人の凱旋以上の騒ぎ、僕等も子供の時分は随分上瀧、岩峅あたり迄迎へに往ったことがあるが、相応の農家の忰などとなると、先づ御馬に乗ってかへる訳だ、例の赤い押掛で飾り立て、鈴をチャンチャン鳴らした馬に跨がって『立山権現』の赤旗を、宛然敵の首を槍玉に挙げたかの如く翳し立てて行くすると其の後から六親眷族を初め数百の歓迎人が長柄樽の酒や御馳走の入った長籠などを搬ばして、長い長い行列を造る、而してその中の白い手拭を頬冠りの音頭取りが金切り声を張り上げて、

 『目出度ア目出度アの若松様よう

  枝もさかえる葉も茂げる』

などゝ俗に木遣節といふ奴を唄って練り行くといふ仕末だ、其れは随分盛んなものであった、兎に角立山参詣の祝ひは又

▲一人前の男になった祝 所謂昔の元服祝ひと同じ事をされて居たものと見える、又十里二十里隔った砺波地方でも勿論権現様の有難さには変り無かったものと見え、先達も東砺波のある故老の話には、其の人が立山参詣を思ひ立ってからは五年の間、立山の方を向いて野小便をしなかったとて懺悔して居た(冷光)


●六根清浄(二)

(立山登山の栞)

▲立山参詣の準備 となると、先づ褌から始まって、シャツ、股引、脚袢、呉蓙、笠に至るまで衣類悉く新調のものを用い、次ぎに携帯品としては即ち握飯二日分ばかりに飯米数升、沢庵に干鱈に鯣に味噌に提灯に寶丹に草鞋五六足、其れに室堂で着て寝る綿入が一枚、尚ほ一ツ欠かしてはならぬものが煎粉(いこともいふ)である、煎粉は是非二三升拵えて持って行くべし生杖は比較的造作がなくて青竹の三四尺計りので宜しい以上は即ち今日迄の立山参詣者一通りの登山準備である、而し所謂背広を着た登山者となると

▲大に追加を要す るのだ、第一に杖は青竹では有難くない、殊に数年前から室堂では『立山頂上』の焼印を押して呉れるから、矢張り昔山法師がついた六角の金剛杖、六根清浄などと墨黒々と記して大いに山法師がかり行者振ることである成程其れは悪くはない、だが其の六根清浄で以て地獄谷の団子屋地獄を掻き回したり、途中で地蔵様を引覆したりされるから閉口するのだ、其れから歯磨粉、楊枝、石鹸、ナイフ、筆紙、塵紙、水筒、時計、双眼鏡、磁石、地図、綱、缶詰、果物、砂糖、ブランデー及びチック、香水の如き、有っても困らず無くても済む品物が沢山現はれるのだ、殊に雄山神社社務所にも昨年から粋を利かして登山紀念のスタンプを捺して居るから好事家は絵葉書を沢山持って往ったが宜からう、さて大概の準備は出来たら愈々道案内であるが、先づ都合上其の

▲振り出しを上瀧町 とする、富山市の東南三里二十七町を距てたる山駅にて人口は二千余あり、此町より芦峅寺迄三里、温泉道は原村迄四里、何れも車馬を通ずべし、などゝ案内記の暗誦をする訳ではないが、富山から立山道の町のお終へは此処で亦初めて山に接するのも此処である昔行基菩薩が大岩の不動を彫らぬ前の晩にこの地で矢張り不動明王を彫りかゝると生憎にも夜が明けさうになったので愚図々々して居て俗人に見付かっては大変と直ちに大岩まで飛んだ所だと口碑されて居る、而し其の彫りかけの不動は今はないが其の代りに赤土の崖に刻み込んだ丈余の明王が安置されて其傍に三條の筧瀑が垂れて居る、時雨のやうな蜩の声を聞き乍ら汗臭い体を銀泉の如きに打たして御覧なさい、もう二根や三根は忽ちに清浄されて仕舞ふから(冷光)


●六根清浄(三)

(立山登山の栞)

▲上瀧で最も不便 に感ずるのは郵便局以上の通信機関が設けられていない事である、これは誠に遺憾な訳で富士山には絶頂迄電話線が通じて居るのに我が立山は例へ登山者が彼の山の十が一ばかりであったにせよ上瀧迄下りて来て漸く郵便局しかないといふことは甚だ心細い話である、記者が昨年登山した際に、別山の大走り小走りといふ懸崖で一人の学生が走り損なって、遂に数十間蜻蛉返りをやって気絶するに至った、すると其際直ちに家族へ案内せんとて仲語を下界に使はし、雷様のお手を煩はさうとすると、仲語が空嘯いて『お前さん電信たア何んのこったい、上瀧の那様ものがあるものか』といった仕末、実に困りきったことがある、其れで今更室堂に電信局を設置しやう、弥陀ケ原にホテルを、などいふのでない……否寧ろ立山の神聖を保たせやう富士の如くに俗化さすまいとする上から云へは、立山山彙内には仲語以外に如何なる通信機関も謝絶致すべきであるが……兎に角山開き中丈でも宜しいから上瀧町には電信電話の何れかの設備を亦芦峅寺と立山温泉とに郵便局の設置を其筋へ要求する訳である、そこで立山で電信ともなり、郵便ともなり、案内者とも荷担ぎともなる処の

▲仲語に就て お話せねばならぬ、昔は立山参詣にはお『仲語様』といふと参詣者の一命を預って地獄見物までさせたものだから其れは其れは随分威勢のあったものだ、僕等も小さい時分はおちゅうごさまとは束帯をした中納言様のやうな者位に思ったことがある、それでこのお仲語は立山を充分に跋渉せんとするものには是非雇はねばならぬ、雄山神社社務所では仲語の規約を設けて、芦峅寺に八十名岩峅と宮地とに四十名上瀧町に三十名都合百五十名に鑑札を渡してあるので、雇賃は二日間(内一日は食料付)で八十五銭と極め且つ一人の負担量は四貫と制限してある、而し強い奴になると八九貫迄は平気だから掛引き次第で何とでもなる訳だ、近頃学生で仲語の世話にならず登山する連中があるさうだが弥陀ケ原へ出る迄には随分樵夫路に迷い易い路だから嚢中の容す限りは事更に探検がるものではない、寧ろ老魁なお爺位を雇って路々在若左衛門から伝りの珍妙不可思議な物語を聞きつゝ登るのも亦愉快といふべしだ、最も仲語の鑑札を持たぬ人夫を雇ふ時は室堂でも温泉でも飛んでもない継子使ひをするさうだから仲語を雇ふには鑑札に注意すべし(冷光)


●六根清浄(四)

(立山登山の栞)

▲上瀧から登山路 が二つに岐れて居る、立山開基有頼公の草分け道、即ち本登山路ともいふべき道順は、先づ常願寺川三百間の釣橋を渡り、老杉神さびたる岩峅寺で頼朝公の造営した岩峅の宮(前立社壇)等を見物して其れから漸次爪先き上りに村や、崖や、雑木林や、桑園やを三里歩けば芦峅寺村である、この村から室堂まで人家なき事八里なれば大抵のものは一泊する処である、戸数百五十戸、有頼自彫の木像を始め、例の頼朝先生の贈物など随分みなくばならぬものがある、さて此処は

▲海抜千二百五十尺 の高原であるから、もう雲とお近親になった心地がして其の、雲や霧が登山者をだまして時々雲の中に封じ込めて了ふ事などあるが、其れは何にも案じることが要らない、而しそれでも空が案じられたなら野良帰へりのお爺に質して見る事だ、『天寶げな、降る事はないぞ、七つ時から北風が山に入ったから明日も明後日も大丈夫、而しこれが夕方から山がベカベカ光るとダチかねど(駄目なり)』など答へるに違ひない、さて愈々降らぬ翌朝の霧の山路を辿り始めると芦峅を四時に出発すると藤橋位で夜が明ける都合、其れからが

▲本当の立山道 となるのである、登山者は十歩に一所、百歩に二所と相次いで現れ来る怪樹奇岩を悉く仲語が捕へて如何にも誇大な説明をするのを聞くでせう、其のいふ所珍妙奇天烈な事ばかり、元より荒誕無稽、牽強附会も甚だしいもので、迚も真面目な顔で聞けぬ話が多いのであるが、而し其れを直ちに『莫迦らしい』と一笑に附し去る登山者が居れば間違って居る、大いに玩味して見なければならぬ、この珍妙不可思議の口碑が、古来我が中越の人間に何程の感化を与えて居るか知れないではないか、立山の俗謡と言ひは甚だ稀であるが、タッタ一つ盆踊り唄に『東は立山の地獄谷、西は西方浄土の阿弥陀如来』云々といふのがあった筈だ、是等を見ても如何に立山が古から

▲中越の迷府 となって居たかは想像さるゝ処ではないか、話が坂に掛って随分小六ツケ敷なって来たが一里目の熊王権現で水売り爺に一杯一銭の水を飲み、二里目の山毛欅平の女茶屋で煮〆位で握り飯を食べ、尚ほ一里奮発すると早や弥陀ケ原の高原となる、如何です、其の楽園宛らなる高山植物の美観は(冷光)


●六根清浄(五)

(立山登山の栞)

▲高山植物の美 は近来漸く持て囃され婦人の指輪の模様に迄用ゐらるゝこととなった而し其実際の花葉を見ずして唯其の形状を画位で見る下界の人には決して高山植物の美を語ることが出来ないのだ、其れといふのは其の根より吸ひ葉より取る営養分の資本が下界の花と違ふからである、神代其の儘の土、神代ながらの空気は其の茎葉の緑に其の花の紅、黄、紫に悉く一種の霊気を備へて居るのではあるまいか、其れが雪より雪の僅か二三月の間に一時に発芽し、一時に花をつけ一時に実を結ぶのであるから殆ど其の色彩に濁り気は見ることが出来ぬのも無理はない、立山へ登山するものは弥陀ケ原から上は到る処にこの花の美に迎へらるゝのだ、記者が好く持ち出す句であるが杉風の『名は知らねど草毎に花あはれなり』の句は弥陀ケ原のやうな処を詠んだのに違ひないと思ふ、最も立山は全国中の諸高山に比較すると決して植物の種類に於て

▲豊富とは言ひ得ぬ さうだが而し富士山の赤土勝ちなものとはそれこそ雲泥の差で迚も比べ物にならぬのである、其処で左様な花畳を敷いたやうな弥陀ケ原の楽園には決してイデンの園の魔物の如き動物を発見することが出来ぬのである、最も蝦蟇といふ愛嬌物が路へ飛び出して登山者の玩具になるのは承知して貰ひたい弥陀ケ原の中央の

▲追分で路が三つ に岐れる、中央路を取ると姥懐といふ熊笹の茂みを綴る道で比較的容易き一里を鏡石の前へ出ることが出来るが、『幽渓』といふ文字や『断崖』といふ文字を実際に知り、且つ立山の雪の味を早く試みたき人は是非左りの路を進みなさい、即ち二の谷、一の谷を渡り、獅子ケ鼻に攀ぢて一里を余計に回ったら前記の鏡石の前へチョロリと出ることが出来るのだ、これから後室堂迄一里の路は極く容易であるから案内は要せぬ、但し其の緩慢なる傾斜をなした大きな渓間其の所々に渡るべき大きな雪田、其の隙々を散らし模様の高山花、殊に忽如、濛々の霧は登山者を一呑みにして渾沌の創世期を忍ばしてくれるなどに至っては到底六根清浄の記者の説明し得る限りではないのである(冷光)


●六根清浄(六)

(立山登山の栞)

▲次ぎは温泉道 の案内であるがこれは本登山路に比べると甚だ雑作がない、其の代り奇勝、絶景に接することも亦例の神秘的の物語を聞くことも甚だ稀である、即ち上瀧町から大山村の字原村といふ所まで四里ばかりは村に付いて行き、其れから常願寺川の上流湯川に絶えず沿ふて遡るのであるが此道は近年開けたもので随分宜しい(殊に本年大改修をやって居る筈)それを三里計り登ると右手から真川といふ川が流れ出て釣橋が架って居る、其の橋を渡ると道が二つに岐れる、左を取れば湯川の磧伝への新道一里にして温泉に達することが出来る、但し降雨の際は河水が氾濫し且つ崖が崩れ易くて少々危険なことがあるさうだ、亦右手を取れば九十九曲りといふて少々嶮しい阪に掛る、温泉迄は新道より半里ばかり遠いさうだが其れ丈安全で且つ展望の愉快な処もある

▲立山温泉 は一名多枝原温泉ともいふて湯川の右岸の岩の裂目から湧き出す硫質泉其の効能は今更述べずもがな、浴室客舎は左岸にあって従来は随分木賃式のものだったさうなが両三年前より綺麗な浴室も立派な客舎も出来たから雑踏をしない限りは一通りの我が儘は出来る、さて温泉を出て二町あまり登ると愈々

▲有名な松尾阪 である、赤土の崩れ易さうな懸崖に掛る羊腸路で、一里半余の間腰を下して憩ふべきゆとりさへ無い位であるこの阪を登り尽して亦十数町の石径を下った処は弥陀ケ原の追分で、昨紙に記した本登山路に合することが出来る、斯くて鏡石を通り二里にして室堂に達するのであるが其の後の立山、別山、浄土山の三山をかける説明は雄山神社社務所の縄張りであるから此処に改めて述べまいが、唯登山諸君の御参考として二三摘記すれば、第一我が立山は日本全国の山々は勿論欧州大陸の最高山と雖ども真似る事の出来ない程の偉大な展望を有して居ることを誇らねばならぬ、実に其れは南台湾の端から北は樺太島の尻尾迄ともいひたい位に夥多なる山々を眺望し得ることが出来るのは新高とても富士山とても百歩も千歩も立山に譲らなくばならぬのである、而しこれ位偉い立山を持って居る越中に何うして立山程の偉い人が出ぬかは識者も不思議にして居る処だ、オット話は亦外れたが、次ぎは

▲立山の御来迎様 昔善人が登山せば小山大明神の告げよって浄土山に至り一光三尊の阿弥陀如来を拝む、其れを御来迎様といふと記録に見えるが今の御来迎様には其の如来を拝む者が絶えてない、而し絶頂から水平線下の日の出の美観に接する者あらば其れこそ御来迎様以上の幸福を得るのである、先づはこれにて六根清浄の筆を擱く(冷光)



【解説】
「六根清浄(立山登山の栞)」は、明治42年7月23日から28日までの『富山日報』3面に6回連載された記事である。著者の大井冷光は、これとは別に、7月10日に初の著作である『立山案内』(清明堂書店発行)を上梓している。いずれも7月23日からの立山登山シーズンを意識して、前年夏に初めて立山に登った経験をもとに書かれたものである。


六根清浄は「ろっこんしょうじょう」と読み、仏教用語である。昔は立山登山のときに口々に唱えられたという。冷光が明治40年7月30日、高岡新報社立山登山隊の一員として登頂するさい、室堂から一の越に上がる途中の懺悔坂で「六根清浄六根清浄」と掛け声が始まったと「御来迎様」という文章に綴っている。六根とは、私欲や煩悩、迷いを引き起こす目・耳・鼻・舌・身・意の6つの器官を意味し、六根清浄を唱えることで邪念を清めることができるという。現代の日常生活で使う「どっこいしょ」という掛け声はこの言葉が語源だという説がある。


冷光は『立山案内』の中にも「登山案内」という同じ内容の記事を書いたが、これはいかにもお堅い文章で遊びがなくつまらない。地名を順を追って紹介していくあたりは、先行書の浅地倫『立山権現』(明治36年、中田書店発行)を強く意識していたようであり、独創性がほとんど感じられない。これに対して「六根清浄(立山登山の栞)」は、主題を「六根清浄」、副題を「立山登山の栞」とつけたあたりに、著述家としてのセンスを感じさせる。中身はやや短いが生き生きとした筆致でユーモアにあふれ、冷光の面目躍如たるものがある。明治後期の立山参詣を知ることができる貴重な記録としても注目される。『立山案内』はこれまで富山県立図書館の貴重書として評価されてきたが、この「六根清浄(立山登山の栞)」は知られざる「もうひとつの『立山案内』」ともいえよう。


【参考】

※白帷子 しろかたびら

※宛然 さながら

※六親眷族 そくしんけんぞく

※鯣 するめ

※煎粉 いりこ

※宛ら さながら

※忽如 たちまち

※迚も とても


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