2017年8月20日 (日)

【目次】吉田博_関連記事一覽

日曜美術館「吉田博」を見た(2016年7月) 1 物足りない『劔山の朝』実映像 2 摺りの再現は難しい 3 山岳取材もっと丁寧に(「日本アルプス12題」一覧) 4 なぜ木版画の道に入ったか 5 日美旅ブログの甘い記述 異色の油彩《精華》を読み解く 吉田博の《精華》を読み解く ライオンに威厳があるか 敗北感があるか 繰り返される誤記を正す 裸体画問題への持論 上田市立美術館で見た(2017年5月) ...

» 続きを読む

生誕120年吉田博展と比べて(7)山と渓谷の注目の油彩3作

《山頂の花崗岩》 大正5年 45.5×60.6 油彩 120年展で見られて140年展では見られなかった吉田博の油彩画は意外なことに27点もある。いずれも画業を振り返る大回顧展なのだが、主催者によって作品選びが大きく違うのだ。 《尾根伝ひ》 大正9年 80.3×60.6 油彩 27点のうち、これまで紹介していない「山と渓谷」の注目作3点を掲げよう。 まずは《山頂の花崗岩》。北アルプス・燕岳(2763...

» 続きを読む

2017年8月19日 (土)

生誕120年吉田博展と比べて(6)信美の油彩3点は出展されず

長野県信濃美術館の所蔵品は、生誕140年吉田博展に1点も来ていなかった。主催者側の事情だろうからそれを責めるつもりはさらさらないが、やはり残念である。 1996年の生誕120年展で展示された《有明山》《鑓ヶ岳 杓子岳》《乗鞍岳》の3作品はぜひ見てみたかった。信美といえば、1990年に「吉田博と山の画家たち展」、2003年に「もうひとつの明治美術展」を開いた。信州と吉田博の切っても切れない関係を大切...

» 続きを読む

2017年8月18日 (金)

生誕120年吉田博展と比べて(5)見られなかった《槍ヶ岳》競演

今回の140年展に、吉田博作品の所蔵があるにもかかわらず出展しなかった美術館がいくつかある。茨城県近代美術館、河口湖美術館、長野県信濃美術館、東京都現代美術館である。主催者が借りに行かなかったのか、あるいは借りに行ったけれども借りられなかったのか。4つの美術館が120年展のときに貸し出した所蔵作品(油彩のみ)を下に掲げる。 140年展に貸し出しがなかった美術館の所蔵品 茨城県近代美術館……《ヨセミ...

» 続きを読む

2017年8月17日 (木)

生誕120年吉田博展と比べて(4)傑作《川のある風景》が見たかった

東京にある府中市美術館は、吉田博の水彩《府中》を所蔵している。地元ゆかりの絵画ということだが、140年展にその《府中》は残念ながら展示されていなかった。典型的な「道路山水」、秋の集落と人物、それほど強い印象はない。府中市美術館にはほかにもすばらしい吉田博作品がある。特に注目すべきは油彩《川のある風景》だ。 140年展では計7点が出展されていたが、肝心の《川のある風景》がなかった。 《川のある風景》...

» 続きを読む

2017年8月15日 (火)

生誕120年吉田博展と比べて(3)油彩《渓流》《奔流》フル展示しないのはなぜ?

生誕120年の吉田博展で展示された油彩画は75点を数える。一方、140年展では、久留米前期で56点にとどまり、5会場を前期後期すべて見たとしても71点の展示だった。つまり、油彩画の展示数でも、水彩画同様、120年展のほうが140年展より充実していたといってよい。今回の140年展で不可解だったのは、油彩の代表作がフル展示されなかったことだ。《精華》は何度か既に記した。今回は《渓流》と《奔流》について...

» 続きを読む

2017年8月14日 (月)

生誕120年吉田博展と比べて(2)《山路》に見る物語性

一見すると色褪せて黄ばんでいる。しかし修復されれば傑作ではないか。 それは《山路》という水彩画だ。明治36年頃の作とされる。《干潟の夜》とともに生誕140年展では見られなかった水彩画6点のなかの1点である。 《山路》 明治36年頃 水彩 32.3×49.3 それほど美しくもない松の木立。その奥に色鮮やかなフジの花が横一線に咲く。赤い提灯をみると茶屋なのだろうか。山道は画面左手前から右中央へと続き、...

» 続きを読む

2017年8月12日 (土)

生誕120年吉田博展と比べて(1)秀作《干潟の夜》欠品は残念

20年前の1996年に開かれた「近代風景画の巨匠 吉田博展 清新と叙情」。120年展と140年展を比べてみると、意外なことに140年展ではいくつかの秀作が欠けていたことが分かる。酷な言い方だが、欠品である。 まず水彩画から見ていこう。120年展では37点、140年展では28~78点が展示された。140年展で幅があるのは、半期だけだと28~31点しか見られないためで、5会場すべてで前期後期を見た最大...

» 続きを読む

2017年8月11日 (金)

「山岳画漫評」『山岳』第8年3号(1913年)

山岳畫漫評 ○近頃大分山岳が繪畫の題材として取扱はれて来た、私は之を喜ぶ然して悲しむ。山の繪は見る然しそこに山岳があるか、山の繪は描く然し山岳畫家が居るか。私は山を愛する然して藝術を愛する、山を描いた畫には残念乍らひきつけられる、そして常に一様の憤満を侮辱とを感ずる、山岳を藝術とは其に踏みにぢられてゐる、我が尊敬する山岳を藝術とは所謂山岳畫家によって美事に其の尊厳を傷けられてゐる。 ○文展ももう第...

» 続きを読む

2017年8月 8日 (火)

吉田博展(巡回最終展)に寄せて(10)展示機会の少なかった13点

水彩の《朝霧》《雲井桜》《雲表》、油彩では《精華》《渓流》《奔流》。この6点、生誕140年吉田博展で実物をしっかりご覧になったであろうか。 生誕140年吉田博展(5会場巡回)について、どの作品がどのくらいの回数、展示されたのかを分析してみた。 図録の上では276点がリストアップされたが、巡回した5会場(千葉・郡山・久留米・上田・東京それぞれ前期と後期)の展示数は異なる。特に水彩画は展示機会が少ない...

» 続きを読む

2017年8月 5日 (土)

吉田博展(巡回最終展)に寄せて(9)静岡県美の水彩画は守られたか

20年ぶりの大回顧展。吉田博の代表作の実物をひと通り見ることができた、と満足している人もいるのではないか。それはたぶん早計である。 図録の作品リストは276点。千葉展の前期後期は計259点。千葉展の前期だけなら205点。久留米展の後期だけだと169点にとどまる。 この数字の差はどういうことなのか。276点は、国内の美術館と個人所有者から借りたものだ。千葉展が始まってから東京展が終わるまで1年5か月...

» 続きを読む

2017年8月 4日 (金)

吉田博展(巡回最終展)に寄せて(8)ベラスケス模写の存在感

なんだ、この暗い絵は……へぇ~模写か。ベラスケス。吉田博も勉強してたんだなあ。 という程度にしか見ていなかった自分を反省している。5月の上田会場でのことだ。心地いい風景画が並ぶなかで、その絵だけが妙に浮いた感じだった。今にして思うとそれは存在感を放っていたのだ。しかし大作《精華》との対面を予期して気がはやり、ベラスケス模写《メニッポス》を見たつもりになってしまい、細部を見逃してしまった。 先日、「...

» 続きを読む

2017年7月30日 (日)

吉田博展(巡回最終展)に寄せて(7)《精華》抜きの大回顧展を嘆く

「生誕140年 吉田博展」東京展の後期が始まる。66点を展示替えし、通期展示の115点を合わせると、会期中に計247点を展示することになる。点数だけ見ると、さすが20年ぶりの大回顧展である。 ちなみに5会場の出品リストによれば、千葉は計259点、郡山255点、久留米238点、上田252点である。多少の差はあるが点数にさほど問題はない。問題があるとすれば、大作《精華》を展示したかどうかである。 吉田...

» 続きを読む

2017年7月27日 (木)

吉田博展(巡回最終展)に寄せて(6)青木繁番組と見比べて

先日、NHKEテレ「日曜美術館」で「魂こがして 青木繁~海を越えた“海の幸”と石橋凌の対話~」を放送していた。青木繁は、吉田博と同じ久留米市出身で6歳年少、《海の幸》で知られる。画家としての知名度は青木繁が上だ。吉田博はどうしても版画家のイメージが強い。 青木繁と吉田博を比較しようというつもりはない。画風が大きく違う。つい比べたくなったのは、番組そのものである。同じ「日曜美術館」で、同じ時代の洋画...

» 続きを読む

2017年7月24日 (月)

吉田博展(巡回最終展)に寄せて(5)学芸員の物言いに違和感

ファンとしていろいろ勝手なことを書いてきたが、さらに少し厳しい意見を申し述べたい。 それは2016年、千葉市美術館の美術館ニュースに掲載された「担当学芸員に聞く!『吉田博って どんなひと?』」という記事である。まず、特に強い違和感を感じた部分を引用しよう。 写実という意味ではブレなかったというところは大きいですね。当時はやりの象徴主義的なものとか、表現主義的なものには一切見向きもしなかったし、自分...

» 続きを読む

2017年7月23日 (日)

吉田博展(巡回最終展)に寄せて(4)象徴画・動物画への挑戦

『グラヒック』2巻16号の記事「東西モデルの別」という記事の後半で、吉田博は重要なことを述べている。旧字を改めて引用しよう。 昨今日本の洋画界も風景画はよほど進歩してきたが、人物や動物画の方は極めて幼稚なものである、これも専門の動物画家がないからでもあろうが、一つはモデルが自由でないのにもよるだろうと思われる。それに日本には象徴画家がほとんど皆無である。たとえば象徴画はモデルの線や四季折々の草花木...

» 続きを読む

2017年7月22日 (土)

吉田博展(巡回最終展)に寄せて(3)人物画への苦手意識はあったか

『グラヒック』2巻16号の記事「東西モデルの別」。この記事には《精華》の2文字はないのに《精華》を念頭に置いた文章であることは明らかだ。 記事は主に2つのことを書いている。前半は絵画モデルの和洋比較、後半は象徴画について書いている。 まずは絵画モデルについて。日本では、素人にモデルになってほしいと頼んでも断られる、それは絵画モデルというものへの理解が進んでいないからだと、吉田博は嘆く。 この話は、...

» 続きを読む

2017年7月18日 (火)

吉田博展(巡回最終展)に寄せて(2)『グラヒック』と《精華》

黒田清輝と対立した画家、吉田博。その反骨精神をうかがうことができる作品と言えばどれか。 ポスターにある木版《劒山の朝》や《帆船》ではない。ダイアナ妃に愛された木版《光る海》でもない。NHK日曜美術館が取り上げた油彩《穂高山》や木版《渓流》でもない。 それは油彩の大作《精華》である。現代の学芸員たちの間では意外なほど評価が低い。当時の雑誌記事からすると、作画の意図が不明だというのである。ただ気になる...

» 続きを読む

2017年7月10日 (月)

吉田博展(巡回最終展)に寄せて(1)客足が少し心配?

昨春千葉から始まった吉田博展は、国内5会場巡回で最終展が7月8日から東京で始まった。主催者はどう考えているか知らないが、私は傍観者として少々心配している。 事前のチケットプレゼントが余りに目立つ。始めからそんなに客足に困っているのか。だいたい、この美術館の名前が「東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館」と長すぎて覚えられないのが痛い。ジャパンときて日本だから重箱読みかと勘違いするほどだ。 冗談はさ...

» 続きを読む

2017年7月 8日 (土)

吉田博「東西モデルの別」『グラヒック』(明治43年)

東西モデルの別 吉田博 畫室に於ける吉田博氏 畫家吉田博君之畫室 『グラヒック』2巻16号(1910年8月) 西洋のモデルと日本のモデルとは大分其趣を異にしてゐる西洋のモデルは斯々の畫を描くのだから其積になつて呉れと言ふと精神まで其者の如くなるから隨つて畫家が描かうとする氣分までが自然と表れて來る、然し日本のモデルには未だそれが出來ないのである。又日本では斯んな畫を描きたい故、姿勢だけでも宜いから...

» 続きを読む

2017年6月29日 (木)

吉田博展を見た(15)「飛騨の旅」明治31年の安房峠はどこか

明治31年6月24日、吉田博と丸山晩霞は白骨温泉を出発し、長野岐阜県境を越えて平湯に着いた。晩霞が書き残した『飛騨の旅』には「平湯嶺」を越えたとしか書いていない。そのルートは不明である。しかし注意深く読み、他の情報と付き合わせていくとおぼろげながら見えてくることがある。 場所を特定していくための情報だけをみてみよう。 寂寥たる森林の急坂を攀ぢ上り……略……谷川の音……略……を聞く……略……午前九時...

» 続きを読む

2017年6月10日 (土)

吉田博展を見た(14)「飛騨の旅」上田・東御は連携を

ある人からその所在を教えてもらい、「飛騨の旅」に関連する研究論文を読んだ。久々に中身の濃い論文でうれしくなった。 林誠氏の「丸山晩霞の初期素描について―『日本アルプス写生旅行』のスケッチを中心に」である。※『長野県立歴史館研究紀要』第21号(2015年3月)林氏は同館学芸員。 なんだ、やっぱり「飛騨の旅」はしっかり学術的に研究されていたのだ。当時の気象データを突き合わせて明治31年を特定し、旅行日...

» 続きを読む

2017年6月 8日 (木)

吉田博展を見た(13)「飛騨の旅」誇張表現を冷静に読む

丸山晩霞が雑誌『みづゑ』に書き残した「飛騨の旅」の文章は、誇張や情緒的な表現が少なくない。困ったことに、図録『生誕140年 吉田博展』では、それをそのまま事実であるかのように解説している文がみられる。 「雨の降る夜は立ち明かし、『仙食』と称して木の実や草の根を食べ、熊や狼の襲撃におびえながらの九死にー生の2ケ月にわたる決死行」(図録『生誕140年 吉田博展』p8) いくらなんでも大げさだ。そう思わ...

» 続きを読む

2017年6月 5日 (月)

吉田博展を見た(12)「飛騨の旅」注目は平湯嶺越え

飛騨の旅で最も注目すべきは信州飛騨の峠越えと平湯滞在である。明治31年時点で2人がどこを越えたのは大きな関心事である。おそらく安房峠の可能性が高い。服部英雄氏の考察によれば、それは旧安房峠(1790m)ではなく古安房峠(2060m)であるらしい。というのも明治27年、ウエストンが安房峠を越えたときは古安房峠だったとみられるからだ。飛騨の旅は、ウエストンの安房峠越えからわずか5年後のことである。 丸...

» 続きを読む

2017年6月 4日 (日)

吉田博展を見た(11)「飛騨の旅」登山史を視野に

図録の謝辞に丸山晩霞記念館が含まれない。隣の丸山晩霞記念館が協力をしなかったのか。先に図録を読んだとき勘繰ってしまったが、それは思いすごしだった。 上田市立美術館の生誕140年吉田博展では、本展を出たあとに特別展示として丸山晩霞の6作品が並べてあった。 本展では写生帖No.17の鹿教湯の部分を開いて飛騨の旅について展示していた。この写生帖のメモ書きを詳しく見る余裕がなかったのだが、後で見た上田市立...

» 続きを読む

2017年6月 3日 (土)

吉田博展を見た(10)飛騨の旅は明治29年か31年か

上田市立美術館で開かれた「生誕140年 吉田博展」で少々物足りなく感じたのは「飛騨の旅」に関する展示である。 「飛騨の旅」は、21歳の吉田博と30歳の丸山晩霞が一緒に明治31年(1898年)の6月から7月にかけて行った写生旅行だ。吉田博の山岳画志向の原点とみられている。 丸山晩霞が、雑誌『みづゑ』第14・第16(明治39年8月・10月)に上下2回計約37000字の回顧エッセイを書き残している。これ...

» 続きを読む

2017年5月30日 (火)

5会場のポスターを比べる

「生誕140年 吉田博展」は、 2016年4~5月・千葉市美術館 2016年6~7月・郡山市立美術館 2017年2~3月・久留米市美術館 2017年4~6月・上田市立美術館 2017年7~8月・損保ジャパン日本興亜美術館 と5会場を巡回。現時点で残すところ興亜のみだが、5種類のポスターが出揃ったので比べながら批評する。吉田博作品の取り扱い方に差が見えてなかなか興味深い。 千葉・郡山・久留米はすでに...

» 続きを読む

2017年5月29日 (月)

吉田博展を見た(9)幻の絵画《千古の雪》を想像する

吉田博展の後半の見どころは版画である。版画ファンにはたまらない作品が並んでいる。ダイアナ妃に愛された《光る海》、ポスターに使用された《劔山の朝》あたりが有名だ。NHK日曜美術館で紹介していた大作の《朝日 富士拾景》と《溪流》は立ち止まってよくよく見た。《溪流》はこれに近い油彩《溪流》がある。印象に残ったのは木版《雲井櫻》だ。《雲井櫻》は明治32年頃の水彩とほぼ同じ構図。版画だからなあ、とタカをくく...

» 続きを読む

2017年5月28日 (日)

吉田博展を見た(8)《月見草と浴衣の女》と《湖畔》

上田市立美術館では、吉田博展の前期展と後期展で約50点の入れ替え展示をした。なんで一度に展示しないのか、もったいぶらないでほしい。スペースはあったのではないか。興行主が算段して決めることだからやむをえないけれども、わざわざ遠くから見に行く人は困ってしまう。 《月見草と浴衣の女》 1907年頃 水彩 98.5×49.5  見たかった作品のひとつに《月見草と浴衣の女》がある。1週間遅らせれば後期展で見...

» 続きを読む

2017年5月27日 (土)

吉田博展を見た(7)さまざまな裸婦画

吉田博はさまざまな裸婦画を残している。上田市立美術館の生誕140年展では、《精華》以外に2点の裸婦画が展示してあった。大正11年の油彩《裸婦》と昭和2年の木版《鏡之前》である。 《裸婦》は、毛皮の敷物に座り、視線を落とす半身の女性像である。これを見ていると、吉田博という人が分からなくなってくる。《精華》の理想像とあまりに落差が大きいからだ。残念ながらここには美の威厳は感じられない。《精華》から13...

» 続きを読む

2017年5月26日 (金)

吉田博展を見た(6)眠っているライオンとは

《精華》の前で、上田市立美術館の学芸員はさらりと「裸体画論争」に言及した。吉田博の孫のかたの話と前置きして、3頭のライオンは警察と文部省と白馬会を暗示している、という見方を紹介した。 眠っているほうのライオンが黒田清輝の白馬会、と聞いて笑ってしまった。そうか、そうだったのか。これまでそこまで考えはめぐらなかったが、その通りだ。 以前に、「美の威厳」という見方について図録『生誕140年 吉田博展』の...

» 続きを読む

2017年5月25日 (木)

吉田博展を見た(5)《精華》裸婦に違和感はない

吉田博といえば、やっぱり大作《精華》である。上田市立美術館の会場でもひときわ異彩を放っていた。展覧順路のほぼ中間、それまで風景画がほとんどだったのに、いきなり裸婦とライオンだ。しかもその大きさに圧倒される。 解説の学芸員は、この絵の説明だけで10分余りを費やして最後に「すこし長くなりすぎました」と自嘲していた。話そのものは難しすぎず砕けすぎず、とても上手だった。 《精華》は進行方向の正面でなく左側...

» 続きを読む

2017年5月24日 (水)

吉田博展を見た(4)《宮島》の決定的瞬間

上田市立美術館の学芸員は明治36年頃の作品《霧の農家》を推していた。解説しながら、なんだかうれしそうな話しぶりだった。パンフレットでも使用されているから、この人の好みなのだろう。 朝の靄がかかったような空気感。朝日が昇ってやや橙色に染まりつつある。その瞬間を逃さずとらえた作品だという。たしかに素晴らしい。素晴らしいが、私の好みではない。こういう絵は誰かの作品に似たようなものがあったような気がする。...

» 続きを読む

2017年5月23日 (火)

吉田博展を見た(3)幻の大作《高山流水》を想像する

《雲叡深秋》は以前から見てみたい作品の一つだった。吉田博の関心が山岳に向かった最初期の作品だからだ。明治31年春の明治美術会創立10周年記念展に出品された。明治31年と言えば、丸山晩霞とともに飛騨の旅(日本アルプス写生旅行)を敢行した年である。 日本アルプス写生旅行は明治31年初夏なので、《雲叡深秋》はこのとき描いたものではなく、日光で描いたものらしい。 黒い岩を両側に配して画面を引き締め、右上の...

» 続きを読む

2017年5月22日 (月)

吉田博展を見た(2)印象に残る細密なスケッチ

「黒田清輝を殴った男」とか「絵の鬼」とかいうキャッチコピーがどうも好きになれない。品がない。「対峙した男」あるいは「対立した男」じゃだめなのか。 「絵の鬼」は、不同舎の5歳下の後輩、小杉未醒が書き残しているそうだけれでも、現代の感覚では前時代的な言い回しではないか。「鬼」といえば鬼監督・鬼コーチ。吉田博は他人に厳しく指導する熱血タイプだったのだろうか。絵に対する鬼気迫る姿勢というけれども、どうも微...

» 続きを読む

2017年5月21日 (日)

吉田博展を見た(1)テンポがいい講談師の紹介ビデオ

念願だった「生誕140年 吉田博展」を上田市立美術館で見てきた。すばらしい環境で見ることができ、美術館のかたがたには心から感謝したい。 もともと千葉での開催を見逃してしまったのが過ちだった。その後、郡山にも行けず、さすがに久留米にまで行く余裕がない。このままいけば7月の東京巡回展(興亜美術館)を待つしかないなあと思っていたが、東京展は最後だし、夏休みにもかかり、込み合うことは間違いない。それなら、...

» 続きを読む

2017年3月17日 (金)

毎日新聞の《精華》批評に反論する

毎日新聞「日曜カルチャー」で渡辺亮一記者が、吉田博の《精華》を批評している。その内容に異議があるので反論しておく。 本文1900字のうち440字が《精華》に関する記述である。その部分をすべて引用する。  風景画には安定した力量が示されているが、個人的には欠点のある作を興味深く鑑賞した。後期展示の油彩「精華」(1909年、東京国立博物館蔵)。異色の構想画である。縦157・6センチ、横270・6センチ...

» 続きを読む

2017年1月21日 (土)

「吉田博展」久留米のポスターを評する

いよいよ𠮷田博展が久留米市で始まる。ポスターが公開された。これまで千葉、郡山と批評してきたので、この告知ポスターについても僭越ながら評しておこう。 ベースは版画『劔山の朝』である。そして、表題「𠮷田博展」は、千葉市美術館のポスターが採用した変則明朝ではなく、通常の太字明朝である。やや太すぎで、すこし品がない。 最大の難点は「生誕140年」の位置である。「...

» 続きを読む

2017年1月 4日 (水)

「殴った男」ひとり歩きが心配

2017年が明けてすぐ、NHKEテレで日曜美術館40周年特集「ゆく美 くる美」という番組を放送してしていた。出演者と学芸員たちが2016年を振り返り、2017年を展望するという座談会のような内容だった。 その中で「吉田博展」が取り上げられ、担当学芸員が発言していた。 「ウケたとすればですね、超絶技巧というようなところは大きかった」 「吉田博の木版画は浮世絵の技術を使いつつ、いかに洋風の表現を実現す...

» 続きを読む

2016年12月30日 (金)

吉丸一昌「川柳論」『俳諧論集』(明治38年)

川 柳 論 文學士 吉丸萬古刀庵 今まで昔話のやうに忘れられて居た川柳といふ一種の俳句が、先頃から日本新聞では、曩に坂井久貢岐君、近頃は井上剣坊花君が大将で、讀賣新聞では群雄割據の有様を以て、頻りにやるやうになッたし、また諸新聞雑誌にも、折々散見するやうで、實に勃興の気運に向ッて来ました。それを今私がこれに付ての卑見と其歴史の大體とを申上げるのは、所謂時好に投ぜむとする際のやうで、間違へば私が川柳...

» 続きを読む

2016年10月23日 (日)

【目次】吉丸一昌の時代 唱歌編纂と早春賦の謎

はじめに [参考]吉丸一昌関連参考文献 第1章 文武両道 帝大卒業、苦境を乗り越え/湯原元一と演説部で接点か/大学時代は成績最下位/東京音楽学校の2つの課題/風紀問題と生徒監制度/唱歌教科書を編むための人事/唱歌作詞の実績は見えず/筆名は萬古刀庵/ [参考表]五高校友会誌『龍南會雜誌』への寄稿 [参考]吉丸一昌の主な寄稿(音楽学校着任以前) →縦書きテスト版20150221.pdf 第2章 音楽学...

» 続きを読む

2016年10月21日 (金)

【目次】剱岳測量史・登山史を読み解く

本論稿 剱岳初登頂記事と〔午山生〕 物語「点の記」と違う史実とは 演出のための脇役牛山記者 「越中劍岳先登記」の曖昧な転載 『山岳』小島烏水の転記ミス 陸地測量部内で起きた波紋 剱岳登頂の風評はあったか 錫杖頭の実寸スケッチは柴崎筆 藤田午山はだれなのか 剱岳測量史を新聞報道から問う (1)歪められる史実 (2)『近代測量史への旅』の誤認 (3)専門家の痛恨ミス (4)取材対応はまずくない (5)...

» 続きを読む

2016年10月16日 (日)

三等三角点測量事業概要『官報』(明治41年)

※『官報』7558号(明治41年9月3日) ○陸地測量事業概況 陸地測量部ニ於ケル明治四十年度陸地測量事業ノ概況左ノ如シ(陸軍省) 三角測量 (中略) 三、四等三角測量作業地ハ能登越中ノ大部、越後ノ半部及加賀、信濃、羽前ノ一小部ニ亙リ 班長二人、検査掛四人、測量掛三十九人ヲ以テ四月上旬ヨリ十二月下旬ノ間作業シ 面積八百十二方里ニ對シ新設三等三角點千三百七十六點四等三角點百二十五點ノ観測ヲ完了セリ ...

» 続きを読む

2016年9月17日 (土)

吉田博 90年後の『劔山の朝』は見えたか

山岳雑誌『PEAKS(ピークス)』10月号の吉田博特集で、山岳画家・エッセイストの成瀬洋平氏が「90年後の『劔山の朝』を描く」を書いている。日美旅ブログを評した以上、これについても率直な感想を記そう。 その前に雑誌編集者に苦言を申し上げる。『PEAKS(ピークス)』の吉田博特集は、雑誌『岳人』4月号と、それほど変わらないものだった。特に吉田博の年譜はひどい。『岳人』と同じように展覧会の年譜から抜き...

» 続きを読む

2016年8月20日 (土)

竹内紅蓮「故郷を憶ふ」『少國民』14年2号(明治35年1月)

故郷を憶ふ (唱歌) 紅  蓮 夕(ゆうべ)の空は雨とならん  窓の寒梅(かんばい)いまだ咲かず   朝北(あさきた)さむき旅(たび)のいたみ    雲の往來(ゆきゝ)の物(もの)をおもふ あゝしなさかる越(こし)におはす  父母君やはらからぎみ   うからやからの愛(あい)の園(その)を    うらぶれいでゝ茲(ここ)に四年(よとせ) 未だ學ならず魯鈍(ろどん)なりや  人(ひと)に入(い)れら...

» 続きを読む

2016年8月11日 (木)

吉田博『劔山の朝』は非現実か

吉田博 『劔山の朝』 (木版、1926年、37mm×24.8mm) 吉田博の版画『劔山の朝』は、朝焼けの剱岳(2999m)を表現したものだ。煙が立ち昇るテント、茜色に染まる岩峰いわゆるモルゲンロートとが絶妙な対比となり、奥行き感を演出している。背後の積乱雲が雄大な印象を与える。しかし眺めるにつけ違和感がぬぐえない。それは、早朝に積乱雲が見えるものなのか、という素朴な疑問である。これはもしかして、写...

» 続きを読む

2016年8月 9日 (火)

中日新聞「吉田博 水彩画の剣岳あった」をどう読む

「洋画家・吉田博 水彩画の剣岳あった/長野・大町の旅館 傑作版画と同じ構図」という記事が『中日新聞』2016年7月7日付夕刊に掲載された。大町通信局の林啓太記者による独自ダネである。 版画『劔山の朝』(左)と大町市の旅館にある水彩画 郡山市立美術館の「生誕140周年 吉田博展」の会期中で、NHK日曜美術館の放送が7月10日にあると告知されている時に、こうした話題を書き上げるというのは、ニュース感覚...

» 続きを読む

2016年8月 7日 (日)

吉丸一昌の時代_第9章 「故郷」の深淵

吉丸一昌は、帰るべき故郷をなくしてしまった人である。吉丸一昌を語るうえで「故郷」は極めて重要な言葉と言わねばならない。一昌が残した300編を超える作品のうち、故郷に関するものは数編ある。そこには「父母」「友」「森」「山」「川」や幼い日の記憶といった共通の心象風景がある。本章では数編の歌詞から一昌の故郷に対する心情を考察してみたい。 吉丸一昌の故郷に関する唱歌 《故郷》ツネとの歌集(明治38年5月)...

» 続きを読む

2016年8月 3日 (水)

吉田博は書生肌・山法師気質

「絵の鬼」と呼ばれた吉田博。いったい誰が言った人物評なのか。 吉田博研究の第一人者、安永幸一氏の『山と水の画家 吉田博』(2009年)によると、昭和23年に発行された小杉未醒『帰居来』に書いてあるそうだ。 吉田博の人柄を書いた安永氏の文章が端的で面白い。図録『生誕140周年 吉田博展』の安永論文は、『山と水の画家 吉田博』をベースにしていて約21000字もあるが、読みごたえ十分である。 いま風に言...

» 続きを読む

2016年7月31日 (日)

吉田博《精華》は裸体画問題への持論

吉田博の《精華》は、裸体画論争(当時は裸体画問題)に一石を投じる意図で描かれたのではないか。取り締まる当局に対する抗議の意味が込められていたのではないか。また、黒田清輝の裸体画に対する考えの違いを鮮明する狙いもあったのではないか。 吉田博 《精華》 (第3回文展、1909年) カラー図版 《精華》に込められた吉田博の心情について引き続き論じてみたい。 図録『生誕140年 吉田博』で、久留米市文化振...

» 続きを読む

2016年7月30日 (土)

吉田博出品『山岳』第4年第2号(1909年)

吉田博氏出品 水彩畫アルプス湖沼の景額面十四點     十八葉 (一)瑞西ロテルブルネン山村の絶壁と霧降の瀑布 (二)瑞西インターラークンの山市よりユンフラウを望む (三)瑞西ルセルン湖を隔てゝリギを望む (四)グリンデルホルム高原より見たるヱテルホルンの夏 (五)瑞西グリンデルヲールドの山家よりヱテルホルンの夏の朝 (六)瑞西ミユレンの大氷河 (七)瑞西スタンダホルムの夏雲 (八)瑞西クラインシ...

» 続きを読む

「裸体画の不幸」『美術新報』(明治41年)

裸體畫の不幸 今回は内閣の交迭と共に、文部省は裸體に關する出品に對して概ね排斥の方針をとりしより、洋畫の側には之が爲め落選の不幸を見るもの多く、彫刻の方に於ては婦人全身の裸體像なる建畠大夢氏の『閑静』石川確治氏の『花の雫』新海竹太郎氏の『ふたり』の三點だけは入口右方に別に特別観覧室を設けて陳列することゝしたり。こは最初開會に先だち警視廳の臨檢を乞ひたる際、其意見に基づきて同會は裸體像の一分に布帛を...

» 続きを読む

第2回文展審査方針『讀賣新聞』(明治41年)

美術審査方針 小松原文相は昨日の第二回美術展覧會審査會席上に於て大要左の如き演説をなせり。 美術は古來我邦の特長とする所にして、文部省美術展覧會の目的は将來益々此特長を獎勵するに在るが故、流派の如何に偏倚(へんい)することなく公平に審査を施行し、汎(ひろ)く我邦美術の歩を圖らざるべからず。本會に對する當局の方針は素より毫(すこし)も變せざるを以て、諸君は克く其意を体し、流派團体の如何を問はず、公平...

» 続きを読む

2016年7月28日 (木)

中村不折「裸体画と画題」『日本美術』(明治40年)

裸體畫及畫題 中村不折 「神に属するものは神に、王に属するものは王に返せ」そしてそこに初めて宗教の發達を見、國家の安全を得るのである。その如くに藝術も或意味に於て獨立が欲しい。「藝術の爲めの藝術」といふ言葉は、あながち反道徳の聲とのみ聞く必要はあるまい。廣く一般藝術に亘りては、學者ならぬ予の素より知る所でないが、繪畫彫刻にありては、裸體研究の必要缺く可からざるものであることは、東西の歴史に考へ、予...

» 続きを読む

2016年7月27日 (水)

霞事件論評_『萬朝報』(明治41年)

美術界の悲劇 掬汀生 彫刻家北村四海氏が「霞」と題する自作彫像を破碎したる一事件は、藝術に心を傾くるものに、甚大悲壮の感動を與へた。確信ある藝術家の作品は、大抵心血の結晶體である事は言ふまでもないが、夫を作者自身が打碎くと云ふは、並大抵の出來事でない。彼が此非常手段を執るに至った動機は、情實に依って輕重さるゝ美術審査の宿弊を一洗して、公平なる鑑査を爲せ度い爲に、彼等審査官を覚醒すべく苦心の作を犠牲...

» 続きを読む

2016年7月25日 (月)

吉田博《精華》に敗北感があるか

郡山市美術館の吉田博展が7月24日に終わった。NHKの日曜美術館を見た人が次々に訪れ大盛況だったという。次の巡回展は半年後の2017年2月4日から故郷久留米だ。 吉田博の絵の深い魅力に入っていく道はいろいろある。日曜美術館のような流れが一般的だ。まずダイアナ妃の執務室に飾られた木版画。木版画といえば山岳風景、そして精緻な木版《渓流》に驚く。次は、水彩の風景画に惹きこまれる。最後が油彩画だ。 吉田博...

» 続きを読む

2016年7月24日 (日)

吉田博「僕は山党です」『美術新報』(1910年)

スケッチと云ふ言葉の意味からいふと、雑と描くと云ふ事だが、人によってスケッチを丁寧に描くのがある。大きい絵の下画きでなく、単にコンポジションとしてゞなく、スケッチはスケッチとして別に独立さして、充分研究する人がある。石井柏亭君などは先づ此部類に属する人であらう。単に下絵として取扱ふ人のスケッチは極く雑としたものに過ぎない。特に風景などは何んな紙っ片に描いても好いのだから、是が本当のスケッチでせうが...

» 続きを読む

2016年7月23日 (土)

吉田博《精華》のライオンに威厳があるか

図録『生誕140年 吉田博』で、久留米市文化振興課学芸員の稲富景子氏は、油彩《精華》の主題は「美の威厳」であるとみている。それはおそらく正しい。しかし、その先の解釈がどうも怪しい。 したがって、吉田が設定した《精華》の主題は、「美の威厳」であり、理想化された裸体女性に「美」を、その「威厳」を示すべきあらゆる対象に「ライオン」というモティーフを用いた、ということになるのではないか。そして、「美」を象...

» 続きを読む

2016年7月22日 (金)

吉田博《精華》に関する誤記を正す

吉田博の《精華》を裸体画論争に位置付けて考察せよ、と先に書いた。1986年に勅使河原純氏が『裸体画の黎明』で位置付けはしたが、十分に読み解くことができていない。勅使河原氏の記述には重大な誤認があり、吉田博研究の第一人者である安永幸一氏もまた同じ誤記をし、図録『生誕140年 吉田博展』で稲富景子氏も訂正できていない。 この際、間違いを正しておかなければならない。 この間違いは、吉田博の談話記事「作者...

» 続きを読む

2016年7月21日 (木)

『岳人』の吉田博特集記事にがっかり

登山専門誌『岳人』2016年4月号に吉田博の特集記事があるというので、遅ればせながら図書館に足を運んで読んだ。 「世界の山々を描いた男 吉田博」という計6ページの企画物。専門誌なので吉田博の山旅をさぞ調べて書いてあるのかと期待していたが、それは裏切られた。中味がほとんどない。千葉市美術館で始まった「生誕140年 吉田博展」の単なる宣伝のようなお手軽な内容だった。木版の日本南アルプス集の『露営 北岳...

» 続きを読む

2016年7月20日 (水)

吉田博の《精華》を読み解く

吉田博のアトリエの写真に目が釘づけになってしまった。明治43年8月の雑誌「グラヒック」に掲載された一枚である。 畫室に於ける吉田博氏 畫家吉田博君之畫室 『グラヒック』2巻16号(1910年8月) 小さなキャンバスに向かう横顔の吉田博は当時34歳。目を引くのは壁にかけられた裸体とライオンの油彩《精華》だ。縦157.6センチ、横270センチもある。風景版画で知られる吉田博にとっては異色の作品とされて...

» 続きを読む

2016年7月19日 (火)

「吉田博」登山史を調べよう

1976年の生誕100年、1996年の生誕120年、2000年の没後50年。そして今回の生誕140年。回顧展のたびに吉田博の画業は整理されてきた。 一つの大きな成果は、安永幸一氏の一連の著作であろう。『福岡市美術館叢書4・吉田博資料集』2007年、『山と水の画家吉田博』2009年、そして未見ではあるが2016年3月の『吉田博 作品集』がある。 安永氏の研究の全容を把握したわけではないので、僭越だけ...

» 続きを読む

2016年7月18日 (月)

吉田博_談「版画に就いて」『浮世絵界』1936年

版畫に就いて 吉田博(談) 私は山が好きである。子供の時から山を喜んでみた。繪をかくやうになってから、私は専ら山を書いてゐる。好きだから畫いてゐるのであって、誰かの要求によつてかゝされてゐるのではない。書かずにはをれぬのである。私はテントをもつて山に入るのである。アトリエを山に移し、山に包含せられて、山の霊気によって、俗世間の煩らひを一洗し、山の精神になりきる。そこから私の繪は生れるのである。版畫...

» 続きを読む

2016年7月17日 (日)

吉田博の知られざる線画 『雲表』

「生誕140年 吉田博展」は、20年ぶりの大規模回顧展だという。広告デザイン関係では苦言を述べさせていただいたが、作品を集めて膨大な資料をまとめられた関係者の労は素直にねぎらいたい。あの世の吉田博も心から喜んでいるだろう。ここからは内容を一歩踏み込んで論議を喚起したい。 「雲表」(1909年、水彩) ※福岡県立美術館蔵 吉田博の『雲表』といえば水彩画の代表作だ。明治42年の文展に出品された。立山の...

» 続きを読む

2016年7月16日 (土)

「吉田博展」図録と告知デザインの気負い

NHK日曜美術館「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」について批評してきた。エラそうに批判ばかり書いているが、「生誕140年吉田博展」をちゃんと見たのか、と言われると耳が痛い。白状すると千葉にも郡山にも足を運べていない。インターネットミュージアムの動画で見たのと、手元に図録「生誕140年吉田博展」があるだけだ。しかし、たいへん僭越ながら、この際もうすこし書かせてもらう。 この蛍光色の黄色い図録には...

» 続きを読む

2016年7月15日 (金)

吉田博『山の絵本』がおすすめ

「日本アルプス十二題」の「劔山の朝」「大天井岳より」に触れたついでに1冊の本を紹介しておこう。 35年前の1981年5月に講談社から出版された『山の絵本』という本だ。サブタイトルが「日本アルプスと富士」。絵本とあるが子ども向けではない。美術ファン向けである。 吉田博・白旗史朗『山の絵本』(1981年) 表紙は木版「劔山」(1935年ごろ) 著者は、吉田博と山岳写真家の白旗史朗氏である。発行当時、吉...

» 続きを読む

2016年7月14日 (木)

日曜美術館「吉田博」を見た5

吉田博版画の代表作「劔山の朝」の現場に行ってみたい。そう思った人もいるだろう。しかし少なくとも観光気分で行ける場所ではない。本格的な山旅を覚悟しないとその場には立てないのである。 NHK日曜美術館「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」の放送に合わせて、Webページ「出かけよう、日美旅」(日美旅ブログ)に第14回「日本アルプスへ 吉田博旅」が公開された。放送で踏み込めなかった部分を、Webで補おうと...

» 続きを読む

2016年7月13日 (水)

日曜美術館「吉田博」を見た4

吉田博はなぜ木版画に挑み始めたのか。簡単そうで意外に難しい問いである。 NHK日曜美術館「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」では、重厚な洋画が注目されなくなり、渡辺庄三郎との出会いをきっかけとして木版画への道に入ったと流すように説明していた。 吉田博研究の第一人者、安永幸一氏は『山と水の画家 吉田博』(2009年)で、大正12年末から大正14年8月にかけての渡米渡欧についてかなり詳しく書いている...

» 続きを読む

2016年7月12日 (火)

吉田博_自然に対する画家の態度『寫生旅行』(1907年)

斯ゝる主張に依って察するに、ホヰッラーは誰が何と云はうが、一切頓着なく、偉常なる自己の見識に頼って、まるで世間を踏み付けにして居たと云ふ事がわかる。其の行爲の批判は兎も角として、美術家は之れだけの見識を持つべきである。或は彼れと反對の見識でも彼れと同じ強さに於て保持しなければならぬ。ホヰッスラーは自然を臀に敷いて仕末って居る。けれども私は自然を崇拝する側に立ちたい。態度は同じではないけれど、併し私...

» 続きを読む

日曜美術館「吉田博」を見た3

吉田博の人生はまるで大河ドラマである。片道切符の渡米からして、ぐいぐい惹きつけられてしまう。NHK日曜美術館「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」は、そのあたりを短いVTRに上手にまとめていた。 ただ一つ気になることがあった。番組では、吉田博は渡欧して観光地化された風景に物足りなくなった、という。そこで油彩『パリ風景』(1906年)という一見なんでもない町の風景画を映し出す。とりあえずはここまでは...

» 続きを読む

2016年7月11日 (月)

日曜美術館「吉田博」を見た2

NHKの日曜美術館「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」の後半の見せどころは、富士拾景『朝日』(1926年)という作品の再現である。吉田博の技の解明に挑むという。 吉田博自身が彫ったという本物の版木を前にして、職歴40年近くという摺師が緊張していると話す。正直な人だ。そりゃそうだ、絵の鬼と言われた吉田博が横にいたらどうだったろうか。厳しい指示が飛んでいただろう。NHKの番組だからこそできた再現は、...

» 続きを読む

2016年7月10日 (日)

日曜美術館「吉田博」を見た1

NHKの日曜美術館で「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」が放送された。ようやくである。2016年春にカラバッジョ展・若冲展・黒田清輝展に対抗するかのように、千葉市美術館で「生誕140年 吉田博展」が開かれたときは音沙汰なしで心配していた。そりゃそうだ。1年半前に千葉市美術館で同じ木版画の川瀬巴水を取り上げたばかりという印象が強い。 日曜美術館で取り上げるのを断念したのかとあきらめかけていたのだが...

» 続きを読む

2016年7月 9日 (土)

吉丸一昌「唱歌歌格法25か条」『音楽』3巻1号(明治45年)

歌樂雜考(十)吉丸一昌 二十四、唱歌歌格法二十五箇條(但し正格の分) 二十五、速度標語と句調の関係 二十四 唱歌歌格法二十五箇條(但正格の分) この一篇は、昨年夏の講習會の折り、會員の需によりて倉皇筆を起したもので、素よりまだ未定稿である。しかし唱歌の爲めに作歌し、作曲者の爲めに作歌する場合には何かの参考になること信ずるが故に筐底から出して茲に掲げたのである。曲譜も範例として擧ぐべき筈であるが、年...

» 続きを読む

2016年7月 1日 (金)

吉丸一昌「玉淵集の研究(二)」『音楽』6巻1号(大正4年)

玉淵集の研究(二) 吉丸一昌 前號正誤。颯の枝折は諷の誤(二十四貢第一行)。 語物は語勢の誤(二十六貢第十五行) 前號の時は取急ぎの事があつて、末文の『はね字より移りやうの事』の條は、筆が粗略になつて居る恐れがあるし、また此論は重要の議論でもあるから、今改めてまた細かに述べて置きたい。 著書の議論は詮ずる處、左の二説に歸すると思はれる。 一、或る音が鼻音に接續する場合には、鼻音を強弱二種即ち上聲と...

» 続きを読む

東京音楽学校関連記事「都下女学校風聞記」『読売新聞』(明治40年3月)

『読売新聞』明治40年3月3日-8日 都下女学校風聞記(十八) (四)東京音樂學校 ▲お辞儀をすると退校 女學校といふ種類の中に此の學校を入れるのもすこし妙だが、先づ此の學校の女子部を中心としての噂の聞書なかのだから、〓の所存に願ひたい。尤も此の學校では別に街頭の湯屋の樣に男女を區別してある譯ではないので、教場も一所で授業を受ける仕儀。之は今更云ふまでもなく西洋樂の上には如何しても両性の肉聲を必要...

» 続きを読む

吉丸一昌「玉淵集の研究(一)」『音楽』6巻1号(大正4年)

玉淵集の研究(一) 吉丸一昌 玉淵集といふ書は『颯の枝折』とせんが爲めに、寛保三年今村義福(ヨシトミ)といふ人が、その師、時中翁庚喝采妥が傳述したものを編纂したのである。しかし吾人は謡曲者の立場でなくて、これを音韻學の立場、殊に吾人が研究しつゝある言語藝術としての國語、國語を如何に藝術として取扱はれたかと云ふ點から、この玉淵集の所論を研究して見たいと思ふ。故に吾人に不必要な點は削つて、たとひ僻説で...

» 続きを読む

吉丸一昌「音樂教育上より見たる謡曲の教授法」『音楽』6巻2号(大正4年)

音樂教育上より見たる謡曲の教授法 吉丸一昌 足利時代以後謡曲は我國民樂となつて居て、上下に通じて一般に嗜好され、殊に中流以上の社會に研究されたものであるから、頗る細かにその教授法についても研究されて、我邦の音樂教育の上に重要な参考となるべきものがある。此點は今の新しき教育家の決して等閑に附すべからざるものであると信ずる。 さて謡曲教授法の書として古くして旦つ重要なものは『花傳書』、といふ全部四巻の...

» 続きを読む

吉丸一昌「与謝野晶子は奇才」『音楽』1巻1号(明治43年)

ひとりごと(一) △ △ △ ▲年久しく注意されなかったものが、時機到来して漸く注意を惹くに至ると、往々誤解を招くものである。 ▲が、これは誰の罪でもなからう。またこれ等の誤解について、とやかくと短兵急に辨妄の辭を費すと、反て誤解を深むることが無いとも限らぬ。 ▲天下の萬事は實行ありだ、細工は粒々仕上げを見せて、始めから笑って天下の人を見るの度量が無ければならぬ。 ひとりごと(二) △ △ △ ▲...

» 続きを読む

吉丸一昌「何故に覺えし文字ぞ撃刀ぞああ徒に世をすごすかな」(つぶやき)『音楽』1巻2号(明治43年)

つぶやき(二)      萬古刀庵 風は吹く水は流るゝ鳥は啼く思ひ思ひのゆふべの空や 美(うつく)しや吾は吾はと傲(ほこ)らひの色うつくしや聲美しや ふり向きて正しき事をのたまふを見ては聞きては従ひて行く 我に來よ救はれよとののたまひも糧(かて)に飢ゑては歩まれもせず ともすれば背かまほしの憂世ぞと他(ひと)にならひて恨みても見し うれしきはそのまゝ消えて跡もなく悲しみのみを我に執する 何故に覺え...

» 続きを読む

吉丸一昌「きみ死なば君を歌はんわれ死なば我名揚げよと言ひし季晴」(つぶやき)『音楽』1巻3号(明治43年)

つぶやき(三)      萬古刀庵 聞けやとてわが歌心語り居れば涙かき垂れし我友季晴 釈迦牟尼のあの上髯を掻き撫でゝ酒やたぶらん我友季晴 事しあらば太刀の柄頭(たかみ)を取りしばり雄叫(をたけ)びすべき北村季晴 敷島のやまとの國のうたのふしわれならではと言ひし季晴 きみ死なば君を歌はんわれ死なば我名揚げよと言ひし季晴 いにしへも例(ためし)多かるそねみうけて世に誹しらるゝわが友季晴 わが如くこの降...

» 続きを読む

吉丸一昌「歌学雑考」(二)『音楽』2巻5号(明治44年)

歌学雑考(二)吉丸一昌 四、装飾音としての『ン』と音便の『ン』 五、擬聲語を含める歌曲の格式 六、語勢と音程 七、二箇の名詞より成れる集合名詞の語勢 ●正誤●前々號に、高き音程に適しない音を擧げた中に、オ韻列の音を加へてあるのは非常な書き誤りである。 四、装飾音としての『ン』と音便の『ン』 我國の歌曲の中には、『ン』といふ鼻聲が(場合に依つては『ム』とも發音されて)切りに装飾音として、(音曲の連中...

» 続きを読む

吉丸一昌「桜の歌」『教育時論』900号(明治43年)

櫻の歌 万古刀 櫻は、我が國の名花なり。されば、古来、櫻の歌の多きこと、梅の歌よりもまさりて、其の數計り知るべからず。今その中より、管見の及ぶところを以つて、僅に抄出を試みむとす。 櫻といふ語の、歌に見えたるは、日本書紀の允恭天皇の御製を始めとす。その御製は、 波那具波辭、佐區羅能梅涅、許等梅涅麼、波椰區波梅涅〓、和我梅豆留古羅。 (※振り仮名 はなぐはし、さくらのめで、ことめでは はやくはめでず...

» 続きを読む

吉丸一昌「梅の歌」『教育時論』897号(明治43年)

梅の歌 萬古刀 萬葉集の古より、近代の歌人の集に至るまでを数へたらむには、梅の花をよめる歌、いく千萬といふ數しらずあるべし、今その多かる中より、少々ぬき出でゝ、いさゝか思ふふしを書き添へて見むとす。固よりたゞ思ひよりたるものをあぐるのみにて、すぐれたるをえらびたりといふにあらず。 凡そ、梅の歌としいへば、其の色の美しきをよめるよりも、其の香のかぐはしきをめでたるが多く、其の白さは雪になぞらへ、其の...

» 続きを読む

「酒に問はばや」『音楽』3巻4号(明治45年)

酒に問はばや   (如月兄のために) 萬古刀庵 尋ねてはいづこの花を歌にせん。 かすみ流るゝ舟もよし。 雲雀さへづる路もよし。 先づ試に一杯(ひとつき)の酒に問はゞや。 酒にまかせて酒に問はゞや。 夜の宮   (伯林の山田兄のために) 嵐しづまりて夜(よる)俄(にはか)に更(ふ)け 片破月はしのびやかに。 森のかげをさしのぼる。   なにに喜ぶ聲か?鼠(むさゝび)   こだまに響けばはたと消ゆ、 ...

» 続きを読む

吉丸一昌「歌学雑考」(十一)『音楽』(明治45年)

歌樂雜考(十一)吉丸一昌 二十六 唱歌格法の變格について 正格については嘗て大略を述べた。今その變格について所見の一班を述べて見よう。纏めて順序を追うことは後にして、断片的に書き附ける。見る人その心したまへ。 唱歌の中には正格の格法よりも變格の方が數に於て遙に多い。 變格と言っても、決して出鱈目に歌詞を並べたものではない。亂雑の形式と見ゆる中にも整然たる順序は明かに立つて居る。これは曲譜を精細に味...

» 続きを読む

2016年6月19日 (日)

剱岳測量史を新聞報道から問う(16)標高漏洩問題の周辺

剱岳測量史の話題の一つに標高漏洩問題がある。これについて新しい事実を示す新聞記事が見つかった。 陸地測量部三角科第4班による明治40年の測量成果は、明治44年発行の2万分1地形図「富山」(明治43年測図)や大正2年発行の5万分1地形図「立山」(大正元年測図)で、初めて世の中に知られることになる。 ところが、明治41年7月10日発行の大井冷光編『立山案内』に、立山・剱岳・白山の標高が陸地測量部の報告...

» 続きを読む

2016年6月18日 (土)

剱岳測量史を新聞報道から問う(15)砂防工事と冷遇問題

立山温泉で柴崎測量隊の冷遇問題が起きたのは明治40年7月30日夕、翌31日には柴崎が新聞3紙の記者から剱岳測量について取材を受けている。 ちょうどその頃に気になる新聞記事が出ている。 8月1日『北陸政報』2面の要人動静欄「一去一来」である。 ▼宮尾砂防工師 は立山砂防地へ出張中の處事務打合の爲め昨日富山県庁に出頭し杉村土木課長に面會したり 7月31日に宮尾は立山温泉から富山市にある県庁きて、上司で...

» 続きを読む

林古溪「詩と音楽」『音楽』5巻2号(大正3年)

詩と音樂 林 古溪 僕の考によれば、詩と音樂との關係は、もう夙にきまつてをる問題である。今更いふ必要はない、所でその極(き)まつて居る間題を更に説明して見たいといふ僕の小さな野心だ。 一言にしていへば、詩(△)は言語文字(又は文章)によつて言ひ表はされる美術である、言語文字を材料とする藝術的作品である。作るものも、之を賞翫するものも、共に言語文字を中間材料、又は媒介としてをる。音樂(△ △)は或る...

» 続きを読む

2016年6月15日 (水)

剱岳測量史を新聞報道から問う(14)牧野新聞に見つかった『高岡新報』記事2

牧野新聞から見つかった新しい事実を見ていこう。『高岡新報』明治40年8月4日3面の「我社立山探検隊より 第四日 第五日 第六日」には次のような行程が書いてある。 立山探検隊の一行は、第四日の7月31日午前4時に室堂(標高2450m)を出発し、鏡石(2230m)姥石(1979m)を経由して弥陀ヶ原(1850m)に至り、松尾峠(標高2230m)から坂道を一気に下って午前10時、立山温泉(標高1305m...

» 続きを読む

2016年6月14日 (火)

剱岳測量史を新聞報道から問う(13)牧野新聞に見つかった『高岡新報』記事1

柴崎芳太郎は剱岳から下山した後、明治40年7月31日、立山温泉で新聞3紙の取材を受けた。柴崎の残した記録によると、『富山日報』『高岡新報』『大阪朝日新聞』の3紙である。『富山日報』は「劒嶽攀登冐險譚」という記事が当初からよく引用されてきたが、他の2紙についてはこれまで調査が進んでいなかった。富山県内の図書館には『高岡新報』の原紙が明治43年1月以降しか所蔵されていないからだ。 今回、東京大学明治新...

» 続きを読む

2016年6月13日 (月)

剱岳測量史を新聞報道から問う(12)立山奉幣使も砂防視察

柴崎芳太郎たちの測量隊が立山温泉で冷遇される一件は、明治40年7月30日夕に起きたとみられている。7月28日に2度目の剱岳登頂で測量標を建て、その3日後にあたる。 さて、立山雄山神社の奉幣使について新聞記事で見ていこう。政教分離でない時代で、重要な神事には県知事か事務官クラスの幹部が奉幣使として参加することになっていた。 立山雄山神社の山開き神事は明治40年7月25日に行われた。 『北陸政報』7月...

» 続きを読む

2016年6月12日 (日)

剱岳測量史を新聞報道から問う(11)立山砂防工事の動き

剱岳測量史で避けては通れないのは、立山温泉での冷遇問題である。テント生活をしながら測量をしていた柴崎芳太郎たちが、久し振りに下山して立山温泉で宿泊しようとした際、温泉側から十分な部屋を提供してもらえなかった一件である。その背後には砂防工事で来ていた傲慢な県の役人がいて柴崎の依頼を断った、とされている。 新田次郎は、「柴崎対役人」の対立をうまく物語の展開に組み入れている。 しかしこれはどこまでが史実...

» 続きを読む

2016年6月 9日 (木)

剱岳測量史を新聞報道から問う(10)玉井要人大尉の談話記事4

玉井要人工兵大尉が明治40年6月、『富山日報』に語った3つの談話記事の後に、関連記事がいくつかある。 まず、『富山日報』明治40年7月14日2面。「公人私人の來往」。 三角術測量起工實檢の爲め陸軍陸地測量部玉井工兵大尉、片上工兵大尉は昨日終日遊園地へ臨檢したり この記事は前述の『富山日報』明治40年6月17日3面「玉井大尉の三角測量談」の内容と符合する。 その記事では「富山市内にも撰点を爲し測量の...

» 続きを読む

2016年6月 8日 (水)

剱岳測量史を新聞報道から問う(9)玉井要人大尉の談話記事3

玉井要人工兵大尉[1]が『富山日報』に語った3つの記事。その3つ目の明治40年6月22日の記事にようやく「劍山」が出てくる。以下これに関する記述を引用しよう。 撰点を終れば造標と通視障害木の伐採に着手す眞直の木なき高山に於ては造標を樹つる爲め三間乃至四間の丸太を擔ひ上るを要とするを以て大なる勞力を要し彼の劔山の如きは短かき丸太を擔ぎ上げて組立つるの外なかるべく事によりては之れさい不可能なるやも計り...

» 続きを読む

2016年5月29日 (日)

剱岳測量史を新聞報道から問う(8)玉井要人大尉の談話記事2

玉井要人は、陸軍省参謀本部陸地測量部三角科第4班の班長(武官)である。柴崎の上司にあたる。 内閣印刷局が毎年度発行していた『職員録』をみると、玉井は明治40年度班員(正7位勲5等)、明治41年度に班長(正7位勲5等)である。『職員録』は毎年5月1日調べだ。一方、明治40年に柴崎が記録した点の記「(1)真川測站 景第壹號」では、班長欄に玉井の名が記載されている。玉井は明治40年度中に班長に昇格したの...

» 続きを読む

2016年5月28日 (土)

剱岳測量史を新聞報道から問う(7)玉井要人大尉の談話記事1

著作権だけを理由に、『富山日報』の藤田午山記者が書いた「劍嶽攀登冒険譚」を見直せといっているのではない。藤田午山記者がなぜ剣岳測量登山を取材したのか、その経緯に注目すべきだといっているのである。 取材経緯は「劍嶽攀登冒険譚」の前文に記されている。それによると、藤田記者は明治40年7月30日午前4時に立山室堂を出て、浄土山と立山三山を縦走し、別山(2880m)にたどり着いた。そこで次のような行動が記...

» 続きを読む

2016年5月27日 (金)

剱岳測量史を新聞報道から問う(6)出発点は藤田午山記者の記事

新田次郎の小説『劒岳 点の記』(1977年)のベースになった論稿がある。松村寿の「剣岳先踏前後」だ。小説のあとがきにあたる「越中劔岳を見つめながら」という紀行文で、新田は最後に松村への感謝を述べている。参考文献19編の最初には松村の論稿3編がかかげられている。国土地理院を訪ねて「点の記」の史実を発掘したのは松村だから、新田が敬意を表したのである。 松村の論稿は専門誌『山書研究』に1966年から19...

» 続きを読む

2016年5月26日 (木)

剱岳測量史を新聞報道から問う(5)柴崎自身が語る責任感

山岡光治氏は、『地図をつくった男たち』の第14章「劔岳登頂は柴崎芳太郎に何を与えたか」の最後に、映画を撮った木村大作監督の言葉を紹介している。 「『ただ、地図を作るためだけに、献身しているのはなぜか』、当事者であっても、この問いには容易に答えられないだろう。決して名誉や、利のためではない。その彼らへの仕事の情熱に感動して、映画化を決めた」。 柴崎芳太郎 ※「本會第四大會の記」 『山岳』第6年第2号...

» 続きを読む

2016年5月25日 (水)

剱岳測量史を新聞報道から問う(4)取材対応はまずくない

剱岳が柴崎芳太郎らによって登頂されたのは明治40年、1907年。それからちょうど百年がたつ2007年から5年間に剱岳登頂・測量史をめぐる書籍や論稿が相次いで出版された。主なものは以下の5点である。 山田明『剱岳に三角点を! ―明治の測量官から昭和・平成の測量官へ』2007年 瀬戸島政博「『劒岳 点の記』をよりよく理解するための解説」『測量』2008-2009年 五十嶋一晃『山案内人 宇治長次郎』2...

» 続きを読む

«剱岳測量史を新聞報道から問う(3)専門家の痛恨ミス

2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ
サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想