2017年3月17日 (金)

毎日新聞の《精華》批評に反論する

毎日新聞「日曜カルチャー」で渡辺亮一記者が、吉田博の《精華》を批評している。その内容に異議があるので反論しておく。 本文1900字のうち440字が《精華》に関する記述である。その部分をすべて引用する。  風景画には安定した力量が示されているが、個人的には欠点のある作を興味深く鑑賞した。後期展示の油彩「精華」(1909年、東京国立博物館蔵)。異色の構想画である。縦157・6センチ、横270・6センチ...

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2017年1月21日 (土)

「吉田博展」久留米のポスターを評する

いよいよ𠮷田博展が久留米市で始まる。ポスターが公開された。これまで千葉、郡山と批評してきたので、この告知ポスターについても僭越ながら評しておこう。 ベースは版画『劔山の朝』である。そして、表題「𠮷田博展」は、千葉市美術館のポスターが採用した変則明朝ではなく、通常の太字明朝である。やや太すぎで、すこし品がない。 最大の難点は「生誕140年」の位置である。「...

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2017年1月 4日 (水)

「殴った男」ひとり歩きが心配

2017年が明けてすぐ、NHKEテレで日曜美術館40周年特集「ゆく美 くる美」という番組を放送してしていた。出演者と学芸員たちが2016年を振り返り、2017年を展望するという座談会のような内容だった。 その中で「吉田博展」が取り上げられ、担当学芸員が発言していた。 「ウケたとすればですね、超絶技巧というようなところは大きかった」 「吉田博の木版画は浮世絵の技術を使いつつ、いかに洋風の表現を実現す...

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2016年12月30日 (金)

吉丸一昌「川柳論」『俳諧論集』(明治38年)

川 柳 論 文學士 吉丸萬古刀庵 今まで昔話のやうに忘れられて居た川柳といふ一種の俳句が、先頃から日本新聞では、曩に坂井久貢岐君、近頃は井上剣坊花君が大将で、讀賣新聞では群雄割據の有様を以て、頻りにやるやうになッたし、また諸新聞雑誌にも、折々散見するやうで、實に勃興の気運に向ッて来ました。それを今私がこれに付ての卑見と其歴史の大體とを申上げるのは、所謂時好に投ぜむとする際のやうで、間違へば私が川柳...

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2016年10月23日 (日)

【目次】吉丸一昌の時代 唱歌編纂と早春賦の謎

はじめに [参考]吉丸一昌関連参考文献 第1章 文武両道 帝大卒業、苦境を乗り越え/湯原元一と演説部で接点か/大学時代は成績最下位/東京音楽学校の2つの課題/風紀問題と生徒監制度/唱歌教科書を編むための人事/唱歌作詞の実績は見えず/筆名は萬古刀庵/ [参考表]五高校友会誌『龍南會雜誌』への寄稿 [参考]吉丸一昌の主な寄稿(音楽学校着任以前) →縦書きテスト版20150221.pdf 第2章 音楽学...

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2016年10月22日 (土)

【目次】吉田博_関連記事一覽

日曜美術館「吉田博」を見た(2016年7月) 1 物足りない『劔山の朝』実映像 2 摺りの再現は難しい 3 山岳取材もっと丁寧に 4 なぜ木版画の道に入ったか 5 日美旅ブログの甘い記述 異色の油彩《精華》を読み解く 吉田博の《精華》を読み解く ライオンに威厳があるか 敗北感があるか 繰り返される誤記を正す 裸体画問題への自論 関連批評 『岳人』の特集記事にがっかり 登山史を調べよう 『山の絵本』...

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2016年10月21日 (金)

【目次】剱岳測量史・登山史を読み解く

本論稿 剱岳初登頂記事と〔午山生〕 物語「点の記」と違う史実とは 演出のための脇役牛山記者 「越中劍岳先登記」の曖昧な転載 『山岳』小島烏水の転記ミス 陸地測量部内で起きた波紋 剱岳登頂の風評はあったか 錫杖頭の実寸スケッチは柴崎筆 藤田午山はだれなのか 剱岳測量史を新聞報道から問う (1)歪められる史実 (2)『近代測量史への旅』の誤認 (3)専門家の痛恨ミス (4)取材対応はまずくない (5)...

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2016年10月16日 (日)

三等三角点測量事業概要『官報』(明治41年)

※『官報』7558号(明治41年9月3日) ○陸地測量事業概況 陸地測量部ニ於ケル明治四十年度陸地測量事業ノ概況左ノ如シ(陸軍省) 三角測量 (中略) 三、四等三角測量作業地ハ能登越中ノ大部、越後ノ半部及加賀、信濃、羽前ノ一小部ニ亙リ 班長二人、検査掛四人、測量掛三十九人ヲ以テ四月上旬ヨリ十二月下旬ノ間作業シ 面積八百十二方里ニ對シ新設三等三角點千三百七十六點四等三角點百二十五點ノ観測ヲ完了セリ ...

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2016年9月17日 (土)

吉田博 90年後の『劔山の朝』は見えたか

山岳雑誌『PEAKS(ピークス)』10月号の吉田博特集で、山岳画家・エッセイストの成瀬洋平氏が「90年後の『劔山の朝』を描く」を書いている。日美旅ブログを評した以上、これについても率直な感想を記そう。 その前に雑誌編集者に苦言を申し上げる。『PEAKS(ピークス)』の吉田博特集は、雑誌『岳人』4月号と、それほど変わらないものだった。特に吉田博の年譜はひどい。『岳人』と同じように展覧会の年譜から抜き...

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2016年8月20日 (土)

竹内紅蓮「故郷を憶ふ」『少國民』14年2号(明治35年1月)

故郷を憶ふ (唱歌) 紅  蓮 夕(ゆうべ)の空は雨とならん  窓の寒梅(かんばい)いまだ咲かず   朝北(あさきた)さむき旅(たび)のいたみ    雲の往來(ゆきゝ)の物(もの)をおもふ あゝしなさかる越(こし)におはす  父母君やはらからぎみ   うからやからの愛(あい)の園(その)を    うらぶれいでゝ茲(ここ)に四年(よとせ) 未だ學ならず魯鈍(ろどん)なりや  人(ひと)に入(い)れら...

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2016年8月11日 (木)

吉田博『劔山の朝』は非現実か

吉田博 『劔山の朝』 (木版、1926年、37mm×24.8mm) 吉田博の版画『劔山の朝』は、朝焼けの剱岳(2999m)を表現したものだ。煙が立ち昇るテント、茜色に染まる岩峰いわゆるモルゲンロートとが絶妙な対比となり、奥行き感を演出している。背後の積乱雲が雄大な印象を与える。しかし眺めるにつけ違和感がぬぐえない。それは、早朝に積乱雲が見えるものなのか、という素朴な疑問である。これはもしかして、写...

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2016年8月 9日 (火)

中日新聞「吉田博 水彩画の剣岳あった」をどう読む

「洋画家・吉田博 水彩画の剣岳あった/長野・大町の旅館 傑作版画と同じ構図」という記事が『中日新聞』2016年7月7日付夕刊に掲載された。大町通信局の林啓太記者による独自ダネである。 版画『劔山の朝』(左)と大町市の旅館にある水彩画 郡山市立美術館の「生誕140周年 吉田博展」の会期中で、NHK日曜美術館の放送が7月10日にあると告知されている時に、こうした話題を書き上げるというのは、ニュース感覚...

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2016年8月 7日 (日)

吉丸一昌の時代_第9章 「故郷」の深淵

吉丸一昌は、帰るべき故郷をなくしてしまった人である。吉丸一昌を語るうえで「故郷」は極めて重要な言葉と言わねばならない。一昌が残した300編を超える作品のうち、故郷に関するものは数編ある。そこには「父母」「友」「森」「山」「川」や幼い日の記憶といった共通の心象風景がある。本章では数編の歌詞から一昌の故郷に対する心情を考察してみたい。 吉丸一昌の故郷に関する唱歌 《故郷》ツネとの歌集(明治38年5月)...

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2016年8月 3日 (水)

吉田博は書生肌・山法師気質

「絵の鬼」と呼ばれた吉田博。いったい誰が言った人物評なのか。 吉田博研究の第一人者、安永幸一氏の『山と水の画家 吉田博』(2009年)によると、昭和23年に発行された小杉未醒『帰居来』に書いてあるそうだ。 吉田博の人柄を書いた安永氏の文章が端的で面白い。図録『生誕140周年 吉田博展』の安永論文は、『山と水の画家 吉田博』をベースにしていて約21000字もあるが、読みごたえ十分である。 いま風に言...

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2016年7月31日 (日)

吉田博《精華》は裸体画問題への自論

吉田博の《精華》は、裸体画論争(当時は裸体画問題)に一石を投じる意図で描かれたのではないか。取り締まる当局に対する抗議の意味が込められていたのではないか。また、黒田清輝の裸体画に対する考えの違いを鮮明する狙いもあったのではないか。 吉田博 《精華》 (第3回文展、1909年) カラー図版 《精華》に込められた吉田博の心情について引き続き論じてみたい。 図録『生誕140年 吉田博』で、久留米市文化振...

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2016年7月30日 (土)

「裸体画の不幸」『美術新報』(明治41年)

裸體畫の不幸 今回は内閣の交迭と共に、文部省は裸體に關する出品に對して概ね排斥の方針をとりしより、洋畫の側には之が爲め落選の不幸を見るもの多く、彫刻の方に於ては婦人全身の裸體像なる建畠大夢氏の『閑静』石川確治氏の『花の雫』新海竹太郎氏の『ふたり』の三點だけは入口右方に別に特別観覧室を設けて陳列することゝしたり。こは最初開會に先だち警視廳の臨檢を乞ひたる際、其意見に基づきて同會は裸體像の一分に布帛を...

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第2回文展審査方針『讀賣新聞』(明治41年)

美術審査方針 小松原文相は昨日の第二回美術展覧會審査會席上に於て大要左の如き演説をなせり。 美術は古來我邦の特長とする所にして、文部省美術展覧會の目的は将來益々此特長を獎勵するに在るが故、流派の如何に偏倚(へんい)することなく公平に審査を施行し、汎(ひろ)く我邦美術の歩を圖らざるべからず。本會に對する當局の方針は素より毫(すこし)も變せざるを以て、諸君は克く其意を体し、流派團体の如何を問はず、公平...

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2016年7月28日 (木)

中村不折「裸体画と画題」『日本美術』(明治40年)

裸體畫及畫題 中村不折 「神に属するものは神に、王に属するものは王に返せ」そしてそこに初めて宗教の發達を見、國家の安全を得るのである。その如くに藝術も或意味に於て獨立が欲しい。「藝術の爲めの藝術」といふ言葉は、あながち反道徳の聲とのみ聞く必要はあるまい。廣く一般藝術に亘りては、學者ならぬ予の素より知る所でないが、繪畫彫刻にありては、裸體研究の必要缺く可からざるものであることは、東西の歴史に考へ、予...

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2016年7月27日 (水)

霞事件論評_『萬朝報』(明治41年)

美術界の悲劇 掬汀生 彫刻家北村四海氏が「霞」と題する自作彫像を破碎したる一事件は、藝術に心を傾くるものに、甚大悲壮の感動を與へた。確信ある藝術家の作品は、大抵心血の結晶體である事は言ふまでもないが、夫を作者自身が打碎くと云ふは、並大抵の出來事でない。彼が此非常手段を執るに至った動機は、情實に依って輕重さるゝ美術審査の宿弊を一洗して、公平なる鑑査を爲せ度い爲に、彼等審査官を覚醒すべく苦心の作を犠牲...

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2016年7月25日 (月)

吉田博《精華》に敗北感があるか

郡山市美術館の吉田博展が7月24日に終わった。NHKの日曜美術館を見た人が次々に訪れ大盛況だったという。次の巡回展は半年後の2017年2月4日から故郷久留米だ。 吉田博の絵の深い魅力に入っていく道はいろいろある。日曜美術館のような流れが一般的だ。まずダイアナ妃の執務室に飾られた木版画。木版画といえば山岳風景、そして精緻な木版《渓流》に驚く。次は、水彩の風景画に惹きこまれる。最後が油彩画だ。 吉田博...

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2016年7月24日 (日)

吉田博「僕は山党です」『美術新報』(1910年)

スケッチと云ふ言葉の意味からいふと、雑と描くと云ふ事だが、人によってスケッチを丁寧に描くのがある。大きい絵の下画きでなく、単にコンポジションとしてゞなく、スケッチはスケッチとして別に独立さして、充分研究する人がある。石井柏亭君などは先づ此部類に属する人であらう。単に下絵として取扱ふ人のスケッチは極く雑としたものに過ぎない。特に風景などは何んな紙っ片に描いても好いのだから、是が本当のスケッチでせうが...

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2016年7月23日 (土)

吉田博《精華》のライオンに威厳があるか

図録『生誕140年 吉田博』で、久留米市文化振興課学芸員の稲富景子氏は、油彩《精華》の主題は「美の威厳」であるとみている。それはおそらく正しい。しかし、その先の解釈がどうも怪しい。 したがって、吉田が設定した《精華》の主題は、「美の威厳」であり、理想化された裸体女性に「美」を、その「威厳」を示すべきあらゆる対象に「ライオン」というモティーフを用いた、ということになるのではないか。そして、「美」を象...

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2016年7月22日 (金)

吉田博《精華》に関する誤記を正す

吉田博の《精華》を裸体画論争に位置付けて考察せよ、と先に書いた。1986年に勅使河原純氏が『裸体画の黎明』で位置付けはしたが、十分に読み解くことができていない。勅使河原氏の記述には重大な誤認があり、吉田博研究の第一人者である安永幸一氏もまた同じ誤記をし、図録『生誕140年 吉田博展』で稲富景子氏も訂正できていない。 この際、間違いを正しておかなければならない。 この間違いは、吉田博の談話記事「作者...

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2016年7月21日 (木)

『岳人』の吉田博特集記事にがっかり

登山専門誌『岳人』2016年4月号に吉田博の特集記事があるというので、遅ればせながら図書館に足を運んで読んだ。 「世界の山々を描いた男 吉田博」という計6ページの企画物。専門誌なので吉田博の山旅をさぞ調べて書いてあるのかと期待していたが、それは裏切られた。中味がほとんどない。千葉市美術館で始まった「生誕140年 吉田博展」の単なる宣伝のようなお手軽な内容だった。木版の日本南アルプス集の『露営 北岳...

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2016年7月20日 (水)

吉田博の《精華》を読み解く

吉田博のアトリエの写真に目が釘づけになってしまった。明治43年8月の雑誌「グラヒック」に掲載された一枚である。 畫室に於ける吉田博氏 畫家吉田博君之畫室 『グラヒック』2巻16号(1910年8月) 小さなキャンバスに向かう横顔の吉田博は当時34歳。目を引くのは壁にかけられた裸体とライオンの油彩《精華》だ。縦157.6センチ、横270センチもある。風景版画で知られる吉田博にとっては異色の作品とされて...

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2016年7月19日 (火)

「吉田博」登山史を調べよう

1976年の生誕100年、1996年の生誕120年、2000年の没後50年。そして今回の生誕140年。回顧展のたびに吉田博の画業は整理されてきた。 一つの大きな成果は、安永幸一氏の一連の著作であろう。『福岡市美術館叢書4・吉田博資料集』2007年、『山と水の画家吉田博』2009年、そして未見ではあるが2016年3月の『吉田博 作品集』がある。 安永氏の研究の全容を把握したわけではないので、僭越だけ...

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2016年7月18日 (月)

吉田博_談「版画に就いて」『浮世絵界』1936年

版畫に就いて 吉田博(談) 私は山が好きである。子供の時から山を喜んでみた。繪をかくやうになってから、私は専ら山を書いてゐる。好きだから畫いてゐるのであって、誰かの要求によつてかゝされてゐるのではない。書かずにはをれぬのである。私はテントをもつて山に入るのである。アトリエを山に移し、山に包含せられて、山の霊気によって、俗世間の煩らひを一洗し、山の精神になりきる。そこから私の繪は生れるのである。版畫...

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2016年7月17日 (日)

吉田博の知られざる線画 『雲表』

「生誕140年 吉田博展」は、20年ぶりの大規模回顧展だという。広告デザイン関係では苦言を述べさせていただいたが、作品を集めて膨大な資料をまとめられた関係者の労は素直にねぎらいたい。あの世の吉田博も心から喜んでいるだろう。ここからは内容を一歩踏み込んで論議を喚起したい。 「雲表」(1909年、水彩) ※福岡県立美術館蔵 吉田博の『雲表』といえば水彩画の代表作だ。明治42年の文展に出品された。立山の...

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2016年7月16日 (土)

「吉田博展」図録と告知デザインの気負い

NHK日曜美術館「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」について批評してきた。エラそうに批判ばかり書いているが、「生誕140年吉田博展」をちゃんと見たのか、と言われると耳が痛い。白状すると千葉にも郡山にも足を運べていない。インターネットミュージアムの動画で見たのと、手元に図録「生誕140年吉田博展」があるだけだ。しかし、たいへん僭越ながら、この際もうすこし書かせてもらう。 この蛍光色の黄色い図録には...

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2016年7月15日 (金)

吉田博『山の絵本』がおすすめ

「日本アルプス十二題」の「劔山の朝」「大天井岳より」に触れたついでに1冊の本を紹介しておこう。 35年前の1981年5月に講談社から出版された『山の絵本』という本だ。サブタイトルが「日本アルプスと富士」。絵本とあるが子ども向けではない。美術ファン向けである。 吉田博・白旗史朗『山の絵本』(1981年) 表紙は木版「劔山」(1935年ごろ) 著者は、吉田博と山岳写真家の白旗史朗氏である。発行当時、吉...

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2016年7月14日 (木)

日曜美術館「吉田博」を見た5

吉田博版画の代表作「劔山の朝」の現場に行ってみたい。そう思った人もいるだろう。しかし少なくとも観光気分で行ける場所ではない。本格的な山旅を覚悟しないとその場には立てないのである。 NHK日曜美術館「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」の放送に合わせて、Webページ「出かけよう、日美旅」(日美旅ブログ)に第14回「日本アルプスへ 吉田博旅」が公開された。放送で踏み込めなかった部分を、Webで補おうと...

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2016年7月13日 (水)

日曜美術館「吉田博」を見た4

吉田博はなぜ木版画に挑み始めたのか。簡単そうで意外に難しい問いである。 NHK日曜美術館「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」では、重厚な洋画が注目されなくなり、渡辺庄三郎との出会いをきっかけとして木版画への道に入ったと流すように説明していた。 吉田博研究の第一人者、安永幸一氏は『山と水の画家 吉田博』(2009年)で、大正12年末から大正14年8月にかけての渡米渡欧についてかなり詳しく書いている...

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2016年7月12日 (火)

吉田博_自然に対する画家の態度『寫生旅行』(1907年)

斯ゝる主張に依って察するに、ホヰッラーは誰が何と云はうが、一切頓着なく、偉常なる自己の見識に頼って、まるで世間を踏み付けにして居たと云ふ事がわかる。其の行爲の批判は兎も角として、美術家は之れだけの見識を持つべきである。或は彼れと反對の見識でも彼れと同じ強さに於て保持しなければならぬ。ホヰッスラーは自然を臀に敷いて仕末って居る。けれども私は自然を崇拝する側に立ちたい。態度は同じではないけれど、併し私...

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日曜美術館「吉田博」を見た3

吉田博の人生はまるで大河ドラマである。片道切符の渡米からして、ぐいぐい惹きつけられてしまう。NHK日曜美術館「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」は、そのあたりを短いVTRに上手にまとめていた。 ただ一つ気になることがあった。番組では、吉田博は渡欧して観光地化された風景に物足りなくなった、という。そこで油彩『パリ風景』(1906年)という一見なんでもない町の風景画を映し出す。とりあえずはここまでは...

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2016年7月11日 (月)

日曜美術館「吉田博」を見た2

NHKの日曜美術館「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」の後半の見せどころは、富士拾景『朝日』(1926年)という作品の再現である。吉田博の技の解明に挑むという。 吉田博自身が彫ったという本物の版木を前にして、職歴40年近くという摺師が緊張していると話す。正直な人だ。そりゃそうだ、絵の鬼と言われた吉田博が横にいたらどうだったろうか。厳しい指示が飛んでいただろう。NHKの番組だからこそできた再現は、...

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2016年7月10日 (日)

日曜美術館「吉田博」を見た1

NHKの日曜美術館で「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」が放送された。ようやくである。2016年春にカラバッジョ展・若冲展・黒田清輝展に対抗するかのように、千葉市美術館で「生誕140年 吉田博展」が開かれたときは音沙汰なしで心配していた。そりゃそうだ。1年半前に千葉市美術館で同じ木版画の川瀬巴水を取り上げたばかりという印象が強い。 日曜美術館で取り上げるのを断念したのかとあきらめかけていたのだが...

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2016年7月 9日 (土)

吉丸一昌「唱歌歌格法25か条」『音楽』3巻1号(明治45年)

歌樂雜考(十)吉丸一昌 二十四、唱歌歌格法二十五箇條(但し正格の分) 二十五、速度標語と句調の関係 二十四 唱歌歌格法二十五箇條(但正格の分) この一篇は、昨年夏の講習會の折り、會員の需によりて倉皇筆を起したもので、素よりまだ未定稿である。しかし唱歌の爲めに作歌し、作曲者の爲めに作歌する場合には何かの参考になること信ずるが故に筐底から出して茲に掲げたのである。曲譜も範例として擧ぐべき筈であるが、年...

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2016年7月 1日 (金)

吉丸一昌「玉淵集の研究(二)」『音楽』6巻1号(大正4年)

玉淵集の研究(二) 吉丸一昌 前號正誤。颯の枝折は諷の誤(二十四貢第一行)。 語物は語勢の誤(二十六貢第十五行) 前號の時は取急ぎの事があつて、末文の『はね字より移りやうの事』の條は、筆が粗略になつて居る恐れがあるし、また此論は重要の議論でもあるから、今改めてまた細かに述べて置きたい。 著書の議論は詮ずる處、左の二説に歸すると思はれる。 一、或る音が鼻音に接續する場合には、鼻音を強弱二種即ち上聲と...

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吉丸一昌「玉淵集の研究(一)」『音楽』6巻1号(大正4年)

玉淵集の研究(一) 吉丸一昌 玉淵集といふ書は『颯の枝折』とせんが爲めに、寛保三年今村義福(ヨシトミ)といふ人が、その師、時中翁庚喝采妥が傳述したものを編纂したのである。しかし吾人は謡曲者の立場でなくて、これを音韻學の立場、殊に吾人が研究しつゝある言語藝術としての國語、國語を如何に藝術として取扱はれたかと云ふ點から、この玉淵集の所論を研究して見たいと思ふ。故に吾人に不必要な點は削つて、たとひ僻説で...

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吉丸一昌「音樂教育上より見たる謡曲の教授法」『音楽』6巻2号(大正4年)

音樂教育上より見たる謡曲の教授法 吉丸一昌 足利時代以後謡曲は我國民樂となつて居て、上下に通じて一般に嗜好され、殊に中流以上の社會に研究されたものであるから、頗る細かにその教授法についても研究されて、我邦の音樂教育の上に重要な参考となるべきものがある。此點は今の新しき教育家の決して等閑に附すべからざるものであると信ずる。 さて謡曲教授法の書として古くして旦つ重要なものは『花傳書』、といふ全部四巻の...

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吉丸一昌「与謝野晶子は奇才」『音楽』1巻1号(明治43年)

ひとりごと(一) △ △ △ ▲年久しく注意されなかったものが、時機到来して漸く注意を惹くに至ると、往々誤解を招くものである。 ▲が、これは誰の罪でもなからう。またこれ等の誤解について、とやかくと短兵急に辨妄の辭を費すと、反て誤解を深むることが無いとも限らぬ。 ▲天下の萬事は實行ありだ、細工は粒々仕上げを見せて、始めから笑って天下の人を見るの度量が無ければならぬ。 ひとりごと(二) △ △ △ ▲...

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吉丸一昌「何故に覺えし文字ぞ撃刀ぞああ徒に世をすごすかな」(つぶやき)『音楽』1巻2号(明治43年)

つぶやき(二)      萬古刀庵 風は吹く水は流るゝ鳥は啼く思ひ思ひのゆふべの空や 美(うつく)しや吾は吾はと傲(ほこ)らひの色うつくしや聲美しや ふり向きて正しき事をのたまふを見ては聞きては従ひて行く 我に來よ救はれよとののたまひも糧(かて)に飢ゑては歩まれもせず ともすれば背かまほしの憂世ぞと他(ひと)にならひて恨みても見し うれしきはそのまゝ消えて跡もなく悲しみのみを我に執する 何故に覺え...

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吉丸一昌「きみ死なば君を歌はんわれ死なば我名揚げよと言ひし季晴」(つぶやき)『音楽』1巻3号(明治43年)

つぶやき(三)      萬古刀庵 聞けやとてわが歌心語り居れば涙かき垂れし我友季晴 釈迦牟尼のあの上髯を掻き撫でゝ酒やたぶらん我友季晴 事しあらば太刀の柄頭(たかみ)を取りしばり雄叫(をたけ)びすべき北村季晴 敷島のやまとの國のうたのふしわれならではと言ひし季晴 きみ死なば君を歌はんわれ死なば我名揚げよと言ひし季晴 いにしへも例(ためし)多かるそねみうけて世に誹しらるゝわが友季晴 わが如くこの降...

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吉丸一昌「歌学雑考」(二)『音楽』2巻5号(明治44年)

歌学雑考(二)吉丸一昌 四、装飾音としての『ン』と音便の『ン』 五、擬聲語を含める歌曲の格式 六、語勢と音程 七、二箇の名詞より成れる集合名詞の語勢 ●正誤●前々號に、高き音程に適しない音を擧げた中に、オ韻列の音を加へてあるのは非常な書き誤りである。 四、装飾音としての『ン』と音便の『ン』 我國の歌曲の中には、『ン』といふ鼻聲が(場合に依つては『ム』とも發音されて)切りに装飾音として、(音曲の連中...

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吉丸一昌「桜の歌」『教育時論』900号(明治43年)

櫻の歌 万古刀 櫻は、我が國の名花なり。されば、古来、櫻の歌の多きこと、梅の歌よりもまさりて、其の數計り知るべからず。今その中より、管見の及ぶところを以つて、僅に抄出を試みむとす。 櫻といふ語の、歌に見えたるは、日本書紀の允恭天皇の御製を始めとす。その御製は、 波那具波辭、佐區羅能梅涅、許等梅涅麼、波椰區波梅涅〓、和我梅豆留古羅。 (※振り仮名 はなぐはし、さくらのめで、ことめでは はやくはめでず...

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吉丸一昌「梅の歌」『教育時論』897号(明治43年)

梅の歌 萬古刀 萬葉集の古より、近代の歌人の集に至るまでを数へたらむには、梅の花をよめる歌、いく千萬といふ數しらずあるべし、今その多かる中より、少々ぬき出でゝ、いさゝか思ふふしを書き添へて見むとす。固よりたゞ思ひよりたるものをあぐるのみにて、すぐれたるをえらびたりといふにあらず。 凡そ、梅の歌としいへば、其の色の美しきをよめるよりも、其の香のかぐはしきをめでたるが多く、其の白さは雪になぞらへ、其の...

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「酒に問はばや」『音楽』3巻4号(明治45年)

酒に問はばや   (如月兄のために) 萬古刀庵 尋ねてはいづこの花を歌にせん。 かすみ流るゝ舟もよし。 雲雀さへづる路もよし。 先づ試に一杯(ひとつき)の酒に問はゞや。 酒にまかせて酒に問はゞや。 夜の宮   (伯林の山田兄のために) 嵐しづまりて夜(よる)俄(にはか)に更(ふ)け 片破月はしのびやかに。 森のかげをさしのぼる。   なにに喜ぶ聲か?鼠(むさゝび)   こだまに響けばはたと消ゆ、 ...

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吉丸一昌「歌学雑考」(十一)『音楽』(明治45年)

歌樂雜考(十一)吉丸一昌 二十六 唱歌格法の變格について 正格については嘗て大略を述べた。今その變格について所見の一班を述べて見よう。纏めて順序を追うことは後にして、断片的に書き附ける。見る人その心したまへ。 唱歌の中には正格の格法よりも變格の方が數に於て遙に多い。 變格と言っても、決して出鱈目に歌詞を並べたものではない。亂雑の形式と見ゆる中にも整然たる順序は明かに立つて居る。これは曲譜を精細に味...

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2016年6月19日 (日)

剱岳測量史を新聞報道から問う(16)標高漏洩問題の周辺

剱岳測量史の話題の一つに標高漏洩問題がある。これについて新しい事実を示す新聞記事が見つかった。 陸地測量部三角科第4班による明治40年の測量成果は、明治44年発行の2万分1地形図「富山」(明治43年測図)や大正2年発行の5万分1地形図「立山」(大正元年測図)で、初めて世の中に知られることになる。 ところが、明治41年7月10日発行の大井冷光編『立山案内』に、立山・剱岳・白山の標高が陸地測量部の報告...

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2016年6月18日 (土)

剱岳測量史を新聞報道から問う(15)砂防工事と冷遇問題

立山温泉で柴崎測量隊の冷遇問題が起きたのは明治40年7月30日夕、翌31日には柴崎が新聞3紙の記者から剱岳測量について取材を受けている。 ちょうどその頃に気になる新聞記事が出ている。 8月1日『北陸政報』2面の要人動静欄「一去一来」である。 ▼宮尾砂防工師 は立山砂防地へ出張中の處事務打合の爲め昨日富山県庁に出頭し杉村土木課長に面會したり 7月31日に宮尾は立山温泉から富山市にある県庁きて、上司で...

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林古溪「詩と音楽」『音楽』5巻2号(大正3年)

詩と音樂 林 古溪 僕の考によれば、詩と音樂との關係は、もう夙にきまつてをる問題である。今更いふ必要はない、所でその極(き)まつて居る間題を更に説明して見たいといふ僕の小さな野心だ。 一言にしていへば、詩(△)は言語文字(又は文章)によつて言ひ表はされる美術である、言語文字を材料とする藝術的作品である。作るものも、之を賞翫するものも、共に言語文字を中間材料、又は媒介としてをる。音樂(△ △)は或る...

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2016年6月15日 (水)

剱岳測量史を新聞報道から問う(14)牧野新聞に見つかった『高岡新報』記事2

牧野新聞から見つかった新しい事実を見ていこう。『高岡新報』明治40年8月4日3面の「我社立山探検隊より 第四日 第五日 第六日」には次のような行程が書いてある。 立山探検隊の一行は、第四日の7月31日午前4時に室堂(標高2450m)を出発し、鏡石(2230m)姥石(1979m)を経由して弥陀ヶ原(1850m)に至り、松尾峠(標高2230m)から坂道を一気に下って午前10時、立山温泉(標高1305m...

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2016年6月14日 (火)

剱岳測量史を新聞報道から問う(13)牧野新聞に見つかった『高岡新報』記事1

柴崎芳太郎は剱岳から下山した後、明治40年7月31日、立山温泉で新聞3紙の取材を受けた。柴崎の残した記録によると、『富山日報』『高岡新報』『大阪朝日新聞』の3紙である。『富山日報』は「劒嶽攀登冐險譚」という記事が当初からよく引用されてきたが、他の2紙についてはこれまで調査が進んでいなかった。富山県内の図書館には『高岡新報』の原紙が明治43年1月以降しか所蔵されていないからだ。 今回、東京大学明治新...

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2016年6月13日 (月)

剱岳測量史を新聞報道から問う(12)立山奉幣使も砂防視察

柴崎芳太郎たちの測量隊が立山温泉で冷遇される一件は、明治40年7月30日夕に起きたとみられている。7月28日に2度目の剱岳登頂で測量標を建て、その3日後にあたる。 さて、立山雄山神社の奉幣使について新聞記事で見ていこう。政教分離でない時代で、重要な神事には県知事か事務官クラスの幹部が奉幣使として参加することになっていた。 立山雄山神社の山開き神事は明治40年7月25日に行われた。 『北陸政報』7月...

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2016年6月12日 (日)

剱岳測量史を新聞報道から問う(11)立山砂防工事の動き

剱岳測量史で避けては通れないのは、立山温泉での冷遇問題である。テント生活をしながら測量をしていた柴崎芳太郎たちが、久し振りに下山して立山温泉で宿泊しようとした際、温泉側から十分な部屋を提供してもらえなかった一件である。その背後には砂防工事で来ていた傲慢な県の役人がいて柴崎の依頼を断った、とされている。 新田次郎は、「柴崎対役人」の対立をうまく物語の展開に組み入れている。 しかしこれはどこまでが史実...

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2016年6月 9日 (木)

剱岳測量史を新聞報道から問う(10)玉井要人大尉の談話記事4

玉井要人工兵大尉が明治40年6月、『富山日報』に語った3つの談話記事の後に、関連記事がいくつかある。 まず、『富山日報』明治40年7月14日2面。「公人私人の來往」。 三角術測量起工實檢の爲め陸軍陸地測量部玉井工兵大尉、片上工兵大尉は昨日終日遊園地へ臨檢したり この記事は前述の『富山日報』明治40年6月17日3面「玉井大尉の三角測量談」の内容と符合する。 その記事では「富山市内にも撰点を爲し測量の...

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2016年6月 8日 (水)

剱岳測量史を新聞報道から問う(9)玉井要人大尉の談話記事3

玉井要人工兵大尉[1]が『富山日報』に語った3つの記事。その3つ目の明治40年6月22日の記事にようやく「劍山」が出てくる。以下これに関する記述を引用しよう。 撰点を終れば造標と通視障害木の伐採に着手す眞直の木なき高山に於ては造標を樹つる爲め三間乃至四間の丸太を擔ひ上るを要とするを以て大なる勞力を要し彼の劔山の如きは短かき丸太を擔ぎ上げて組立つるの外なかるべく事によりては之れさい不可能なるやも計り...

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2016年5月29日 (日)

剱岳測量史を新聞報道から問う(8)玉井要人大尉の談話記事2

玉井要人は、陸軍省参謀本部陸地測量部三角科第4班の班長(武官)である。柴崎の上司にあたる。 内閣印刷局が毎年度発行していた『職員録』をみると、玉井は明治40年度班員(正7位勲5等)、明治41年度に班長(正7位勲5等)である。『職員録』は毎年5月1日調べだ。一方、明治40年に柴崎が記録した点の記「(1)真川測站 景第壹號」では、班長欄に玉井の名が記載されている。玉井は明治40年度中に班長に昇格したの...

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2016年5月28日 (土)

剱岳測量史を新聞報道から問う(7)玉井要人大尉の談話記事1

著作権だけを理由に、『富山日報』の藤田午山記者が書いた「劍嶽攀登冒険譚」を見直せといっているのではない。藤田午山記者がなぜ剣岳測量登山を取材したのか、その経緯に注目すべきだといっているのである。 取材経緯は「劍嶽攀登冒険譚」の前文に記されている。それによると、藤田記者は明治40年7月30日午前4時に立山室堂を出て、浄土山と立山三山を縦走し、別山(2880m)にたどり着いた。そこで次のような行動が記...

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2016年5月27日 (金)

剱岳測量史を新聞報道から問う(6)出発点は藤田午山記者の記事

新田次郎の小説『劒岳 点の記』(1977年)のベースになった論稿がある。松村寿の「剣岳先踏前後」だ。小説のあとがきにあたる「越中劔岳を見つめながら」という紀行文で、新田は最後に松村への感謝を述べている。参考文献19編の最初には松村の論稿3編がかかげられている。国土地理院を訪ねて「点の記」の史実を発掘したのは松村だから、新田が敬意を表したのである。 松村の論稿は専門誌『山書研究』に1966年から19...

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2016年5月26日 (木)

剱岳測量史を新聞報道から問う(5)柴崎自身が語る責任感

山岡光治氏は、『地図をつくった男たち』の第14章「劔岳登頂は柴崎芳太郎に何を与えたか」の最後に、映画を撮った木村大作監督の言葉を紹介している。 「『ただ、地図を作るためだけに、献身しているのはなぜか』、当事者であっても、この問いには容易に答えられないだろう。決して名誉や、利のためではない。その彼らへの仕事の情熱に感動して、映画化を決めた」。 柴崎芳太郎 ※「本會第四大會の記」 『山岳』第6年第2号...

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2016年5月25日 (水)

剱岳測量史を新聞報道から問う(4)取材対応はまずくない

剱岳が柴崎芳太郎らによって登頂されたのは明治40年、1907年。それからちょうど百年がたつ2007年から5年間に剱岳登頂・測量史をめぐる書籍や論稿が相次いで出版された。主なものは以下の5点である。 山田明『剱岳に三角点を! ―明治の測量官から昭和・平成の測量官へ』2007年 瀬戸島政博「『劒岳 点の記』をよりよく理解するための解説」『測量』2008-2009年 五十嶋一晃『山案内人 宇治長次郎』2...

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2016年5月24日 (火)

剱岳測量史を新聞報道から問う(3)専門家の痛恨ミス

剱岳の測量登山をめぐって、歴史的事実は歪みを生じ始めている。それはなぜか。 やはり小説と映画の影響だろう。特に映像イメージはCGではなく実写であるから、無意識のうちにそれが事実であるかのような錯覚をもたらす。専門家の思い込みや早合点は、『近代測量史への旅』の石原あえか氏ばかりではない。史実と創作の違いを認識しているはずの専門家でも痛恨のミスをしてしまう。 具体例を示そう。 測量協会の識者である瀬戸...

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2016年5月23日 (月)

剱岳測量史を新聞報道から問う(2)『近代測量史への旅』の誤認

あらかじめ断っておくが、石原あえか氏の『近代測量史への旅』をすべて読むつもりはない。つまみ読んで批評するのは失礼であろうが、それでも書いておかないわけにはいかない。 石原氏は「柴崎測量隊は剱岳の〈脱神秘化〉に成功した」と書く。西洋との比較から〈脱神秘化〉という言葉をここで持ち出したようである。しかしそれは、我田引水的で一面的な見方ではないか。 柴崎たちが頂上で錫杖頭や鉄剣や木炭の破片などを見つけた...

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2016年5月22日 (日)

剱岳測量史を新聞報道から問う(1)歪められる史実

先ごろテレビで放送された映画『劒岳 点の記』に見入ってしまった。2009年に封切られた時はたんに娯楽として見たが、それから7年たち、今回は史実といかに違うのかという視点で見た。そして最後の字幕部分が「この作品を原作者に捧ぐ」だったことにひどくがっかりした。記憶はあいまいなものだ。最初に映画を見たとき、仕事一徹の測量手、柴崎芳太郎に捧げた、つまり柴崎たちを顕彰するためにつくられたものだと思い込んでい...

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2016年5月21日 (土)

吉丸一昌「久保千尋先生を弔す」(明治36-37年)

久保千尋先生を弔す 文学士 吉丸一昌 寒雲疑りて遂に雨となり蕭々として軒端を打つ、征人独り涙を垂れて故山の人を憶ふ。二十八日、臼杵新聞至る。披いて見れば 蓮咲く国には往かじ後の世も  われは御国の花に遊ばむ と一詩を吟じて白玉楼中の人となり畢ぬる我師千尋先生の音あり。痛恨何ぞ堪へむ、回顧すれば、吾十六才の春始めて国歌を先生に学びてより今年三十一身を日本文学の研鑽に委ね生命を純文学の貢献に尽すに至り...

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2016年5月20日 (金)

キンポウゲ生「越中劍岳最初の登山者に就きて」『山岳』第6年第2号(明治44年)

越中劍岳最初の登山者に就きて 立山の劍は人間が登れないと云ふので有名なやまであつた、然し同時に何とやら云ふ人が登つたと云ふ樣な口碑も可なりあつたらしい。然し近年での登山者としては柴崎芳太郎氏がはじめてゞあるとして推されて居る、もつとも同氏の登山の事實に就ては前年の第一號で吉田孫四郎氏が疑を挿 まれて居る、これに就ては前號に柴崎氏の辯解があるから對比して見らるれば自ら明かな事ではあらうと思ふ、柴崎氏...

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柴崎芳太郎_剱岳登頂疑惑への反論『山岳』第6年第1号(明治44年)

本誌五年の第一號所載 劍嶽登山の記事に就て 余は昨年東北某地の測量に従事し、四月出發、十一月業務の完成を得て、皈京せり、爾来多忙を極め、毫も書冊に親むの機會を有せず、頃者僅かに少閑を得て、聊か渉猟の事に従ふに方り、偶々本誌五年の第一號を得て、之を通覧するに吉田氏劍嶽登山の報文あり、而して文中余が同山攀登の事に關し、其の一二を議せらる、由て聊か茲に之が辨を爲す。 越中立山は、本邦高山の中に於て、特に...

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吉田孫四郎「越中劔岳」『山岳』第5年第1号(明治43年)

越中劔岳 吉田孫四郎               同行者 石崎光瑤 河合良成 野村義重 一 豪壯なる山岳 中央日本の大連嶺が、南、駿甲の界に起りて、信飛境上九宵を長驅する六十里、北、日本海の巨濤を瞰下する所、絶塞の龍城をなすか、山勢餘りて峨々天空を衝き、朔風そが巓頂の尖巖を軋り、幽澗窮谷に四時不滅の雪深し、あゝ偉なる哉、北方の峻嶺。 これを越中の平野に立ちて仰ぐ時、誰か畏敬の感に撃たれぬ者があらう...

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辻本満丸「越中劍嶽先登者に就て」『山岳』第4年第2号(明治42年)

越中劍嶽先登者に就て 今歳三月下旬、余は某友人の紹介に依り、彼の越中劍嶽先登者として有名なる、陸地測量部測量官柴崎芳太郎氏と會見し氏の登山談を拝聴せり、登山に關する事項は「山岳」 第三年第三號所載のものと大差なき故、今之を再記する必要なし、只だ一言記し置くべきは同氏が明治三十九年に於ける佐伯某なるものゝ登山(前記「山岳」参照)を否認し居らるゝことなり、其理由とする處を聞くに凡そ左の如し。 (一)柴...

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小島烏水「越中劍岳先登記」『山岳』第3年第3号(明治41年)

越中劍岳先登記 越中の劍岳は、古來全く人跡未到の劍山として信ぜられ、今や足跡殆んど遍かられんとする日本アルプスにも、この山ばかりは、何人も手を著け得ざるものとして(事實然らざりしは前項を見るべし)愛山家の間に功名の目標となれるが如き感ありしに、會員田部隆次氏は、『劍山登攀冒険談』なる、昨四十年七月末『富山日報』に出てたる切抜を郵送せられ、且つ『先日山岳會第一大會に列席して諸先輩の講演、殊に志村氏の...

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「劍ヶ峰の最初登山者」『山岳』第3年第3号(明治42年)

劍ヶ峰の最初登山者 越中の劍ヶ峯は、昔しから登ることの出來ない山としてある、余は昨年密々に此山に攀躋を試みやうと、野心を起してゐたが、病氣で中止した、去年の越中の新聞に、陸地測量部の役員が登攀せられたことが載せてあつて、余等同人は山岳會で先鞭を着けぬのを、非常に遺憾に思った、然るに一昨年(三十九年)十月刊行の『風俗畫報』第三百五十に號據ると、一昨年九月に佐伯某が探険してゐる、余等同人は、今年五月の...

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玉井要人談「三角測量に就て」『富山日報』(明治40年)

●三角測量に就て(上) 在富山市 工兵大尉 玉井要人談 三等三角点は廿町乃至一里の距離を隔てゝ粗密なく國土の全表面に配設するものにして其点に埋定する標石は地下に盤石を埋めて柱石の上部を地上に現はし其盤石の中心十字を柱石上面の十字の中心とを一致させ此中心を通過する緯度と経度を海面上よりの標高を精密に測定して國土を共に永久に保存し官民共に各種の測量基点として使用することを得る貴重なるものにして測量標條...

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玉井要人談「三角測量」『富山日報』(明治40年)

●玉井大尉の三角測量談 當市に滞在せる陸地測量部三角科第四班長玉川大尉の談に曰く『私共が今回當縣に來つて陸地を測量する目的は正確なる軍事上の地圖を作り併せて一般に用ふる地圖を製する骨子を測量するのです即ち今日我國にある地圖は何れも正確なるものではないのです私の班は富山縣を中心として越後信濃の一部分を含み更に能登半島に亘つて居ります元來此三角測量には一、二、三等の區別がありて一等三角測量とは詳細に極...

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2016年5月19日 (木)

大井冷光「劔山登攀談」『富山日報』(明治42年)

二十六日午前□時於室堂 ▲劔山登攀談▼ 前便で報じた本縣青年画家石崎光瑤君の劔山登攀談、同君は室堂で中食後直ちに温泉を下りやうと云ふので僅かの時間の立ち話をした、何にせよ一昨年の夏陸地測量部員が初めてこの山の絶巓に三角点を樹てた、苦心談が我が日報紙上に発表されると俄かに世界の呼び物となつた、而し評判ばかりが高くて今に進んでこの冒険を企てるものもなかつたが、今回予て山岳通の石崎君が其採筆に加へて写真...

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柴崎芳太郎「出張地ニ於ケル見聞ニ就テ」『三五會會報』第21号(明治41年1月)

○出張地ニ於ケル見聞ニ就テ 私ハ昨年富山縣立山地方へ出張致シマシタガ自分ノ測地内ニ劔山ト云フ山ガアリマシタ此山ハ古来嘗テ人跡ノナイ鳥モ止マル事ガ出来ヌ程ニ險岨デアルト其地方デハ言ヒ傳へテ居ル位デアリマスカラ私モ数回登山ヲ試ミマシタケレ共其都度失敗ニ帰シマシタ故ニ最早登山ヲ断念致シマシタガ配點上是非トモ此劔山ニ三角點ヲ設置セザルベカラザルヲ以テ死ヲ賭シテ最後ノ登山ヲ試ミマシタ所幸ニモ其目的ヲ達シ絶頂...

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柴崎芳太郎「出張地ニ於ケル見聞ニ就テ」草稿(明治40-41年、手稿翻刻※暫定)

出張地ニ於ケル見聞ニ就テ 私ハ昨年富山縣立山地方ヘ出張シマシタガ自分ノ測地内ニ剱岳ト云フ険岨ナル山ガアリマシタ此山ハ古來嘗テ人跡ノナイ鳥モ止ル事ガ出来ヌ程ニ険岨デアルト其地方デ云ヒ傳ヘテ居ル位デアリ舛カラ私モ数回登山ヲ試シマシタガ其都度失敗ニ皈シマシタ故ニ最早登山ヲ断念シマシタガ配点上是非トモ此剱岳ニ三角点ヲ設置セザルベカラヲ以テ死ヲ賭シテ最后ノ登山ヲ試シタガ所倖ニシテ其目的ヲ達シ其絶頂ヨリ剱ト錫...

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2016年4月26日 (火)

柴崎芳太郎「登山者の為に」(日本山岳会第4回大会講演・明治44年)

登山者の爲めに 陸地測量手 柴崎芳太郎 私共は一年に三分の二は出張し多きは山間に露営するので其土地々々の人から山官員だとか山役員とか云はれてゐる。私共の仕事は日本全國に出張して三角測量をして地圖作製にあるのだが時間を惜しむので折角高山に登つても植物など採集する事など出来ないのは残念だ。其れは三角測量をする時僅か五分の事で濃霧がかゝつて三日も四日も其處で様子を見なければならん事があるから寸刻を雖も油...

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2016年4月 2日 (土)

吉丸一昌「隆達の傳に就いて」『東亜の光』4巻5号(明治42年)

隆達の傳に就いて 文學士 吉丸一昌 小唄の元祖としての隆達が、其の文藝上に於ける價値は、暫らく措いて此處には述べない。たゞ隆達物故の年月に關して、少しく研究した所を述べて見やうと思ふ。それとても言語では煩瑣に渡るから、こゝには単にその研究の経過を御話しするに過ぎぬ。 隆達の傳記として最も古きものと見らるゝのは『堺鑑』と稱する地理書である。 隆達、元は日蓮宗の僧、當津[堺をいふ]顯本寺の寺内に住す。...

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2016年3月26日 (土)

立山剱岳白山標高記事に関する「疑問」『三五會會報』25号(明治41年)

○疑問 或出版書中標高に就ての疑問 記者 明治四十一年六月三十日富山市西三番町二十七番地清明堂書店より發行したる立山案内なる一小冊子中立山の位置と標高と表題して 立山の位置は、北緯三十六度三十分、東經百三十八度にして、越中の東微南隅、信濃の境界に近く、聳立す、高さは、越中人が、加賀の白山より馬の沓一束丈低きを恨みしは、昔のことにて、今春参謀本部陸地測量部の報告に據れば即ち左の如し。  立山 二千九...

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2016年3月19日 (土)

吉丸一昌「獨逸の尋常小學唱歌」『音楽』(大正2年)

獨逸の尋常小學唱歌 吉丸一昌 湯原校長が齎し歸られた獨逸の尋常小學校の唱歌集を見た。三部いづれも殆んど同一の教材のみで、唯排列の順序に多少の相違があるばかりてある。先づその題目の種別を立てて見ると、 一學年(通計二十一首)   教會用の祈祷歌…………………一、   民謡………………………………十、   遊戲唱歌…………………………十、 祈祷歌は修身材料とも見るべく、遊戯唱歌は、謂ゆる遊戯運動附唱歌...

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2016年3月15日 (火)

吉丸一昌没後100年に問う(4)罪悪感からの開放

吉丸一昌没後100年の節目に、遺品20点がふるさと臼杵市に寄贈された、と新聞各紙が伝えている。次男の子が思い立って祖父の故郷に返したのだそうだ。寄贈を受けた臼杵市長は「偉大な作詞家の貴重な遺稿を大切に市民に伝えていきたい」と感謝の意を述べた。臼杵市に寄贈された遺品は、長男の子がさきに寄贈した分を含めて計200点となった。これがどれほど貴重なものであるか、そして再び故郷に戻ったことにどれだけの意味が...

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2016年3月11日 (金)

吉丸一昌「歌曲雑談」『時事新報』(『音楽』2巻10号)(明治44年)

※『音楽』2巻10号(明治44年) 歌曲雑談 文学士 吉丸一昌 近頃江戸趣味の復興といふ聲が喧ましく聞え出すと同時に、此の音楽の方でも一中が好いとか、歌澤に眞の味ひがあるとか言はれて來た、然しさういふ意味は往々書画骨董に多少の趣味を見出して、それを道楽にするといふのと何の選ばない事になる。眞に文藝に携はる者の態度としては甚だ面白くない。舊い語であるが温故知新といふ考から研究的、批評的に味ふのならば...

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2016年3月 9日 (水)

吉丸一昌没後100年に問う(3)誠実で正確な情報発信を

吉丸一昌の出身地、大分・臼杵では、没後100年に第30回の吉丸一昌音楽祭が開かれるという。個人名を冠した音楽祭が30年間にもわたって開かれてきたことには頭の下がる思いである。関係者の長年の労をねぎらいたい。 吉丸一昌  『音楽』7巻4号(1916年) 一方で、臼杵がいま足りないのは吉丸一昌にかかわる情報発信である。特にWEBの世界では、吉丸にかかわる公的な情報がほとんど流通していない。吉丸一昌記念...

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2016年3月 8日 (火)

吉丸一昌没後100年に問う(2)作詞者探しを乗り越えて

《日の丸の旗》《桃太郎》《池の鯉》《かたつむり》は吉丸一昌の作詞であると論証された、とウィキペディアには記されている。どのような資料をどのように読み解いたらこの結論を導き出せるのだろうか。あらためて問いたい。 最新の尋常小学唱歌研究で、《桃太郎》と《池の鯉》は別の歌詞委員の原案が見つかり、この主張は脆くも崩れてしまった。《日の丸の旗》も複数案が見つかり、吉丸案がそのまま採用されたとみることには慎重...

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2016年3月 7日 (月)

吉丸一昌没後100年に問う(1)過小評価の見直しを

2016年は吉丸一昌没後100年である。どれだけの人がそのことを知っているだろうか。 吉丸は1916年(大正5年)3月7日未明、急性心疾患で倒れ、亡くなった。満42歳だった。死の直前、11歳になる息子を呼び寄せ、お国のためになるようと申しきかせて、残念であると言った、という。 WEB上ではこの時期、早春賦に関する書き込みが一気に増える。しかし、2016年の早春に、吉丸一昌没後100年にまで言及した...

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2016年2月12日 (金)

音楽記者倶楽部会員一覧(明治45年6月)

○音樂記者倶樂部成立 音樂に趣味を有する内外新聞記者は今回斯界振興の目的を以て音樂記者倶樂部を組織し去る二日午後四時より大森望翠楼ホテル(若尾幾造氏経営)に於て盛なる發會式を擧げ會則及び今後活動の方針に就き種々の事項の協議を爲し、最後に幹事として都の白井俊一報知の茂呂正春日々の加藤長江月刊樂譜の加川琴山四氏を選擧し一同撮影の上、食堂を開き宴酣なるに及びアトバタイザーのSchroeder氏盃を擧げて...

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2016年1月26日 (火)

吉丸一昌「歌樂雜筆」『音楽』4巻9号(大正2年)

歌樂雜筆 吉丸一昌 △日蓮宗徒の葬儀が家の前を通る。團扇太鼓の音が、トントコトコ聞えて『南無妙法蓮華経』の合唱が高らかに響く。ふと思ふ、あの歌聲は韻脚がTrocheeになって居る、強起である。我邦では、強起の曲は童謡に普通用ゐられて、『螢來い』や『蝙蝠來い』もさうである。御題目を高吟してお葬ひをするのが既に穉気を帯んで居る上に、其題目の曲調も全く童謡調そのままである。威勢が可い。日蓮宗は武士の宗旨...

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2016年1月16日 (土)

吉丸一昌「露営の夢」後書き(明治37年10月)

跋 北村季晴君、和洋の樂を極め、曩に長唄を曲譜に改めて世に公にせしが、こたび自作の歌曲をまた梓に上せたり。現時の音樂界を見るに、舊来の音樂をば下劣として輕じ、公然社會の表に立てざるにも係らず、新入の洋樂は、わが民情に適せざるもの多きが上に、邦人の擬作は唯そのシンプルソングの形式をのみ守株して、しかも全くハーモニーをさへ忘れたれば、聲調浅薄、歌曲相和せず、嚼蝋無味にして、人情の中和を喚起せむなど、か...

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北村季晴「露営の夢」緒言(明治37年10月)

緒言 ー、余の嘗て某地方に在る頃、師範及び中學校職員生徒の有志等、音樂會を催さんとて、一日余の寓を訪ひ演奏曲目の選定等に就て、余が意見を徴し、且つ曰く『今の所謂和製唱歌や軍歌は、餘りに児童向きにて、多く我等の趣味に適せず、舶来の原曲は難解なり、殊に其聲曲は、我が言語と相容れざるが如き感ありて、興そぐはず、在来の和曲には多趣味のもの少なからざれども、學習の便宜に乏しく、且つ社交の習慣上ー種の非難ある...

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2016年1月11日 (月)

湯原元一「『音樂』に望む」『音楽』1巻2号(明治43年)

『音樂』に望む 湯原元一 『音樂』は東京音樂學校學友會の機關にして、斯道名家の翼賛の下に発行するものなれば、言ふまでもなく其の紙面に於ても、飽くまでも右學友會の主義本領を発揮するを要す。決して彼の普通営利的に発行する諸雑誌の如く、一時讀者の観心を買はんとするが如き所爲あるべからず、随つて其の記する所の如きもの成るべく眞面目なる研鑽の結果を主とし彼の一時興到の作にして何等工夫を費さゞるものゝ如きは、...

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2016年1月 1日 (金)

「発刊の辞」『音楽』創刊号(明治43年)

発刊の辭 けふ明治四十三年一月五日、帝國の文運を助長するの使命を負ひて、わが『音樂』は生れたり。顧るに、わが東京音樂學校が、創めて音樂取調掛の名によりて文部省内に置かれたるは明治十二年十月にして、實に三十三年の昔なり。この間、卒業生を出すこと五百十六名にして、一年に十六名弱の割合なり。これを他の文學藝術、例へば同じき官立たる東京美術學校の、明治二十一年より二十年間の今日に至るまで七百二十名、即ち一...

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2015年11月16日 (月)

吉丸一昌「自笑録」『新日本』創刊号(明治39年)

自笑録 萬古刀庵 △我家に禍あり、憂心仲々として胸裡靡爛するか如し。歌成らず文成らず徒に膝を抱いて顧望すれば唯悲は悲みを追ひ、憂は憂を生んて極まりなきに似たり。こゝに於てか翻然筆を擲て結伽半眼し、静に三昧に入りて真吾を尋ぬ。時移りて軒端に松韻起り月影ほのかなり笑て再び筆を執れば文漸く成り歌漸く成る。文辞の巧拙は固よりわが修錬の足らざるにより才識の拙きによる、われに於て甚しく憂ふべきにあらず、唯獨り...

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吉丸一昌「修養塾の歌」『新青年』(明治35年)

修養塾の歌(薩摩琵琶歌之調) 六月中旬 文學士 吉丸春風 君が代に遇へるは誰も嬉しきを、ひとり浮世に隔てられ、日蔭の草と身をなして、馬牛(ばぎう)の足にかけらるゝ、恨を知るか白眞弓、ひきて皈らぬますらをの、矢猛け心を振り起し、むかし孫康が雪の窓、車胤が螢を集めけむ、其故事(ふること)の尊さに、同じ道踏む布留の山、人の枝折に分け行かば、高嶺の花も手折りなむ。されば警枕(けいちん)に枕し、股に錐する書...

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2015年11月15日 (日)

吉丸一昌「泡雪」『音楽』(大正3年)

泡雪 (作曲用試作) 萬古刀庵 一 寄るべなげに舞ひおつる昼の町の泡雪は、 人の袖にちりて見たれど、やがて消えて跡もなし。 二 おもふ心たゞよひて、しばし人に留まれども、 いつか消えて跡もなければ、なしと云ひて過すかな (大正三、二、七、作) 笛の聲 梅が香かをる朧夜の 枝折戸出づる笛の聲。 如何なる殿の公達か 優にやさしきすさびやと、 窺ひよれば、アハハ 杖をついたる按摩かな。 (大正三、二、十...

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2015年11月13日 (金)

吉丸一昌「弱法師」『帝国文学』9巻11号(明治36年)

弱法師 吉丸萬古刀 庭の樹のつくつく法師弱法師くるしと今日も泣きまどふなり 吹き入るゝさんざ松風つま音に其角の酒を酌むは誰が子ぞ をみな神に衣縫へ吾妹櫻雨けふ降り来れば春あせぬべし 葉かくれに夕顔淡きませの内にすさみの小歌人なつかしき ※『帝国文学』9巻11号(明治36年11月)

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吉丸一昌「紅桃」『帝国文学』9巻8号(明治36年)

紅桃 吉丸萬古刀 いろに出てゝ少女の戀や咲きぬらむ村はみなから紅桃の花 ○ 故郷の麻地の酒の香も忘れ忘られはてし人も忘れし ○ 酔ひぬれと舞ふすべしらに庭の池の小鯉にまねて我舞ふらんか ○ 天の原月より落つる夕風に妹か珠衣さゐさゐに鳴る ○ 夕月のかの高殿の琴の音に今宵もつゝくこほろぎの聲 ※『帝国文学』9巻8号(明治36年8月)

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吉丸一昌「弦月集」『帝国文学』8巻1号(明治35年)

弦月集 萬古刃庵 軒の端に三日月細き夕暮を二上り謡ふ紅梅の宿。 夕烟おぼろに靡く杉村の樹の間を出づる追分の歌。 夜もすがら雪に雪降る丸窓のあかしに映る二本の竹。 つかさびと何にかすらん権現の森の杉の木こごとに伐る。 月は明しいで踊の輪をつくれ鎮守の太鼓借りて来ぬべく。 妹が住む向ひの岡の松風に通へとそ思ふさをしかの聲。 蚊の呻厩(うなり)の軒に暮れそめて白く咲きたる夕顔の花。 燧打つ男やもめの太郎...

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吉丸一昌「ひともと松」『帝国文学』6巻6号(明治33年)

ひともと松 萬古刀庵 ◎常陸風土記に、古老曰く、沼尾池は神世に天より流れ来し水沼なり云々。 *同風土記に童子女(をとめ)松原の奈美松吉津松の神経談あり、歌は松に化(な)りし二人の男女の唱和したるもの。 天つ空より流れ来る。◎沼尾の池のさゞなみに、 葦の葉船を浮ばせて、一人の神ぞあもりける。 天つ御國の戀の神、今人の世にすらふを、 迎へまつらんとまぎたまふ。 尾の上の白雲を分けてを往けど、 もみ流る...

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«吉丸一昌「高三隆達と隆達節」『白百合』4巻1号(明治39年)

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